丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン

真田幸村はどのようにして大坂入城を果たしたのか?

ろひもと理穂
 2020/08/21

大阪城のイラスト

戦国時代の武将として絶大な人気を誇るのが、大坂の陣で圧倒的不利な状況にもかかわらず、家康を追い詰めた真田幸村(信繁)です。

これほどまでの武将がなぜ家康と敵対し、豊臣氏に味方したのでしょうか?今回は幸村がどのようにして大坂入城を果たしたのかについてお伝えしていきます。

徳川家康と豊臣秀頼の関係

家康と秀頼の会見

慶長16(1611)年、京都の二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見が実現しました。家康は政治的立場が逆転していることを秀頼にわからせるため、諸大名に秀頼の出迎えを禁じています。

このとき秀頼に付き従ったのは豊臣恩顧の大名の中でも、加藤清正や浅野幸長ら一部のみでした。それでもなお家康に豊臣氏滅亡を決意させたのは、秀頼の予想以上の成長だったようです。

家康は秀頼との会見後、重臣の本多正信に対し、以下のように述べています。

徳川家康アイコン

徳川家康

秀頼は赤子のようだと聞いていたが、噂とはまったく違い、賢くて人の命令に従うような人物ではない

秀頼の器量が天下太平を目指す家康の覚悟を決めさせたのです。

さて、この時期の幸村はというと、関ヶ原合戦で家康と敵対したことで、父の真田昌幸とともに高野山へ追放されており、その麓の九度山で蟄居生活を送っていました。

なお、父昌幸は家康に赦免を何度も願い出ていましたが、家康と秀頼の会見が行われたこの年に病没しています。

彼は臨終の際、その枕元で幸村に、近いうちに徳川と豊臣の戦いが必ず行われること、戦いになったら大坂城に籠城しても勝ち目はないので出撃すること、を伝えたといいます。

方広寺鐘銘事件

警戒を強める家康でしたが、それでも豊臣氏を滅ぼすには口実が必要でした。その好機が訪れたのが慶長19(1614)年のことです。

8月には豊臣秀吉17回忌のため京都の方広寺で大仏の開眼供養が実施される予定でしたが、その梵鐘の銘文に「国家安康」と刻まれていることに徳川方が目を付けたのです。

「これは家康の名を分断したものであり、呪いだ」と豊臣方を厳しく問い詰めます。

方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の鐘銘
方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の鐘銘

秀頼は片桐且元を駿府に派遣し、弁明しようと試みますが、秀頼の母親である淀殿も大蔵卿局を駿府に派遣しており、この機会を家康にうまく利用されます。且元は家康に面会することができず、家康の側近である本多正純に3つの条件を突きつけられました。

  • 秀頼は駿府と江戸に参勤すること
  • 秀頼は大坂城を退去し、他の城に移ること
  • 淀殿を人質として江戸に送ること

しかし、一方で家康は大蔵卿局には面会し、不問とすると伝えています。そのため情報が混乱し、大坂に戻った且元は家康に内通していると疑われてしまいます。身の危険を感じた且元は大坂城を脱出し、本当に家康に寝返ってしまいました。

且元を孤立させるための家康の策略だったというのが通説でしたが、近年の研究では江戸幕府の体制下になんとかして豊臣氏を組み込もうとした末の結果と考えられています。

こうして交渉役がいなくなった徳川氏と豊臣氏の関係は悪化し、交渉は決裂。家康は大坂城討伐を発令しました。

まさに昌幸の予想していた通りの状況になったのです。それでもまだこのとき幸村は九度山で蟄居生活を続けていました。

仮に徳川氏と豊臣氏の対立が激化しなければ、幸村は蟄居生活を続けたまま生涯を終えていたかもしれません。家康の大坂討伐は、幸村にとっても世に出る最後のチャンスだったわけです。

幸村の大坂入城

秀頼からの期待

徳川方との戦が避けられないと察した豊臣方は、各地の牢人に声をかけて募兵し、急いで兵力増強を図ります。

かつての関ヶ原合戦の際、寡兵にもかかわらず徳川方と敵対し、上田城に籠城しながら奇策をもって徳川秀忠の大軍を退けた真田氏。秀頼の期待は非常に大きかったのではないでしょうか。秀頼から九度山に送られた使者は、当座の支度金として黄金二百枚、銀三十貫目を持参したと『駿府記』に記されています。

秀吉のおかげで馬廻という出世を果たせた幸村は、その恩義に応えるべく、当然のように秀頼に呼びかけに応じました。昌幸が病没した3年前からその覚悟はできていたはずです。

『高野春秋』によると慶長19(1614)年10月7日に幸村は九度山を離れています。『左衛門佐君伝記稿』では10月9日と記されていますので、10月上旬に幸村が九度山を脱出したのは間違いないでしょう。

『本光国師日記』には10月13日には大坂城に到着しています。『駿府記』にもその翌日である10月14日、京都所司代である板倉勝重から幸村の大坂入城が駿府に報告されています。情報は完全に筒抜けだったようです。

真田の大坂入場の報告を聞いた家康は「親のほうか子のほうか?」と震えながら尋ねた、という逸話が有名ですが、これは後世の創作であり、家康はさほど気にもかけていなかったことでしょう。

勝重の報告にも幸村の仮名を源三郎と誤って伝えており、高野山に引きこもっていた人物とわざわざ説明を書き添えているくらいですからまったくノーマークだった可能性もあります。

幸村はどうやって監視の目を欺いたのか?

もちろん九度山で蟄居している幸村を監視していた者たちもいました。紀州藩藩主の浅野長晟や高野山の僧侶である文殊院らです。そんな監視の目をかいくぐってどうやって大坂城に向けて脱出できたのでしょうか。

これには諸説あり、定かではありませんが、『武林雑話』に記された有名な話では、長晟が監視を命じていた百姓ら数百人を幸村が仮設の建物を設けて饗応し、酔い潰れたところを百姓らが乗ってきた馬に荷物を載せ、妻子を輿に乗せて脱出したというものです。

このとき幸村は味方する百姓らに弓や鉄砲を持たせて武装し、誇らしげに九度山を出立したそうです。監視役の百姓らがそのことに気づいたのは翌朝のことで、全員が頭を抱えたといいます。

また、幸村は脱出の際の手はずをかなり以前から備えており、山中の脇道に目印を付けておいてこれを辿って大坂城まで進んだという説もあります。

『幸村君伝記』などには、幸村の跡を浅野氏の軍勢が追いかけ、付近の百姓らに確認すると、幸村の一行は三日前にここを通ったと口々に答えたために、もはや追いつけないと判断し追跡を諦めたと記されています。

しかし実際に幸村一行がこの場所を通過したのはわずか三刻前のことであり、これは日ごろ幸村が百姓らに礼を尽くしていたので、百姓らは同情と恩返しのためにこのように虚偽の報告をしたようです。

幸村脱出の一報は京都所司代経由とは別に、文殊院から家康側近の金地院崇伝に報告され、崇伝から本多正信に伝えられています。

こちらの崇伝は幸村のことを警戒していたようで、真田左衛門佐と正確な官途名を記しています。幸村に対する意識や知識は幕閣の中でもかなりの温度差があったようです。

幸村の知略が活かされなかった背景

牢人衆筆頭の扱いを受ける

『大坂御陣山口休庵咄』には赤備えの軍勢六千を率いて大坂城に入城したと記されていますが、さすがに九度山で蟄居状態だった幸村がこのような大軍を率いられるはずもなく、どうやら大坂城に入ってから秀頼に与えられた軍勢のようです。

秀頼は幸村を牢人衆の筆頭とし、五十万石の所領を与えることを約束しました。このような待遇を受けたのは幸村の他にもおり、騎馬百騎以上を与えられた武将は十人いました。

中でも幸村、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登、後藤基次(又兵衛)らは五人衆と呼ばれ別格でした。このような大名牢人には屋敷が与えられたと『大坂御陣山口休庵咄』に記されています。

大坂城城内にはいくつかの派閥があり、軍議は難航します。父・昌幸の遺言通り幸村は城から出撃する策を主張したという逸話が残されています。

その内容は、

  • 真田勢と後藤勢が出陣して近江国瀬田、山城国宇治を確保し、橋を落としてここを拠点に徳川勢を迎撃する。
  • その間に大野勢・木村勢が京都所司代の板倉勝重を討って伏見城を攻略する。
  • そして別働隊として大和口の抑えに長宗我部勢と明石勢が出陣。
  • 茨木城の片桐且元は秀頼側近衆が陥落させ、近江大津に砦を築く。

というものです。

これによって近畿地方を確保し、広大な防衛ラインを築くことができます。徳川勢の進軍を妨げることで諸大名の動揺と離反を誘うことができると主張したのです。

これには基次も同調しました。幸村は瀬田、宇治を突破されたら豊臣勢の苦戦は火を見るより明らかであると強調し、なんとかして積極策を実現しようとしています。

幸村の積極策はなぜ用いられなかったのか

幸村の積極策に対して小幡影憲が日本史上、瀬田・宇治を確保できた例はないとし、籠城策を主張しました。

軍議は真っ二つに分かれ、そして最終的に大野治長は籠城策を選びました。幸村が主張した父・昌幸の策は退けられてしまったのです。

このような結果になってしまった背景には、兄の真田信之(信幸)や叔父の真田信伊が家康に味方していたことや、幸村単独には何ら実績がなかったことが挙げられます。

もし父の昌幸も生きて大坂城に入城していたら、徳川勢を二度も撃退した実績を買われてその策は採用されていたことでしょう。

ちなみに幸村の積極策に異を唱えた影憲は実は家康に内通しており、軍議の内容も京都所司代の板倉勝重に報告していました。後に表立って徳川勢に与しています。

なお、この大坂の陣で幸村が活躍する出丸「真田丸」ですが、『落穂集』などによると重要拠点を預けるのに幸村に預けて信用できるものなのかと取りざたされたと記されています。

このように豊臣方が一枚岩でなかったために、幸村の知略はなかなか活かされることがなかったのです。

まとめ

幸村が大坂城に入城したのは、過去秀吉から受けた恩に報いるためもあったでしょうし、何より家康に上田城を奪われ、国を追われたことに対する昌幸の無念を晴らすためであったと考えられます。

天下にその名を轟かせる機会をようやく得た幸村でしたが、その足を引っ張る者が大坂城には大勢いたのが残念な限りです。


【主な参考文献】
  • 黒田基樹『豊臣大名 真田一族』(洋泉社、2016年)
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)
  •   この記事を書いた人
    ろひもと理穂 さん
    歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。
    当サイトでもあらゆるテーマの記事 ...


    • このエントリーをはてなブックマークに追加

    おすすめの記事


     PAGE TOP