竹中半兵衛の血脈は途絶えていなかった!源平のルーツから現代へ続く、竹中家系図と子孫の軌跡

  • 2026/02/09
竹中半兵衛の菩提寺「禅幢寺(ぜんどうじ)」(出所:photoAC)
竹中半兵衛の菩提寺「禅幢寺(ぜんどうじ)」(出所:photoAC)
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 竹中半兵衛と言えば、豊臣秀吉が「三顧の礼」をもって召し抱えたと伝わるほどの天才軍師として名高い。しかし、あまりにその存在感が強烈であり、しかも30代半ばにして世を去ってしまったために、その後の血脈がどうなったかという点には、これまであまりスポットライトが当たってこなかったように思う。

 果たして、天才軍師のルーツはどこにあり、その血は激動の時代をどう生き抜いたのか。紐解いてみれば、そこには源平の謎に包まれた一族の足跡と、父譲りの知略で家を守り抜いた子孫たちの執念が見えてくる。

 今回は、これまであまり触れられることのなかった竹中氏の系譜とその末裔たちについて、詳しく紐解いてみたい。

竹中半兵衛の全体像(生涯・人物像・主な合戦など)を知りたい方はこちらの「竹中半兵衛の解説記事」をご覧ください。

竹中氏のルーツは平氏?

 竹中氏の出自を辿ると、まず「源氏か平氏か」という大きな分岐点にぶつかる。これには主に二つの説が存在し、今なお歴史ファンの好奇心を刺激して止まない。

 竹中半兵衛の出自には諸説あるが、有力とされるのが、清和源氏土岐氏の支流である「長江氏」から興った「岩手氏」の分流とする説(美濃長江氏の説)だ。

 竹中氏が土岐氏の支流を自称していた背景もあり、『美濃国諸家系譜』所収の「竹中家譜」を精査しても、その流れに特段の不自然さは見当たらない。この整合性の高さが、説の信憑性を裏付けている。

 一方で、長江氏の系譜にはもう1つの説がある。それは桓武平氏の流れを汲む鎌倉景正を祖とする「鎌倉氏」の分流とする説だ。こちらの説を採れば、長江氏は土岐氏の支流ではなく、土岐氏に随行して美濃へ入った一族ということになる(今須長江氏の説)

 歴史学者の太田亮氏は、その著書の中で「長江氏を鎌倉平氏の族類とするのは疑わしい」と述べ、鎌倉氏説を否定。美濃には、土岐氏を祖とする「美濃長江氏」と、鎌倉氏を祖とする「今須長江氏」が別個に存在していたと指摘している。

 ここで気づいたのは、土岐氏の中興の祖・土岐頼貞は、平氏の執権・北条貞時の娘を妻にしているから、子孫には平氏の血が流れていることになる。つまり、どちらの説を採ったとしても、竹中氏には必然的に「平氏の血」が流れ込んでいるわけである。

美濃への土着

 一族がいかにして美濃に根を張ったのか。その過程もまた、複数の系図が入り乱れている。

 『美濃垂井宿妙応寺所蔵長江系図』によれば、鎌倉景正は源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉幕府成立に大きく貢献しただけではなく、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした奥州征伐でも活躍。その戦功により奥州桃生郡南方の深谷保を拝領し、頼朝の絶大な信頼を得ていたという。

今須長江氏 説の略系譜
  • 鎌倉景正
  • …(中略)
  • 長江義景
  • 岩手重久
  • 竹中重氏

 この鎌倉景正の嫡男・師景は承久3年(1221)の承久の乱で軍功を立て、美濃国不破郡今須の地を拝領したのが今須長江氏の始まりとされる。その系譜は室町時代となっても続いたが、応仁の乱の際に一家離散となったと伝わる。

 一方、『美濃国諸家系譜』などの系図では、美濃長江氏は長山頼基(土岐頼貞の九男)の孫である頼慶が、長江を称したことに始まると記されている。

美濃長江氏 説の略系譜
  • 土岐光衡
  • …(中略)
  • 土岐頼貞
  • 長山頼基
  • 岩手満頼
  • 長江頼慶
  • …(中略)
  • 竹中重氏

 さて、これらの系図によると、2種類の長江氏が美濃に存在していたことになるのだが、実のところはどうだったのか。ちなみに鎌倉氏系の長江氏が美濃に遷住したという記録は、先の『美濃垂井宿妙応寺所蔵長江系図』のみであることから、その信憑性が疑問視されている。

 という訳で先に述べたように、竹中氏につながる長江氏は土岐氏の一族であろうというのが有力な説となっているのだ。

2つの長江氏のつながり

 ところで、美濃長江氏に関する史料を紐解くと、「美濃守護代富島備中守高景」という武将が一族の中にいたことがわかる。

 「景」の通字は今須長江氏に多くみられるので、土岐氏と今須長江氏との間に通婚による結びつきがあった可能性はゼロではないだろう。

 また、今須長江氏の方の系図にも、土岐氏ゆかりの「貞」の字を冠した当主が突如現れる。武士にとって名前の一字(偏諱)を交わすことは、強固な結びつきの証だ。両家のつながりを証明する史料はないものの、両家が全くの無関係だったとは考えにくい。

 両家は通婚や偏諱を通じて深く交わり、その流れの中から岩手氏、そして竹中氏が分かれ出たというのが、歴史の実相ではないだろうか。

 なお、美濃への遷住については、もっとスケールの大きな説もある。大友氏の系図によると、豊後大友氏の始祖・能直の孫の戸次三郎重秀の子が竹中掃部助親直であるという。親直の子が美濃の竹中掃部頭頼直だというのだが、豊後から美濃への遷住を証明する史料がないため、真偽のほどは定かでない。

重元流(直系)と重光流(傍系)に分かれた竹中氏。※子は右から順に記載
重元流(直系)と重光流(傍系)に分かれた竹中氏。※子は右から順に記載

関ケ原で活躍した半兵衛の嫡男「重門」

 秀吉の配下で天才軍師として活躍した竹中半兵衛の死後、竹中家が消滅の危機を乗り越えられたのは、嫡男・重門(しげかど)の存在があったからに他ならない。

 竹中半兵衛が若くして病で亡くなったため、その子孫も途絶えたと思われがちであるが、事実はそうではない。もっとも、半兵衛の子は重門(しげかど)一人だけだったので、竹中家消滅の危機ではあった。しかし幸運なことに、重門は健康体であり、長じては半兵衛譲りの知略を持ち合わせた武将になったという。

 父・半兵衛は特に兵法の教育には厳しかったと伝わる。

 『武辺咄聞書』によると、重門が子供の頃、軍物語を教えている時に急に席を立ったことがあった。その理由が小用(トイレ)だと知った半兵衛は叱ったという。

「小便が催しなばなど座敷にて致さぬぞ、竹中が子息武辺の物語に聞入れ、立事を忘れて居ながら小便まりしといはれなば、我家の面目也」

訳:「小便がしたくなったからといって、なぜ(軍談の最中に)中座して、座敷の外などで致そうとするのだ。竹中の息子が武辺(軍物語)の話に聞き入り、席を立つのも忘れて居ながらにして小便を漏らしてしまったと(世間に)言われるのであれば、それこそ我が家の名誉である」

 このような苛烈なまでの英才教育が、重門を「生き残るための知略」を備えた武将へと育て上げたのだろう。

 半兵衛が天正7年(1579)に死去したとき、まだ6歳だった重門は、父の従弟である竹中重利の後見を受ける。やがて秀吉に仕えた重門は、小田原征伐(1590)などに参加し、その功により美濃国不破郡5000石を拝領。その後、朝鮮出兵の功により1000石を加増されたという。

 重門がその真価を発揮したのは、慶長5年(1660)の関ケ原の戦いだと私は考えている。当初、重門は豊臣への忠義から石田三成率いる西軍に属したが、後に東軍へと電撃的な転身を遂げる。

 この裏には、幼馴染であった黒田長政の説得があったと思われる。かつて信長が勘違いで黒田官兵衛のことを裏切りと判断し、まだ幼かった長政の処刑を命じたことがあった。この際に長政は半兵衛の機転によって匿われ、その命を救われている。その「恩義」がここで実を結んだのだ。こうした経緯もあり、重門と長政は仲が良かったようなのである。

 関ヶ原においては、井伊直政が説得に入る前に長政が重門を翻意させていたというのが定説らしいが、私はここに重門自身の冷徹な計算があったと見ている。

竹中重門陣跡(出典:wikimedia)
竹中重門陣跡(出典:wikimedia)

 重門は、長政からもたらされる情報から、いち早く「西軍敗北」を予測していたのではないか。自分の居城・菩提山城は三成の佐和山城に至近であり、小さな兵力で軽率な寝返りは即座に滅亡を招く。そこで重門は、寝返りを想定して一旦は犬山城に籠城して西軍としての形を保ちつつ、水面下で東軍の井伊直政と交渉したと思われる。

 『八月十九日付井伊直政・本多忠勝宛黒田長政他二名連署書状』によると、この時期に黒田長政らは犬山城方面へ進軍することを井伊直政らに対して報告していることは大変興味深い。おそらくはこの時点で井伊直政に重門の件について根回しをしたのではないだろうか。

 敵を引き付けながら、最も安全なタイミングで内応を果たしたこの一連の動きに、重門の知略が存分に生かされたというのが私の見立てである。

関ケ原での美濃周辺要所。色塗部分は美濃国。青マーカーは東軍(徳川方)、赤は西軍(石田方)の城。

 関ヶ原本戦では黒田長政隊として活躍、東軍勝利後に逃亡した小西行長を伊吹山で捕縛するという大功を上げ、家康から直筆の感状を賜っている。

半兵衛の子孫は旗本として生き残った

 関ケ原での功績により、重門は美濃国不破郡などの本領6千石を安堵され、旗本(交代寄合)として存続する。

 江戸時代を通じて旗本竹中家は存続し、14代重明は明治維新後に一時北海道に渡るが、後には郷里の美濃岩手に戻り、養子の重時はその後に岐阜県会議員を務めたという。

 また、15代重固(しげかた)は幕府陸軍奉行を務め、戊辰戦争においては函館戦争に参加するも投降し、許された後は殖産事業に尽力したことがわかっている。

竹中重固の肖像(出典:wikipedia  パブリックドメイン)
竹中重固の肖像(出典:wikipedia パブリックドメイン)

※参考:竹中氏の歴代当主
  • 重氏(初代)
  • 重元(2代)
  • 重治(半兵衛、3代)
  • 重門(4代)
  • 重常(5代)
  • 重高(6代)
  • 重長(7代)
  • 重栄(8代)
  • 元敏(9代)
  • 元儔(10代)
  • 重寛(11代)
  • 重光(12代)
  • 重知(13代)
  • 重明(14代)
  • 重固(15代)

現在の当主は18代目・竹中重男氏

 重固の後も竹中家は存続し、現在の当主は18代重男氏である。明治維新の後、竹中家は士族から平民となったようで重固の娘である「鶴」が雛人形や五月人形を作る人形師となったという。

 この鶴が重男氏の祖母だという。祖母から数えて重男氏は人形師3代目で、その屋号は「鶴屋半兵衛」だそうである。

傍系の子孫はどうなった?

 重門の後見人を務めたのは重利であると先に書いたが、この重利は後に秀吉から豊後高田2万石の地を拝領する。

 関ヶ原の合戦の際には、重門同様に当初は西軍につくが、黒田勘兵衛に説得されて東軍に鞍替えする。この判断により重利は家康より本領安堵されたのである。ところが2代目重義の代に密貿易が発覚し御家断絶となってしまっている。

あとがき

 竹中半兵衛の嫡子は重門のみでありながら、結果的には現在までその血脈を繋いでいるということには驚かされる。

 関ヶ原の合戦や戊辰戦争など、運命を分けるターニングポイントにおいて最終的には命を長らえる判断を下していることが見てとれるが、ひょっとしたら半兵衛の軍学の根幹は「生き残るべし」というものだったのかもしれない。

竹中半兵衛の全体像(生涯・人物像・主な合戦など)を知りたい方はこちらの「竹中半兵衛の解説記事」をご覧ください。

【参考文献】
  • 谷口克広『歴史群像 豊臣軍団武将列伝 竹中半兵衛・中川清秀』(学研プラス 2014年)
  • 池内昭一『竹中半兵衛のすべて』(新人物往来社 1996年)
  • 大森映子『お家相続 大名家の苦闘』(KADOKAWA 2004年)
  • 『歴史REAL 戦国最強の軍師黒田官兵衛と竹中半兵衛』(洋泉社 2013年)
※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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戦ヒス編集部
読者さまから2022年9月3日に届きました声を以下にご紹介します。

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こちらでは重固のあと、三女のつるさんが改姓により竹中を継ぎ現在に至る旨が記載されていますが、もうおひとり、姫路や垂井の行事に公式に参加されている竹中半兵衛の子孫がいらっしゃることをご存知でしょうか?

その方が、半兵衛とどこで関わるのかは調査しておられませんか?人形師の方と、どちらが本流なのでしょうか?
2024/01/25 11:14