「お市の方」二度の落城と誤算。信長の妹はなぜ、秀吉の台頭を見逃したのか?
- 2026/01/09
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二度も落城を経験、最期は自害という壮絶な結末を迎えた彼女について、史料はどのような人物だと示唆しているであろうか。
出自・生年・名前など諸説あり
定説によると、お市の方は天文16年(1547)、織田信秀を父として尾張に生を受けたとされる。しかしながら、これには諸説ある。まず生年についてだが、実は当時の明確な記録が残っているわけではない。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで敗北した柴田勝家と共に、越前・北ノ庄城で自害した時の年齢が37歳と伝わっている。現在語られる生年は、その享年から逆算して導き出された推測に過ぎないのだ。
また、父を織田信秀、母を土田御前とする「信長の妹」説が定説ではあるが、これにも異説が存在する。『織田系図』や『以貴小伝』といった史料では、彼女は信長の妹ではなく「従姉妹」として記されている。さらにこれを裏付けるかのように信長の叔父・信光の娘であるという説まである。もしそれが事実ならば、彼女と信長の関係性は世間で思われているものとは少なからず異なっていたことになる。
そもそも、名前自体にも異説がある。江戸時代の書物『好古類纂』に収録された織田家の系譜には、彼女の名は「秀子」と記されているという。戦国一の美女の出発点は、今なお謎の霧の中に隠されているのである。
浅井長政との政略結婚
お市の方の人生を大きく変えたのは、北近江を治める浅井長政との婚姻である。しかし、この信長と長政の同盟がいつ結ばれてお市が嫁いだのかという点についても、史料にははっきりとした記述が存在しない。通説では永禄10年(1567)、もしくは翌年の永禄11年(1568)に、美濃・福束城主であった市橋長利を介して、浅井家へ嫁いだということになっている。ところが、ここで前述の「1547年生まれ説」を当てはめると、嫁いだ当時の年齢が20歳前後ということになり、不自然という指摘もある。これは当時の女性の初婚年齢が13歳~14歳だったからである。
このことから、お市の方の生年が実際には異なるのか、あるいは浅井家への嫁入りが彼女にとって初婚ではなかったのではないか、という可能性も浮上している。事実、近年では、長政との婚姻時期を永禄4年(1561)頃とする説も提唱されているという。
浅井長政という武将は、最終的に「朝倉氏に肩入れする父・久政を説得できず、義兄である信長を裏切り、浅井家を滅亡に追いやった」という結果から、どこか優柔不断で、時勢を読み違えた武将として、あまり芳しくない評価を受けることが多い気がする。
しかし、史料を丹念に読み解けば、長政が断して凡庸な人物ではなかったことがわかる。元服して間もない15歳の頃、六角氏との「野良田の戦い」で見せた指揮官としての采配は見事なものであり、敵軍を撃破したと伝わっている。この目覚ましい活躍に多くの重臣たちが心酔し、六角氏からの独立を望む家臣らの中には、旧態依然とした父・久政を強制的に追放し、若き長政を当主に据える者まで現れたという。
さらに、長政は単なる武勇一辺倒の武将でもなかった。北近江の領民は当時、自主独立の気概が旺盛であり、統治が難しい地であったが、長政は彼らを力で抑え込むことはしなかったという。領民の声に真摯に耳を傾ける長政に対し、領民たちも次第に信頼を寄せるようになったと伝えられる。このように、長政は戦だけでなく、内政にも長けた名君としての素質を十分に備えていたのだ。
市と長政は、政略結婚でありながらも、総じて仲睦まじい夫婦であったようだ。二人の間に、茶々・初・江という後の歴史を左右する三人の娘が生まれた。しかし、ここにも興味深い異説がある。長女の茶々(のちの淀殿)だけは、長政との間に生まれた娘ではないというのだ。浅井家の公式な歴史書である『浅井三代記』には、なぜか茶々の誕生に関する記述だけが欠落しているという事実が、その説の根拠となっている。
夫・長政の裏切り
実は信長と長政が同盟を結ぶ際、ある条件があったという。それは「織田家は朝倉家とは戦をしない」という誓約であったというのが定説である。当時、信長と15代将軍・足利義昭との関係は良好であったが、越前の朝倉義景が上洛命令を拒否したことで、事態は急変する。義景が命令を拒んだのは、義昭の背後に信長がいたからだった。新興大名である信長に服属するのを嫌がったのもあるが、義景には長期間にわたって越前を留守にできないという切実な内政的事情もあったという。対する信長もまた、美濃と京の往来を遮断できる戦略的要衝である越前を服属させたいという野心を抱いていたと思われる。義昭の二度にわたる上洛命令が拒否されたのを受け、信長はついに越前征伐の断行を決意する。
元亀元年(1570)、織田・徳川連合軍は越前に侵攻を開始。金ヶ崎城などの支城を次々と落とし、破竹の勢いで進軍する連合軍のもとに、衝撃の凶報が舞い込む。浅井長政が朝倉に寝返ったのである。
当初、信長はこの知らせを全く信じなかったという。『信長公記』には、信長が「虚説たるべき(嘘に違いない)」と述べたことが記されている。冷徹な信長には珍しい反応だが、それほど長政を信頼していたということだろう。ところで、この「長政裏切り」の第一報は、一体誰がもたらしたのか。史料には二通りの記述が存在している。
『朝倉家記』によれば。市が「紐で両端を結わえた小豆袋」を信長に送り、袋の鼠であることを示し、長政の裏切りを伝えたとある。一方、『朝倉記』では、この当時、近江方面の諜報活動を担っていた松永久秀が浅井方の不審な動きを察知し、報告したという。
前者の小豆袋の説は、大河ドラマ等でも定番の演出であり、非常に認知度が高い。しかしこの記述の信憑性は極めて低く、後世の創作であるというのが一般的な見解である。後者の松永久秀による報告の方が一見もっともらしいが、これもまた信憑性に疑問を呈する専門家も多く、真実は依然として不明なままである。
私は、この二つの記述はどちらも正しいのではないかと睨んでいる。信長は意外にも慎重な性格で、久秀の報告をそのまま受け取るのは危険だと感じていたが、そんな時に実の妹である市からも同様の報告があったため、信長は確信したのではないだろうか。
小谷城炎上
ともあれ、長政の裏切りを事実と認めた信長は、即座に撤退を命じる。これこそが世に言う「金ヶ崎の退き口」である。
この際、殿(しんがり)としてこの死地を成功に導いたのが、羽柴秀吉と明智光秀であった。命からがら京へ退却した信長は、すぐに陣容を立て直し、浅井・朝倉連合軍の追撃に備えた。続く姉川の戦いで辛くも勝利を収めた信長は、第一次信長包囲網に苦しみながらも、着実に浅井・朝倉を追い詰めていった。
天正元年(1573)、ついに決着の時が訪れる。一乗谷の戦いで朝倉氏を滅亡させた信長は、軍を返して長政の籠る小谷城へと攻め寄せた。最期の瞬間が迫っていることを悟った長政は、市に対し、娘たちと共に城を脱出するよう諭したという。最初は夫と共に自害する決意を固めていた市も、長政の必死の説得を受け入れ、織田方の手引きによって三人の娘と共に城を後にした。これが、彼女が経験した一度目の落城である。
その後、市と娘たちは信長の弟である織田信包の庇護を受け、清州城で生活を始めたというのがこれまでの定説であった。ところが、最近の研究によれば、信長の叔父である織田信次に預けられたとする説が有力になりつつあるという。しかし、その信次も天正2年(1574)9月に戦死してしまったため、その後の市は岐阜城へと移り住んだようである。
兄・信長のもとで、彼女はしばしの平穏を得たかのように見えた。
柴田勝家との再婚
天正10年(1582)、歴史を揺るがす大事件が発生する。明智光秀による謀反、いわゆる「本能寺の変」により、市の唯一の盾であった兄・信長がこの世を去った。しかし、反旗を翻した光秀もまた、備中高松城から驚異的な速度で戻ってきた秀吉により、山崎の戦いで敗れ去る。信長の弔い合戦を制した秀吉は、その後に行われた清洲会議においても決定的な主導権を握ることとなったとされる。
この会議の様子についても、興味深い新説がある。従来は、信長の三男・信孝を推した柴田勝家が、嫡男・信忠の息子である三法師を推す秀吉に圧倒されたというのが定説であった。ところが、実は勝家自身も三法師推しに異論はなかったという説が浮上しているのだ。
歴史学者の柴裕之氏によれば、勝家が秀吉に対抗するために信孝を推したという話は、江戸時代に書かれた『川角太閤記』による創作である可能性が高いという。『川角太閤記』は本能寺の変から40年も経過した後に記された軍記物であり、物語的な脚色が強く、史実としての信憑性には疑問符がつくからであろう。
そして、この清洲会議にはあまり語られないもう一つの重要な議題があった。それは、柴田勝家とお市の方との再婚の承諾である。これも従来は信孝の仲介によるものとされてきたが、『南行雑録』に収められている「堀秀政宛て天正10年10月6日 柴田勝家書状」によれば、「秀吉と申し合わせて、結婚の承諾を得た」という旨の記述がみえる。つまり、この再婚を実質的に仲介し、認めたのは秀吉であったことが判明したのである。
どうやら勝家は以前からお市の方に想いを寄せていたようで、台頭する自分への風当たりを和らげようとする秀吉の懐柔策に見事に乗ってしまったらしいのだ。主君信長の妹を正室に迎えたことで、勝家は「自分こそが信長の後継者に最も近い存在になった」という一種の慢心に囚われてしまったのではないだろうか。その間に、秀吉は水面下で着々と勢力拡大を図っていたに違いない。
北ノ庄城炎上
清洲会議の後、秀吉の勢力拡大は止まらず、焦りを募らせる勝家ら重臣たちとの権力抗争は激化の一途をたどる。勝家と滝川一益は信孝を担いで秀吉に抵抗するが、秀吉は勝家の手の内を完全に読んでいるかのような采配を見せる。まず秀吉は、長浜城を守る柴田勝豊を脅し、寝返らせることに成功した。実は勝豊は以前から勝家によって冷遇されており、養父としての恩義をそれほど感じていなかったらしい。これにより秀吉は、戦略上の要衝である長浜を容易に奪還した。続いて岐阜城の信孝を屈服させた秀吉は、最後に残った滝川一益の籠る伊勢長島城を7万の大軍で包囲した。一益は頑強に抵抗したが、この戦いの最中の天正11年(1583)2月末、勝家はついに決断し、越前・北ノ庄城を出陣する。本来、勝家は雪解けを待って動くつもりだったが、それを見越していた秀吉の攻勢に焦りを覚えての行動であった。結果として、5万の大軍を擁する秀吉に対し、勝家は3万という劣勢の兵力で賤ヶ岳の決戦に臨むこととなったのである。
柴田軍は、猛将として名高い佐久間盛政の奮戦もあり、一時は善戦を見せた。しかし、かつての与力であった前田利家の予期せぬ戦線離脱で戦列は崩壊。勝家は北ノ庄城に敗走せざるを得なかった。
同年4月、北ノ庄城は羽柴軍の攻撃が明日に迫る中、勝家は秀吉に書状を送っている。それは浅井三姉妹の庇護を懇願するものであった。正妻・市はこのとき、夫・勝家と共に自害する道を選んだのである。
4月23日、市は燃え盛る城内で自害して果てた。享年37と伝わる。これが彼女にとって二度目の、そして最後となる落城であった。
あとがき
市は浅井家・柴田家両方で落城という最悪の事態に遭遇しているが、信長の重臣中の重臣である夫・柴田勝家がよもや敗者になるとは思いも寄らなかったであろう。依然として勝家が織田家中の序列のトップに君臨し、勝家の正妻になった際には「勝ち馬に乗った」とすら感じていたかもしれない。ところが、市の予測を超える速度で事態は動いていた。それが「羽柴秀吉」という男の台頭である。
市は秀吉という男を過小評価していたのかもしれない。なまじ、身分が低い頃の秀吉を知っているだけに、天下を統べるほどの大物になる片鱗を見逃していた可能性はあるだろう。そしておそらくだが、長女の茶々はそのことを薄々認識していたのではないだろうか。
「もう二度と落城の憂き目には遭いたくない。」その強烈な生存本能が、茶々を、かつての母の敵であるはずの最高権力者・秀吉の側室になる道へと、自ら「望ませた」ように思えてならない。しかし、その茶々も、息子の秀頼の代で3度目の落城に遭遇し、自害する事になるとは夢にも思わなかったであろう。
まさに一寸先は闇である。





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