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「大阪冬の陣(1614年)」激闘となった真田丸の戦いで、真田幸村がその名を轟かせる!

戦ヒス編集部
 2017/10/19

真田丸のイラスト

真田幸村が大活躍し、その名を轟かせたという大阪冬の陣。激闘で知られる「真田丸の戦い」とはどのような合戦だったのか? 本記事では豊臣方の真田氏の視点でみていく。

冬の陣の緒戦

そして、ついに大阪冬の陣の前哨戦が大阪城の周辺ではじまった。

木津川口の戦い

慶長19年11月19日(1614)、大阪城の南西部・木津川口の砦が徳川方の横須賀至鎮の軍勢に急襲された。

この砦は本来は豊臣方の将・明石全登が守備するはずであったが、このとき全登は大阪城に伺候中で不在であり、代わりに弟の全延が守備したが、統制が取れずに砦は陥落してしまった。

※出所:by Jmho(2006/10/23)-大坂冬の陣布陣図 / CC-BY-SA 3.0 Adapted.)

鴫野の戦い、今福の戦い

同年11月26日には大阪城の北東側、今福砦では佐竹義宣の軍が、鴫野砦には上杉景勝の軍が攻め込んできた。

鴫野砦では上杉勢の攻撃によって大阪方の井上頼次は討ち死にした。豊臣方は大野治長が来援にきて反撃に転じるが、鉄砲隊の一斉射撃を受けて退却となった。

一方、今福砦では豊臣方は押し込まれて劣勢であったが、木村重成が初陣ながら反撃を開始して佐竹義宣勢と互角に渡り合い、さらに後藤又兵衛も救援に駆けつけたことで佐竹勢を押し戻した。
しかし、佐竹義宣が大和川対岸にいた上杉勢に救援を依頼すると、豊臣方は上杉勢の鉄砲射撃を受けて撤退を余儀なくされたのであった。

この戦いで鴫野・今福の両砦はともに陥落してしまい、大阪城北東側の砦は崩壊となってしまった。
また、豊臣方の後藤又兵衛がこのとき負傷したが、徳川方の佐竹軍も重臣・渋江政光らが戦死するなど甚大な被害を被ったという。

博労淵の戦い、野田・福島の戦い

11月29日には大阪城の西側の砦では、博労淵砦に横須賀至鎮軍が、そして野田砦と上福島砦には九鬼守隆ら徳川方の水軍が攻めてきた。

博労淵砦の守備は薄田兼相(すすきだ かねすけ)が担当であったが、このとき不在であっけなく陥落となった。指揮官であった兼相は遊郭に通っており、この一件以来、味方の将から "橙武者"(=橙は酸味が強く正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味)と嘲笑されたという。

一方、野田砦・上福島砦もこれまた九鬼守隆らの水軍によって占領。大雨の中で多勢の襲撃に豊臣の守備兵らは怖じ気づいて逃亡してしまい、あっさり陥落となった。これらの砦は豊臣方が安宅船を管理する重要拠点であった。

これにより大阪城西側の砦もほぼ崩壊してしまい、豊臣方は船場と天満の放棄を余儀なくされた。11月30日には残りの砦に火を放って破棄し、大坂城に撤収したのである。

逃げ場なし!大阪城が完全包囲

こうして徳川方は大阪城の全包囲の態勢に入った。

豊臣方は大阪湾に接する船場・天満や木津川、大和川河口を奪取され、船による補給が困難となった。しかし一方で徳川方も諸大名らが兵糧の欠乏に直面するという状況であった。

このときの状況を示す各史料は以下。

  • 大阪周辺の兵糧は高騰が激しく現地調達は困難であった。
  • 諸大名らの中には国元から搬送を依頼する者も多く、戦闘継続に差し支えたほどであった。
  • 家康は大阪城の全包囲に向け、付城を築くよう指示している(『当代記』)。
  • 徳川方は海上封鎖を行ない、九鬼ら水軍が監視し、豊臣方の船を発見すると手当たりしだいに拿捕したという(『駿府記』)

こうして大阪城は家康の幕府軍20万とも50万ともいわれる大軍によって完全包囲されたのであった。

※出所:by Jmho(2006/10/23)-大坂冬の陣布陣図 / CC-BY-SA 3.0 Adapted.)

大阪城への攻撃準備

ついに徳川家康は大阪城への攻撃態勢に入るため、諸大名らに仕寄せ(= 竹束・大楯・井勢楼といった、身を守りながら大阪城に接近するための構築物)の構築を命じた。

しかし、徳川方の仕寄せは大阪城に近づけないままだったという。これにはいくつか理由があった。

『村越道伴覚書』によれば、この徳川方の仕寄せの構築に対して豊臣方はこれを阻止すべく、鉄砲を盛んに浴びせたといい、徳川方の将たちはこれに臆して竹束の中に引っ込み、さらに相互の間隔も開き気味であったという。

また、徳川方の諸大名らの多くは実戦経験が全くない、もしくは乏しい者たちであった。これを示す面白い逸話がある。

家康は諸大名らを茶臼山に集めた際、仕寄せの作り方を知らない者たちのために、既存の仕寄せを見せて同様に構築するように命じた。また、井伊直孝がこれを熱心に見学していると、家康から「お前には教える必要もない」と言われ、「家中に歴戦の侍がいるだろう」と諭されたというのである。

真田丸のあった玉造口付近は湿地帯で、隙間なく仕寄せを構築するのが難しかったようだが、それでもある程度仕寄せが仕上がると、家康から今度は「その背後に高い"篠山"を構築して 大阪城内を見通す工夫をせよ」との命が下ったという。

家康から派遣された御検使衆が"篠山"を築く場所に目印の杭を打った。諸大名らはその目印の少し後ろに築いたが、井伊直孝はだけは大阪城のほうへ近づけて"篠山"を構築したと伝わる。(石谷土入記)

幸村、敵を真田丸に誘い込む

大阪冬の陣の前哨戦が行なわれていた頃、幸村は真田丸の前方にある篠山という小山に柵を設け、鉄砲隊の一部を配置し、前田利常軍に毎日鉄砲を浴びせていた。これは慶長19年(1614)11月20日以前より行なわれていたことが史料で確認できている。

同年12月3日には大阪城内で南条元忠の徳川方への内通が発覚した。城外からの連絡時に密書が発覚したことで南条元忠とその家臣らは処刑されたという(『北川遺書記』『武徳編年集成』ほか)。
実はこの一件、のちに冬の陣の戦局を大きく左右することになる。

両軍の緊張はピークに高まり、12月4日の夜明け前、ついに真田丸の前方に位置する徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直の軍勢が動き出した。

前田利常軍の進軍

前田軍の本多政重や山崎閑斎らが手勢を率いて篠山に接近したが、既に真田軍は真田丸に引き上げており(『大阪御陣覚書』ほか)、その他各史料によれば、前田軍は篠山をあっさりと占領したという。
『真武内伝』によると、このとき真田丸の真田兵は「鳥でも撃ちに来たのか?」とあざ笑って挑発したという。この真田軍の篠山放棄は幸村が仕掛けた罠であったと考えられている。

ここで前田軍で思いもよらない事態が起こった。血気にかられて戦功をはやった小姓ら数騎が指揮官の利常に無許可で前に乗り出してしまったのだ。

これを見た利常の馬廻衆は疑問に思い、本陣の旗の動きによって突撃するかどうかを判断しようとした。これは旗が動いているようなら攻撃態勢に入ったとみなされるからという。
そして運悪く、ちょうどその時に旗本では旗幟を立てる場所を移動しようとしていて、旗が動いたように見えた。

こうして前田軍は真田丸へ攻め寄せて殺到する事態となったのだが、その結果は散々なものであった(後述)。

井伊直孝・松平忠直軍の進軍

前田軍が動く一方で、井伊軍と松平軍も動きだしていた。

この頃、井伊軍は他の軍よりも前に見張り番をだしていたが、松平忠直軍も負けじと井伊軍よりも前に見張り番をだした。そして両軍が競い合ってともに前進した結果、夜明け前に大阪城の堀際まで到達してしまい、意地もあって退くに退けなくなり、井伊軍は直孝の命がないにもかかわらず、勝手に空堀を下りはじめ、堀底にあった柵を破壊し、土居に取りつこうと作業をはじめたという(『道夢聞書』)。

また、霧にまぎれて夜中に井伊軍や忠直軍が真田丸や惣構えの空堀の中に忍び込み、密かに堀底にあった柵を破壊したとの記録もある(『休庵咄』)。

こうした挙げ句、愚かなことに竹束どころか楯すら準備できずに豊臣方との戦闘に突入することになったという。戦いの結果が前田軍と同様になったのはいうまでもない(後述)。

「真田丸の戦い」幕を開ける

こうして真田丸に対峙していた徳川方の諸将らは手柄を焦り、夜明け前に城際まで迫ることになった。やがて夜が明けて濃霧も晴れてくると、豊臣方は敵将の接近を察知し、激しい弓と鉄砲による攻撃を開始したのである。
ここに "真田丸の戦い" の幕が開けた。

『津山松平家譜』によると、徳川方は連携がとれず、藤堂高虎軍が戦闘に入ったのを知ると、松平忠直・前田利常・井伊直孝らの軍は続々と攻撃を始めたと伝わっている。

前田軍は幸村の策にハマって統制を失い、真田丸に突撃するものが続出していた。そして真田丸からの激しい反撃にあって死傷者が続出し、甚大な被害を被った。

夜明け前に堀底に潜入していた井伊軍の先手の兵たちは、豊臣方の城兵の一斉射撃によって瞬く間に一人残らず戦死した。これに後続部隊は救援に向かうものの、全く堀に近寄ることができず、釘付けとなって味方の兵が討ち死にするのを見ているしかなかったという(『休庵咄』ほか)。

徳川方は真田丸の堀と柵を突破しようにも、その際に真田丸からの射撃の雨にさらされて成す術もなかったのである。

真田軍は敵を大虐殺!?

こうした真田丸での激しい攻防の中、真田丸後方の城壁を守る石川康勝隊が火薬桶に火縄を誤って落とし、火薬が爆発した。 この時に石川康勝は火傷を負って石川隊は崩れ、櫓も焼け落ちたという(『津山松平家譜』)。
また、堀底にいた松平軍の兵が大阪城の惣構えに突入したのもこの混乱に乗じたものであったという。

この爆発が結果的に徳川方にとって大打撃となってしまった。

徳川軍はこれを南条元忠の内応の合図と勘違いし、一挙に突撃を開始したといい、城壁の鉄砲に注意を払うことすらなく堀の中にまで下ったのである。
先に記したように南条元忠は内通がバレて前日の12月3日に既に処刑されていたが、豊臣方は南条が引き続き内応しているように見せかけて徳川軍を欺いていたのであった。

これに乗じて堀底にいた松平軍の兵200人程は惣構えに突入した者もいたが、城内に待機していた木村重成軍に包囲されて全員が討ち死にしたという。また、堀底に残された者も進むことも退くこともできずに討ち死にしていったという(『休庵咄』『津山松平家譜』)。

幸村はこの機を見逃さず、徳川の大軍をじっくりと引きつけた後で鉄砲で嵐のように一斉射撃。この様子をイエズス会宣教師は 書物で"大虐殺" という言葉を用いている

これに気付いた徳川軍の先頭は退却しようとするが、後方からは味方の大軍が押し寄せてきたために退くに引けず、退却する者・進軍する者が重なって衝突し、大混乱となった。

家康、ついに撤退命令を出す

戦闘は昼過ぎになっても続いていたが、真田丸での大敗を知った徳川家康はただちに戦闘中止と撤退の命を各隊へ出した。

しかし、豊臣方から狙撃される恐れがあったことと、他の隊よりも早く撤退するのはメンツがたたないこと等が理由で 徳川方の兵たちは退却もままならなかったという。

玉薬の節約で豊臣方が射撃を控えるようになった夕方頃、井伊軍が撤退をはじめたことで松平軍もこれに続き、ようやく両軍の戦いが集結したという。
城内からの狙撃を恐れ、夜になるのを待ってから堀底や土居から抜け出て逃げ帰った者もいたという(『大阪御陣覚書』など)

こうして徳川方は真田丸の攻防で大敗を喫し、その死傷者は数万にも及んだとみられている。

また、戦功をはやった前田軍の小姓らは戦後、詮議にかけられ、阿井八兵衛と山田大炊は切腹を命じられたと伝わっている(『前田家雑録』ほか)。

家康、砲撃・心理戦を展開

家康は大阪城への砲撃のほかに、各隊に交代で夜通しで "鬨の声" をあげさせて豊臣方に緊張と疲労を与えようと、同時に心理戦も展開したという。

一説に「徳川の総攻撃が始まるのか!?」と大阪城内の町人や女子供らを恐怖に陥れ、惣構えから三の丸へ逃げ込む人々の波ができたといい、あまりの混乱ぶりに橋から落下して500余の人々が死亡する惨事になったという。
また、これに対し、幸村・後藤又兵衛・長宗我部盛親は、兵士たちに「夜襲などありえず、豊臣方の出方や守備の様子を探るためのものだから持ち場を堅固にして無駄に発砲しないように」の旨を下知してまわったといい、このため、城方は静まりかえって落ち着いた様子になったという(『老少聞書』)。

驚愕の条件で和睦合意へ

こうした中、水面下では講和を目指す家康と豊臣方との間で和睦交渉も始まっていた。

豊臣方では淀殿が権威を振りかざし、どうも意見がまとまらないと伝聞されており、さらに城内では鉄砲や大砲の火薬と鉛が不足しはじめていたようである。

秀頼は味方として身を挺して戦っている牢人衆への処遇にこだわっていた。しかし、家康は敵となって立ちはだかっている彼らを許しがたかったとみられている。
こうしたことから12月8日以降の交渉の議題は、豊臣方の牢人の処遇問題に集中したようである。そして12月15日になってようやく豊臣方から家康に対し、以下のように2つの和睦条件を提示するという動きがみられた。

  1. 淀殿が人質として江戸に行くこと
  2. 大阪城内の牢人に扶持(=武士に米で与える給与)を加増すること

しかし、家康は上記2を不満としてこれを拒否したという(『駿府記』)。

大阪城への一斉砲撃、はじまる

12月16日からは、徳川方による大阪城への一斉砲撃が開始された。
砲撃は大阪城に最も近い備前島で実施され、大阪城本丸や天守にも砲弾が着弾することもあったといい、その砲撃の音は凄まじく、遠い京都にまで届き、その音を聞きながら茶会が催されたともいう。また、一説に本丸への砲撃が淀殿の居所近くに着弾して侍女が7~8人死亡し、これに恐怖した淀殿が一気に和睦へ傾いたという。

12月17日には和議成立の噂が流れたが、翌日に破談になったとされた。また、このころに秀頼から和睦提案もあったらしいが、どうやら不調に終わったようである。

和睦交渉は当初、豊臣方は大野治長・織田有楽斎ら、徳川方は本多正信・後藤光次らが担っていたが、 12月18日、家康は淀殿説得のために常高院(淀殿の妹)を派遣、これに本多正純・阿茶局を補佐につけて送りこんだ。

和睦交渉

交渉は徳川方の京極忠高の陣所で行なわれた。

そして翌12月19日、ついに合意に至ったのである。その内容は以下の五カ条であった。

  1. 牢人ら豊臣の将を不問とする。
  2. 秀頼の知行を安堵する。
  3. 秀頼の身の安全を保証する。
  4. 淀殿の江戸在住(=要するに人質)を不要とする。
  5. 大阪城を開城すれば、望む国を与える。

しかし、条件はこれだけではなく、のちの豊臣家滅亡につながる大阪城の惣構・二の丸・三の丸の破却と堀の埋め立てという驚愕の内容も含まれていたのであった。

12月20日、家康父子より鉄砲射撃停止命令がだされる(『三才雑録』)。
すると、豊臣・徳川双方の兵らが大阪惣構の堀際に集まり、親類や知己の死骸を探し回ったという(『福富覚書』『士談会稿』)。

豊臣の牢人らは赦免されることになったが、この和睦にほとんどの牢人が不満であった。

一説に幸村は徳川の油断を見計らって夜襲を企図したが、家康は警固を厳重にしていたため断念したという(『松代真田家譜』)。また、幸村と後藤又兵衛が家康父子を追撃して江戸に侵攻すべきだと主張したとも伝わる(『休庵咄』)

12月21日、和睦の起請文の取り交わしが完了し、この日から堀埋め立ての手配・工事が着手されたといい、作業は諸大名が総出で昼夜問わず実施されたという。(『大阪冬陣記』『翁物語』)

家康の陰謀!?大阪城が丸裸に

大阪城の埋め立て工事の担当は豊臣方が二の丸・三の丸、徳川方が惣構であったという(『本光国師日記』『綿考輯録』)。

徳川方が担当した惣構の埋め立ては12月24日にはほぼ完了したといい、一方で豊臣方の担当した埋め立ては難航し、完了は翌慶長20年(1615)1月22~23日頃だったという。

大阪城の埋め立ては家康による謀略説が有力視されていた。外堀だけを埋める約束だったのが、徳川方の強引な解釈ですべての堀の埋め立てを強行したという。

しかし、信頼のおける史料では埋め立て工事の担当は豊臣方が二の丸・三の丸、徳川方が惣構であった(『本光国師日記』『綿考輯録』)。つまり豊臣方が本丸だけを残して丸裸になるのは了承済みであったということである。

こうしたことから現在は家康による謀略説は疑問視されている。


【参考文献】
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  •   この記事を書いた人
    戦ヒス編集部 さん
    てすてす


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