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  • 豊臣秀吉
 2017/11/16

【家系図】天才軍師・竹中半兵衛の血脈は途絶えていなかった!

九枚笹

竹中半兵衛と言えば、豊臣秀吉が「三顧の礼」をもって召し抱えたと伝わるほどの天才軍師として名高い。 しかし、あまりに存在感があり、しかも早世してしまったために、その後の血脈がどうなったかという点にはあまりスポットライトが当たらないようである。

今回は、そのあまり触れられることのない子孫について紐解いてみたい。
(文=pinon)

竹中氏は平氏?

竹中半兵衛の出自には諸説あるが、清和源氏土岐氏の支流長江氏から興った岩手氏の分流であるという説が有力であるようだ。

竹中氏が土岐氏の支流を称していたということもあるが、『美濃国諸家系譜』第6冊所収の「竹中家譜」を吟味すると特に不自然なところが見当たらないことから信憑性が高いとされているものと思われる。

ただ、長江氏の系譜にはもう1つの説がある。それは、桓武平氏良文の流れを汲む鎌倉景正を祖とする鎌倉氏の分流であるというものである。

こちらの説を取れば、長江氏は土岐氏の支流ではなく土岐氏に随行して美濃に在住するようになったということになる。 歴史学者の太田亮氏は、その著書のなかで「長江氏を鎌倉平氏の族類なりと云ふも疑ふべし。」と述べて、長江氏=鎌倉氏説を否定している。

ちなみに美濃に関わる長江氏は、鎌倉氏を祖とする今須長江氏と土岐氏を祖とする美濃長江氏が存在していることには注意が必要である。太田氏は今須長江氏と美濃長江氏は別物であると述べているのである。

ところで、土岐頼貞は平氏である執権北条貞時の娘を妻にしているから、その子孫には平氏の血が流れていることになる。 ということは、今須長江、美濃長江どちらの説をとったとしても竹中氏には平氏の血が入っているわけである。

美濃への土着

『美濃垂井宿妙応寺所蔵長江系図』によれば、鎌倉景正は源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府成立に大きく貢献しただけではなく、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州征伐でも活躍。 その戦功により奥州桃生郡南方の深谷保を拝領し、頼朝の絶大な信頼を得ていたという。 この景正の嫡男師景は承久の乱に出陣して軍功を立て、美濃国不破郡今須の地を拝領する。これが今須長江氏の始まりとされる。

その系譜は室町時代となっても続いたが、応仁の乱の際に一家離散となったと伝わる。

一方、『美濃国諸家系譜』などの系図には、美濃長江氏は美濃守護であった土岐頼貞の子長山遠江守頼基の孫である頼慶が、長江を称したことに始まると記されている。

さて、これらの系図によると、2種類の長江氏が美濃に存在していたことになるのだが、実のところはどうだったのであろうか。

ちなみに鎌倉氏系の長江氏が美濃に遷住したという記録は、先の『美濃垂井宿妙応寺所蔵長江系図』のみであることから、その信憑性が疑問視されている。

そんな訳で竹中氏につながる長江氏は土岐氏の一族であろうというのが有力な説となっているのだ。

ところが、美濃長江氏に関する史料を紐解くと、美濃守護代富島備中守高景という武将が一族の中にいたことがわかる。「景」の通字は今須長江氏に多くみられるものであるから、土岐氏と今須長江氏との間に通婚による結びつきがあった可能性は0ではないだろう。

また、今須長江氏の方の系図にも師景から数えて12代目貞明、13代目貞澄に「貞」の通字が急に現れる。 「貞」は、美濃長江氏につながる土岐頼貞に偏諱を受けたものであるという可能性はないだろうか。

両家のつながりを証明するものが存在しないので何とも言えないが、武家社会において偏諱は非常に重要であったから、気まぐれでいきなり景や貞の字を付けたりすることは考えにくいのだ。

ともかく、長江頼慶の弟である源助頼重から岩手氏と竹中氏が分かれたという系譜であるようだ。

美濃への遷住については、もっとスケールの大きな説もある。 大友氏の系図によると、豊後大友氏の始祖・能直の孫の戸次三郎重秀の子が竹中掃部助親直であるという。 親直の子が美濃の竹中掃部頭頼直だというのだが、豊後から美濃への遷住を証明する史料がないため真偽のほどは定かでない。

半兵衛の子孫は旗本として生き残った

秀吉配下で天才軍師として活躍した竹中半兵衛が若くして病で亡くなったため、その子孫もその後絶えたと思われがちであるが、事実はそうではない。

もっとも、半兵衛の子は重門一人であったから下手をすると重門の代で絶える可能性があった。 しかし、幸運なことに嫡男重門は健康体であり、長じては半兵衛譲りの知略を持ち合わせた武将になったという。

父半兵衛は特に兵法の教育には厳しかったと伝わる。 『武辺咄聞書』によると、重門が子供の頃、軍物語を教えている時に急に席を立ったことがあったという。 その理由が小用だと知った半兵衛は「小便が催しなばなど座敷にて致さぬぞ、竹中が子息武辺の物語に聞入れ、立事を忘れて居ながら小便まりしといはれなば、我家の面目也」と叱ったという。

要は軍談に夢中になり小便を漏らしたとしても我が家の面目だといったところか。 『武辺咄聞書』は一次史料ではないから、信憑性に疑問符がつくのはもちろんだが、話を差っ引いて考えても半兵衛が重門に厳しく兵法を教え込んだであろうことは想像に難くない。 父半兵衛が1579年、重門がまだ6歳の時に死去した後は、父の従弟である竹中重利の後見を受ける。 豊臣秀吉に仕えた重門は小田原征伐などに参加し、その功により美濃国不破郡5000石を拝領する。その後朝鮮出兵の功により1000石を加増されたという。

重門が父半兵衛譲りの軍略を見せたのは関ヶ原の合戦においてであったと私は考えている。 重門は当初、豊臣家への忠義から石田三成率いる西軍についたが、東軍の武将井伊直政の仲介により何と東軍に鞍替えする。 この電撃的な鞍替えの裏には、幼なじみであった黒田長政の説得があったと思われる。 長政は秀吉の軍師黒田官兵衛の嫡男であり、父譲りの知略と勇猛果敢さで知られた武将である。

実は黒田家は竹中家に恩義があった。 長政がまだ幼い頃、官兵衛が織田信長に反旗を翻した荒木村重を説得に向かい囚われの身になってしまったことがある。 中々戻ってこない官兵衛に、信長は官兵衛が裏切ったと判断し人質であった長政を殺すよう秀吉に命じたのである。

勘兵衛を信じていた秀吉は困り果てて、半兵衛に相談したところ「私が首をはねましょう」と表向きは言いながら、密かに長政を匿ったという。その後、救出され命からがら戻ってきた勘兵衛はわが子を匿ってくれた恩を生涯忘れなかったと言われている。

そういう経緯もあり、重門と長政は仲が良かったようなのである。 関ヶ原においては、井伊直政が説得に入る前に長政が重門を翻意させていたというのが定説らしい。 しかし、私は少々異なった仮説を持っている。

当初は秀吉に対する恩義から西軍につこうと考えたことは本当だろう。 そして、その戦力からすると西軍がやや有利という情報も掴んでいたのではないか。

ところが、長政は東軍につき、西軍の諸将の調略を盛んに行い始めたのである。長政はその情報を重門に伝えていたものと思われる。おそらく、長政の調略情報から割と早い段階で西軍が敗れることを重門は予測していたのかもしれない。

しかしながら、三成の居城佐和山城と重門の居城菩提山城は近かったから、下手に東軍につこうものなら菩提山城に三成の軍勢が押し寄せてくる恐れがあったとは考えられないだろうか。

事実、『七月二十六日付田中吉政宛徳川家康書状』によると、1600年7月18日に家康が上杉討伐を中止し、挙兵した三成と対峙すべく西進し始めた際の戦略目標は佐和山城であった。これは推測の域を出ないが、おそらくこの情報は長政を介して重門にもたらされたのではないだろうか。

重門の所領は美濃国不破郡及・河内合わせて6000石であったから、最大動員兵力はどんなに多く見積もっても1000人に満たないであろう。戦闘に巻き込まれれば、あっというまに壊滅する可能性もあるほど心もとない兵力である。

このことを考えると、その後重門が稲葉貞通ら美濃衆と犬山城で籠城したのもわかるような気がする。 犬山城は尾張と美濃の境にある城であり、佐和山城や大垣城からは距離がある。これなら東軍に寝返っても、即西軍に攻め込まれる心配はない。

『八月十九日付井伊直政・本多忠勝宛黒田長政他二名連署書状』によると、この時期黒田長政らは犬山城方面へ進軍することを井伊直政らに対して報告していることは大変興味深い。おそらくはこの時点で井伊直政に重門の件について根回しをしたのではないか。

この後東軍の中村一忠・一栄の軍勢が犬山城に攻撃を仕掛けるが、さしたる抵抗も見せず井伊直政に内応の密書を送っているところを見ると、重門をはじめとする籠城組は最初から東軍に鞍替えするつもりだったのではないだろうか。

この一連の動きに重門の知略が存分に生かされたというのが私の見立てである。

その後、重門は菩提山城を家康に提供し、9月15日関ヶ原本戦では黒田長政隊として活躍する。 自分の所領である関ヶ原で決戦が行われたため、長政は地の利を知り尽くした重門の判断に多分に助けられたであろうし、重門は東軍寝返りをサポートしてくれた長政のため必死で功を上げようとしたであろう。

実際、東軍勝利後の9月19日伊吹山で小西行長を捕縛するという大功を上げ、家康から直筆の感状を賜っている。

この働きにより、重門は美濃国不破郡などの本領6000石を安堵され、旗本(交代寄合)として存続する。 旗本竹中家は江戸時代を通じて存続し、14代重明は明治維新後一時北海道に渡るが、後に郷里の美濃岩手に戻り、養子の重時はその後岐阜県会議員を務めたという。 15代重固(しげかた)は幕府陸軍奉行を務め、戊辰戦争においては函館戦争に参加するも投降し、許された後は殖産事業に尽力したことがわかっている。

18代目当主竹中重雄氏

重固の後も竹中家は存続し、現在の当主は18代重雄氏である。 重固より後、竹中家は士族から平民となったようで重固の娘・鶴が雛人形や五月人形を作る人形師となったという。 これが重雄氏の祖母だという。

祖母から数えて重雄氏は人形師3代目となる。 その屋号は「鶴屋半兵衛」だそうである。

半兵衛傍系の子孫は

重門の後見人を務めたのは重利であると先に書いたが、この重利は後に秀吉から豊後高田2万石の地を拝領する。

関ヶ原の合戦の際には、重門同様当初は西軍につくが、黒田勘兵衛に説得され東軍に鞍替えする。 この判断により重利は家康より本領安堵されたのである。ところが2代目重義の代に密貿易が発覚し御家断絶となってしまう。

あとがき

竹中半兵衛の嫡子は重門のみでありながら、結果的には現在までその血脈を繋いでいるということには驚かされる。

関ヶ原の合戦や戊辰戦争など、運命を分けるターニングポイントにおいて最終的には命を長らえる判断を下していることが見てとれるが、ひょっとしたら半兵衛の軍学の根幹は「生き残るべし」というものだったのかもしれない。

参考文献 ・大森映子『お家相続 大名家の苦闘』角川選書 2004年 ・谷口克広『豊臣軍団武将列伝 竹中半兵衛・中川清秀』歴史群像 2014年 ・池内昭一『竹中半兵衛のすべて』新人物往来社1996年 ・『戦国最強の軍師黒田官兵衛と竹中半兵衛』 洋泉社MOOK 2014年



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