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「戸次川の戦い(1587年)」豊臣政権下で九州出兵。元親の運命を大きく変えた一戦!

ろひもと理穂
 2017/10/18

戸次川古戦場跡(大分県大分市大字中戸次)

「土佐の出来人」と称えられた「長宗我部元親」は、豊臣秀吉に降伏し、その家臣となって九州に出陣。そこで思わぬ大敗を喫しました。今回は、元親の運命を狂わせることになってしまった「戸次川の戦い」についてお伝えしていきます。

長宗我部氏の降伏

元親の上洛

秀吉と対立していた元親でしたが、同盟者であった柴田勝家や神戸信孝が相次いで倒され、さらに徳川家康まで秀吉と和睦。天正13年(1585年)3月には長年に渡り共闘してきた紀伊国の雑賀衆、根来寺も秀吉によって壊滅され、もはや長宗我部氏単独では支えられない状態となってしまいます。

秀吉は弟の羽柴秀長を総大将として6月に四国征伐を開始。その1ヶ月後には元親は秀吉に降伏しました。四国統一まであと一歩というところまできていましたが、元親は本拠の土佐国だけの安堵を条件に降伏したのです。同年10月には元親は上洛し、秀吉に謁見しています。こうして四国最大勢力の長宗我部氏は秀吉に従属し、その天下統一の手助けをしていきます。

秀吉に九州征伐を命じられる

元親が上洛している時期、秀吉は天皇命令として、九州の豊後国大友氏と薩摩国島津氏に停戦命令を下しています。さらに翌年の天正14年(1586年)には九州の国分けを島津氏に提示していますが、九州併呑の野心のある島津氏は承諾しませんでした。同年4月15日には大友宗麟が大坂を訪れ、秀吉に援軍を要請。秀吉はこれを快諾して、先陣に黒田孝高を命じ、同時に四国の仙石秀久を主将に任じて長宗我部氏や三好氏を率いて大友氏の援軍に向かわせました。

もともと長宗我部氏と島津氏は交流が深く、『上井覚兼日記』によると、九州攻めの同時期に大船を島津義久に進上していることが記されています。元親としては旧敵である仙石秀久の与力として島津氏と戦うことに乗り気ではなかったのかもしれません。三好氏の十河存保や大友氏も旧敵です。しかし秀吉に従属を誓った以上は、その指示に逆らうことはできませんでした。

同じく『上井覚兼日記』によると、同年8月28日には秀久を筆頭とする四国勢は九州に渡っていたようです。志賀親益が島津氏の武将のひとりである上井覚兼にそう報告しています。1年前には秀吉勢と四国で戦っていた元親でしたが、不思議なことにその1年後には嫡男である長宗我部信親と共に秀吉の家臣として九州で戦っていたわけです。

戸次川の戦い

島津氏の豊後国侵攻

天正14年(1586年)10月3日、大友義統は四国勢と共に府内から宇佐郡へ出陣。さらに周辺へと出陣を繰り返すのですが、その転戦の隙を突いて本拠の豊後国で反大友氏の勢力が蜂起します。そしてこの好機を逃すまいと義久の弟の島津家久が豊後国大分郡鶴賀城へと攻撃を仕掛けました。

九州征伐について、秀吉の指示自体は長期戦を想定したもので、本隊が到着するまでは守りを固めておくというものでした。援軍の四国勢はわずかな兵力だったようです。ルイス・フロイトの『日本史』によると、四国勢は二千の兵だと記されています。さすがにそれは少なすぎるように思えますが、どちらにせよ積極的に出陣して戦うような指示は下されていなかったことでしょう。秀吉の本隊が到着すればその大軍を前に島津氏が降伏することは明白だったからです。しかしその意に反して、主将である秀久は鶴賀城への援軍を出すことを決断します。これが同年12月11日のことです。大分郡の戸次川に布陣します。しかし、この後詰めは実はすでに手遅れの状態で、鶴賀城は陥落していました。そのため久秀の率いる軍勢は島津氏の主力部隊と衝突することになります。この軍勢の中には元親、信親親子の姿もありました。

戸次川の戦いマップ。色塗部分は豊後国

戸次川の戦いの大敗

戸次川を挟んで島津勢と対峙することになった秀久や元親らは、今後の方針を決める戦会議を開きます。ここで渡河して島津勢に攻撃を仕掛けるべきだと主張したのが主将を務める仙石秀久でした。『土佐物語』には秀久が渡河決戦を主張したことの他に、十河存保も一刻も早く河を渡るべきだと秀久に賛同したと記されています。『元親記』によると、この戦会議で元親は、援軍が到着するまで自重すべきと秀久の案に反対しています。『土佐物語』でも同様に元親は調略を行いながらの長期戦を主張しています。しかし最終的に元親の提案は退けられてしまいます。かつて敵同士だった秀久、存保らは元親に対し憎悪の気持ちを持っていたのかもしれません。

こうなると元親もその指示に従うしか他になく、軍勢は12月12日の夕刻から12月3日にかけて渡河を開始しました。『日本史』によるとこの後詰めの軍勢の動きを島津側は事前に察知しており、伏兵を配置し待ち伏せしていました。秀久は対岸の敵が少ないために渡河に踏み切ったわけですが、それこそ敵の思うつぼだったのです。先陣の秀久の軍勢が渡河し終えた瞬間に島津勢の伏兵が一斉に攻撃を仕掛け、秀久勢は虚を突かれて敗走。大友勢は河についての知識があったために素早く逃げることができましたが、四国勢は二千三百の兵が討ち死にしました。

このとき信親は家老である桑名太郎左衛門に退却を促されましたが、それを断り敵の追撃を戸次川畔の中津留川原で受けます。信親は四尺三寸の大薙刀で敵兵八人を討ち、さらに太刀を抜いて六人を斬りましたが、最後は力尽き、切腹する前に軍奉行の鈴木大膳の軍勢に討たれています。それを見た元親は自分も討ち死にしようと馬を下りましたが、十市新右衛門尉が強引に馬に乗せて退却させました。この戦いで十河存保も討ち死にしています。

元親は伊予国の日振島まで落ち延びたところで、谷忠兵衛と恵日寺の僧を使者に立てて島津方に送り、信親の遺骸を請い受け、遺骨を高野山の奥の院に納めています。信親は器量が良く、元親だけでなく家臣たちからも愛される存在でした。その信親の討ち死によって元親は深い悲しみ中をさまようことになるのです。

戦後処理

秀吉から守りを固めて本隊の到着を待つよう指示されていたにもかかわらず、後詰めに向かい大敗したことで秀久は秀吉の怒りを買い、讃岐国を没収されます。

秀吉の本隊は天正15年(1587年)3月に九州に到着。『武家軍紀』によると2月には秀吉は元親のもとを弔問に訪れています。そして長宗我部氏の戦功を賞しました。

同年の6月には島津氏は秀吉に降伏。九州は平定されています。このとき大隅国を長宗我部氏に与えるという話もあったのですが、元親が土佐国から遠い大隅国の統治は難しいということで断ったとも、秀吉が島津氏に与えることに心変わりしたとも伝えられており、最終的に大隅国は島津義弘に与えられました。

まとめ

四国統一という目標を断たれたうえに、愛する嫡男を失った元親は、ここから名君として称えられた姿が衰えていきます。そして家督争いの中で自らの意に反する者は処刑していくのです。

戸次川の戦いは無用な戦いであり、もし秀久ではなく元親が指揮をとっていたらこのような戦は起こらなかったでしょうし、信親が死ぬこともなかったでしょう。

そうすれば元親は平常心を保っていられたでしょうし、長宗我部氏は信親の代でもっと栄えていたかもしれません。その点では長宗我部氏の運命を大きく変えた戦でした。

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。
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