「大坂冬の陣(1614)」激闘となった真田丸の戦いで、真田幸村がその名を轟かせる!

大坂城に構築された出城「真田丸」のイラストイメージ
大坂城に構築された出城「真田丸」のイラストイメージ
 方広寺の鐘銘に端を発し、徳川と豊臣の全面対決となった「大坂冬の陣(1614)」ですが、中でも激闘となった「真田丸の戦い」は、真田幸村がその名を轟かせたことでよく知られています。

 本記事では、冬の陣における前哨戦~真田丸の戦い~和睦に至るまでの流れを、豊臣方の真田幸村の活躍にフォーカスしながら、よりリアルにお伝えしたいと思います!

冬の陣前哨戦

 まずはじめに。大坂の陣(冬の陣・夏の陣)の背景や全体像をあまり知らない方は、以下の記事を先にご参照いただけますと幸いです。


 ということで、大坂の陣(冬の陣・夏の陣)の全体像が見えたところで冬の陣の詳細をみていきましょう。

 方広寺鐘銘問題で交渉がまとまらなかった後、徳川との戦いが避けられないと判断した豊臣方は、急いで兵力の増強、兵糧の備蓄、大坂城やその周辺の防備などを進めていきました。

 大坂の陣の戦闘は基本的に、豊臣方が本拠・大坂城を中心に防衛し、攻め込んでくる徳川方を迎え撃つという構図です。なので、最初は大坂城の周辺で前哨戦からはじまります(前哨戦の場所は以下地図を参照)。

冬の陣前哨戦の場所(出所:wikipediaより、編集)
冬の陣前哨戦の場所(出所:wikipediaより、編集)

 以下、時系列で各前哨戦の内容をみていきます。

11月19日 木津川口の戦い

 慶長19年(1614)11月19日、大坂城の南西部・木津川口の砦が、横須賀至鎮(徳川方)の軍勢に急襲されました。

 この砦は本来、明石全登(豊臣方)が守備するはずでしたが、このとき全登は大坂城に伺候中で不在だったようです。代わりに弟の全延が守備するも、統制が取れずに砦は陥落してしまいます。

11月26日 鴫野の戦い、今福の戦い

 同年11月26日 には大坂城の北東側、今福砦では佐竹義宣(徳川方)の軍が、鴫野砦には上杉景勝(徳川方)の軍が攻め込んできます。

 鴫野砦では上杉勢の攻撃により、井上頼次(豊臣方)が討ち死。来援にきた大野治長(豊臣方)が反撃に転じますが、鉄砲隊の一斉射撃を受けて退却せざるを得ませんでした。

 一方、今福砦では豊臣方が押し込まれて劣勢でしたが、木村重成(豊臣方)が初陣ながら反撃を開始して佐竹義宣勢と互角に渡り合い、さらに後藤又兵衛(豊臣方)も救援に駆けつけたことで佐竹勢を押し戻します。しかし、佐竹義宣が大和川対岸にいた上杉勢に救援を依頼すると、豊臣方は上杉勢の鉄砲射撃を受けて撤退を余儀なくされます。

 この戦いで鴫野・今福の両砦はともに陥落となり、大坂城北東側の砦は崩壊。このときの被害としては、後藤又兵衛が負傷。一方で佐竹軍も重臣・渋江政光(徳川方)らが戦死するなど甚大な被害を被ったといいます。

11月29日 博労淵の戦い、野田・福島の戦い

 11月29日には大坂城の西側の砦では、博労淵砦に横須賀至鎮(徳川方)の軍が、そして野田砦と上福島砦には九鬼守隆(徳川方)ら水軍が攻めてきます。

 博労淵砦の守備担当は薄田兼相(すすきだ かねすけ。豊臣方)でしたが、不在中にあっけなく陥落させられます。このとき兼相は遊郭に通っていたとか。この一件以来、味方の将から "橙武者"(=橙は酸味が強く正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味)と嘲笑されたといいます。

浮世絵に描かれた薄田兼相(落合芳幾 画、出典:wikipedia)
浮世絵に描かれた薄田兼相(落合芳幾 画、出典:wikipedia)

 一方、野田砦・上福島砦も九鬼守隆ら水軍によって占領。大雨の中で多勢の襲撃に豊臣の守備兵らは怖じ気づいて逃亡してしまい、あっさり陥落となったようです。これら砦は豊臣方が安宅船を管理する重要拠点でした。これにより大坂城西側の砦もほぼ崩壊してしまい、豊臣方は船場と天満の放棄を余儀なくされました。

 11月30日には残りの砦に火を放って破棄し、大坂城に撤収せざるを得なかったようです。

大坂城、完全包囲される

 やがて徳川方は大坂城の全包囲の態勢に入ります。豊臣方は大坂湾に接する船場・天満や木津川、大和川河口を奪取され、船による補給が困難となりました。ただ、徳川方でも諸大名らが兵糧の欠乏に直面するという状況だったようです。

 以下のように、各史料にはこの時の状況が示されています。

  • 大坂周辺の兵糧は高騰が激しく、現地調達は困難であった。
  • 諸大名らの中には国元から搬送を依頼する者も多く、戦闘継続に差し支えたほどであった。
  • 家康は大坂城の全包囲に向け、付城を築くよう指示している(『当代記』)。
  • 徳川方は海上封鎖を行ない、九鬼ら水軍が監視し、豊臣方の船を発見すると手当たりしだいに拿捕したという(『駿府記』)

 こうして大坂城は徳川幕府軍20万とも50万ともいわれる大軍により、完全包囲されたのです。

大坂冬の陣の布陣図(出所:wikipediaより、編集)
大坂冬の陣の布陣図(出所:wikipediaより、編集)

大坂城への攻撃準備

 いよいよ大坂城への攻撃態勢に入るため、家康は大名らに仕寄せ(= 竹束・大楯・井勢楼といった、身を守りながら大坂城に接近するための構築物)の構築を命じました。しかし、徳川方の仕寄せは大坂城に近づけないままだったといいます。

 これにはいくつか理由がありました。

 『村越道伴覚書』によれば、この徳川方の仕寄せの構築に対して豊臣方はこれを阻止すべく、鉄砲を盛んに浴びせたといい、徳川方の将たちはこれに臆して竹束の中に引っ込み、さらに相互の間隔も開き気味であったといいます。

竹束
竹束

 また、徳川方の諸大名らの多くは実戦経験が全くない、もしくは乏しい者たちでした。これを示す面白い逸話があります。

 家康は諸大名らを茶臼山に集めた際、仕寄せの作り方を知らない者たちのために、既存の仕寄せを見せて同様に構築するように命じました。また、井伊直孝がこれを熱心に見学していると、家康から次のように言われて諭されたとか…。

「お前には教える必要もない」

「家中に歴戦の侍がいるだろう」

井伊直政の次男・井伊直孝は実戦経験なし?(清涼寺所蔵、出典:wikipedia)
井伊直政の次男・井伊直孝は実戦経験なし?(清涼寺所蔵、出典:wikipedia)

 真田丸のあった玉造口付近は湿地帯で、隙間なく仕寄せを構築するのが難しかったようですが、それでもある程度仕寄せが仕上がると、家康から今度は

「その背後に高い"篠山"を構築して 大坂城内を見通す工夫をせよ」

との命が下ったといいます。

 『石谷土入記』によると、家康から派遣された御検使衆が "篠山" を築く場所に目印の杭を打ち、諸大名らはその目印の少し後ろに築きましたが、井伊直孝だけは大坂城のほうへ近づけて "篠山" を構築したと伝わっています。

豊臣方の圧勝だった「真田丸の戦い」

幸村、敵を真田丸に誘い込む

 大坂冬の陣の前哨戦が行なわれていた頃、真田幸村(豊臣方)は真田丸(さなだまる)の前方にある”篠山”という小山に柵を設け、鉄砲隊の一部を配置し、前田利常(徳川方)の軍勢に毎日鉄砲を浴びせていました。

 この出来事は慶長19年(1614)11月20日以前より行なわれていたことが史料で確認できています。なお、真田丸というのは、徳川軍を迎え撃つために真田幸村が大坂城の南に構築した出城・曲輪です。

 12月3日には大坂城内で南条元忠(豊臣方)の徳川方への内通が発覚します。城外からの連絡時に密書が発覚したことで南条元忠とその家臣らは処刑されたといいます(『北川遺書記』『武徳編年集成』ほか)。

 実はこの一件が、のちに冬の陣の戦局を大きく左右することになるのです。

前田利常軍の進軍

 やがて両軍の緊張はピークに高まります。12月4日の夜明け前、ついに真田丸の前方に位置する徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直の軍勢が動き出しました。

前田利家の四男・前田利常(出典:wikipedia)
前田利家の四男・前田利常(出典:wikipedia)

 前田軍の本多政重や山崎閑斎らが手勢を率いて篠山に接近したが、既に真田軍は真田丸に引き上げており(『大坂御陣覚書』ほか)、その他各史料によれば、前田軍は篠山をあっさりと占領したといいます。

「鳥でも撃ちに来たのか?(笑)」

 『真武内伝』によると、このとき真田丸の真田兵は上述のようにあざ笑って挑発したといい、この真田軍の篠山放棄は、幸村の仕掛けた罠だと考えられています。

 ここで前田軍に思いもよらない事態が起こりました。血気にかられて戦功をはやった小姓ら数騎が指揮官の利常に無許可で前に乗り出してしまいます。これを見た利常の馬廻衆が疑問に思い、本陣の旗の動きによって突撃するかどうかを判断しようとしました。

 これは旗が動いているようなら攻撃態勢に入ったとみなされるからといいます。そして運悪く、ちょうどその時、旗本では旗幟を立てる場所を移動しようとしていて、旗が動いたように見えてしまいました。

 その結果、前田軍は真田丸へ攻め寄せて殺到する事態となるのですが、後述するようにその結果は散々なものとなるのです。

井伊直孝・松平忠直軍の進軍

 前田軍が動く一方で、井伊軍と松平軍も動きだしていました。

松平忠直の肖像。父は家康次男の結城秀康(出典:wikipedia)
松平忠直の肖像。父は家康次男の結城秀康(出典:wikipedia)

 この頃、井伊軍は他の軍よりも前に見張り番をだしていましたが、松平忠直軍も負けじと井伊軍よりも前に見張り番をだしました。そして両軍が競い合ってともに前進した結果、夜明け前に大坂城の堀際まで到達してしまい、意地もあって退くに退けなくなり、井伊軍は直孝の命がないにもかかわらず、勝手に空堀を下りはじめ、堀底にあった柵を破壊し、土居に取りつこうと作業をはじめたといいます(『道夢聞書』)。

 また、霧にまぎれて夜中に井伊軍や忠直軍が真田丸や惣構えの空堀の中に忍び込み、密かに堀底にあった柵を破壊したとの記録もあります(『休庵咄』)。

 こうした挙げ句、愚かなことに竹束どころか楯すら準備できずに豊臣方との戦闘に突入することになったようです。

12月4日 真田丸の戦い

 真田丸に対峙していた徳川方の諸将らは手柄を焦り、夜明け前に城際まで迫ります。やがて夜が明けて濃霧も晴れてくると、敵の接近を察知した豊臣方は、激しい弓と鉄砲による攻撃を開始しました。

 ここに "真田丸の戦い" の幕が開けます。

 『津山松平家譜』によれば、徳川方は連携がとれず、藤堂高虎の軍が戦闘に入ったのを知ると、松平忠直・前田利常・井伊直孝らの軍は続々と攻撃を始めたと伝わっています。

 前田軍は幸村の策にハマって統制を失い、真田丸に突撃するものが続出していました。そして真田丸からの激しい反撃にあって死傷者が続出し、甚大な被害を被ります。

 夜明け前に堀底に潜入していた井伊軍の先手の兵たちは、豊臣方の城兵の一斉射撃によって瞬く間に一人残らず戦死。これに後続部隊は救援に向かうものの、全く堀に近寄ることができず、釘付けとなって味方の兵が討ち死にするのを見ているしかなかったといいます(『休庵咄』ほか)。

 徳川陣営は真田丸の堀と柵を突破しようにも、その際に真田丸からの射撃の雨にさらされて成す術もなかったのです。

真田軍は敵を大虐殺!?

 こうした真田丸での激しい攻防の中、真田丸後方の城壁を守る石川康勝(豊臣方)の隊が火薬桶に火縄を誤って落とし、火薬が爆発。この時に石川康勝は火傷を負って石川隊は崩れ、櫓も焼け落ちたといいます(『津山松平家譜』)。また、堀底にいた松平軍の兵が大坂城の惣構えに突入したのもこの混乱に乗じたものであったとか。

 この爆発が結果的に徳川方にとって大打撃となりました。徳川軍はこれを南条元忠の内応の合図と勘違いして一挙に突撃を開始。城壁の鉄砲に注意を払うことすらなく、堀の中にまで下ったのです。

 先に記したように南条元忠は内通がバレて前日の12月3日に既に処刑されていましたが、豊臣方は南条が引き続き内応しているように見せかけて徳川軍を欺いていたのでした。

 これに乗じて堀底にいた松平軍の兵200人程は惣構えに突入した者もいましたが、城内に待機していた木村重成軍に包囲されて全員が討死。また、堀底に残された者も進むことも退くこともできず、討死していったといいます(『休庵咄』『津山松平家譜』)。

 幸村はこの機を見逃さず、徳川の大軍をじっくりと引きつけた後で鉄砲で嵐のように一斉射撃。この様子をイエズス会宣教師は 書物で"大虐殺" という言葉を用いています。

 これに気付いた徳川軍の先頭は退却しようとしますが、後方からは味方の大軍が押し寄せてきたために退くに引けず、退却する者・進軍する者が重なって衝突し、大混乱となりました。

家康、ついに撤退命令を出す

 戦闘は昼過ぎになっても続いていましたが、真田丸での大敗を知った徳川家康はただちに戦闘中止と撤退の命を各隊へ出しました。しかし、豊臣方から狙撃される恐れがあったことと、他の隊よりも早く撤退するのはメンツがたたないこと等が理由で徳川方の兵たちは退却もままならなかったといいます。

 玉薬の節約で豊臣方が射撃を控えるようになった夕方頃、井伊軍が撤退をはじめたことで松平軍もこれに続き、ようやく両軍の戦いが終結したようです。城内からの狙撃を恐れ、夜になるのを待ってから堀底や土居から抜け出て逃げ帰った者もいたと伝わります(『大坂御陣覚書』など)。

 徳川方は真田丸の攻防で大敗を喫し、その死傷者は数万にも及んだとみられます。また、戦功をはやった前田軍の小姓らは戦後、詮議にかけられ、阿井八兵衛と山田大炊は切腹を命じられたと伝わっています(『前田家雑録』ほか)。

 真田丸の戦いに限っていえば、まさに豊臣軍の圧勝だったのです。

家康、砲撃・心理戦を展開

 徳川方もただやられるばかりではありません。老獪な家康は大坂城への砲撃のほか、各隊に交代で夜通しで "鬨の声" をあげさせて豊臣方に緊張と疲労を与えようと、同時に心理戦も展開しました。

 一説に「徳川の総攻撃が始まるのか!?」と大坂城内の町人や女子供らを恐怖に陥れ、惣構えから三の丸へ逃げ込む人々の波ができたといい、あまりの混乱ぶりに橋から落下して500余の人々が死亡する惨事になったといいます。

 また、これに対し、幸村・後藤又兵衛・長宗我部盛親は、兵士たちに「夜襲などありえず、豊臣方の出方や守備の様子を探るためのものだから持ち場を堅固にして無駄に発砲しないように」との旨を下知してまわったといい、このため、城方は静まりかえって落ち着いた様子になったといいます(『老少聞書』)。

驚愕の条件で和睦合意へ

 水面下では、講和を目指す家康と豊臣方との間で和睦交渉も始まっていました。

 豊臣方では淀殿が権威を振りかざし、どうも意見がまとまらないと伝聞されており、さらに城内では鉄砲や大砲の火薬と鉛が不足しはじめていたようです。秀頼は味方として身を挺して戦っている牢人衆への処遇にこだわっていました。

 しかし、家康は豊臣の牢人衆たちを許しがたいと感じていました。12月8日以降の交渉の議題は、豊臣方の牢人の処遇問題に集中したようです。そして12月15日になってようやく豊臣方から家康に対し、2つの和睦条件を提示するという動きがみられました。

  1. 淀殿が人質として江戸に行くこと
  2. 大坂城内の牢人に扶持(=武士に米で与える給与)を加増すること

 しかし、家康は牢人衆への対応を不満としてこれを拒否したといいます(『駿府記』)。

12月16日 大坂城への一斉砲撃、はじまる

 12月16日からは、徳川方による大坂城への一斉砲撃が開始。砲撃は大坂城に最も近い備前島で実施され、大坂城本丸や天守にも砲弾が着弾することもあったといい、その砲撃の音は凄まじく、遠い京都にまで届き、その音を聞きながら茶会が催されたとか。また、一説には本丸への砲撃が淀殿の居所近くに着弾して侍女が7~8人死亡し、これに恐怖した淀殿が一気に和睦へ傾いたとされます。

 12月17日には和議成立の噂が流れますが、翌日に破談になりました。このころ秀頼から和睦提案もあったようですが、これも不調に終わったようです。

 和睦交渉は当初、豊臣方は大野治長・織田有楽斎ら、徳川方は本多正信・後藤光次らが担っていましたが、12月18日、家康は淀殿説得のために常高院(淀殿の妹)を派遣、これに本多正純・阿茶局を補佐につけて送りこみました。

和睦交渉

 そして交渉は徳川方の京極忠高の陣所で行なわれ、そして12月19日、ついに合意に至ります。その内容は以下の五カ条でした。

  1. 牢人ら豊臣の将を不問とする。
  2. 秀頼の知行を安堵する。
  3. 秀頼の身の安全を保証する。
  4. 淀殿の江戸在住(=要するに人質)を不要とする。
  5. 大坂城を開城すれば、望む国を与える。

 しかし、条件はこれだけではなく、のちの豊臣家滅亡につながる大坂城の惣構・二の丸・三の丸の破却と堀の埋め立てという驚愕の内容も含まれていたのです。

 12月20日、家康父子より鉄砲射撃停止命令がだされます(『三才雑録』)。すると、豊臣・徳川双方の兵らが大坂惣構の堀際に集まり、親類や知己の死骸を探し回ったといいます(『福富覚書』『士談会稿』)。

 豊臣の牢人らは赦免されることになりましたが、この和睦にほとんどの牢人が不満でした。一説に幸村は徳川の油断を見計らって夜襲を企図したが、家康は警固を厳重にしていたため断念したといいます(『松代真田家譜』)。また、幸村と後藤又兵衛が家康父子を追撃して江戸に侵攻すべきだと主張したとも伝わっています(『休庵咄』)

 12月21日、和睦の起請文の取り交わしが完了し、この日から堀埋め立ての手配・工事が着手されたといい、作業は諸大名が総出で昼夜問わず実施されたとのことです。(『大坂冬陣記』『翁物語』)

家康の陰謀!?大坂城が丸裸に

 大坂城の埋め立て工事の担当は豊臣方が二の丸・三の丸、徳川方が惣構であったといいます(『本光国師日記』『綿考輯録』)。

 徳川方が担当した惣構の埋め立ては12月24日にはほぼ完了したといい、一方で豊臣方の担当した埋め立ては難航し、完了は翌慶長20年(1615)1月22~23日頃だったといいます。

 大坂城の埋め立ては家康による謀略説が有力視されていました。外堀だけを埋める約束だったのが、徳川方の強引な解釈ですべての堀の埋め立てを強行したといいます。しかし、信頼のおける史料では埋め立て工事の担当は豊臣方が二の丸・三の丸、徳川方が惣構でした(『本光国師日記』『綿考輯録』)。

 つまり豊臣方が本丸だけを残して丸裸になるのは了承済みであったということです。こうしたことから現在は家康による謀略説は疑問視されています。


【主な参考文献】
  • 平山優『真田三代』(PHP研究所、2011年)
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 新人物往来社『真田幸村 野望!大坂の陣』(新人物文庫、2010年)
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      この記事を書いた人
    戦ヒス編集部 さん
    戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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