「武田信繁」武田軍団の副大将を務めた信玄の弟
- 2019/01/18
武田信玄の実弟として知られ、後世においても、その功績や人格を称えられている武田信繁(たけだ のぶしげ)。彼はどうしてそこまで高い評価を受けているのでしょうか。彼の生涯を通して、その理由を探っていきたいと思います。
父には寵愛され、兄に忠節を尽くす
大永5(1525)年、信繫は武田信虎の四男として誕生しました。兄が3人いましたが、長兄と三兄は早くに亡くなり、残った4つ上の次兄がのちの武田信玄です。この頃の武田氏は、信玄・信繫兄弟の父・武田信虎が甲斐国の統一をおおよそ成し遂げ、国外へ進出して後北条氏と抗争を繰り広げるようになっていました。天文6年(1537)には駿河今川氏で今川義元が当主の座に就き、武田・今川間で甲駿同盟が締結されることとなります。その生涯を通して、誠実という二文字で人間性を表すことができるようになる信繫ですが、それは幼い頃からずっと彼の根底にあったようです。
『甲陽軍鑑』によれば、父・信虎は、信玄と信繁を比較し、何かと優れていた信繁のほうにばかり愛情を注ぎ、ついには信玄を廃嫡して信繁を後継者にするつもりだったともいいます。天文7年(1538)正月元日の祝儀の席上では、信虎は信玄に盃をささず、信繁にだけ盃をさしたといい、信繫への偏愛があったと考える説もあります。
とはいえ、信繁が増長することはありませんでした。盃の一件が事実とするならば、当時まだ14歳とはいえ、信繁は常に兄の信玄をよく立て、家督を継ごうという野心は全く見せることはなかったのです。
その姿勢は生涯にわたって続き、信玄の元服時、同時に元服をすすめられた信繁は、「兄の許可なく元服はしない」旨の起請文を出してこれを辞退したといい、後に信玄の許可を得てから元服したと言われています。
元服後の「典厩(てんきゅう)」という呼び名は、名乗った官途「左馬助」の唐名に由来し、信繁が「古典厩」、息子の信豊が「新典厩」と区別されます。
なぜそこまで兄に忠義を尽くしたのか
物心ついてからずっと、信繁は兄・信玄に対して尊敬の念を抱き続けていたようです。元服後に家臣団に対し、「信玄公は兄ではなく、甲斐武田家の当主。間違っても、我々は信玄公の弟であるとか、信玄公の弟の家臣団であるなどと驕り高ぶってはならない」と言い含めているように、いわゆる「長幼の序」を重んじていたことがわかります。長幼の序をはじめ、親兄弟などの年長者を敬う「孝悌」の念など、信繁の考えの基本には儒教が根付いていたと思われます。成長してからも、教養の高さが言動や行動の端々に見て取ることができる信繁ですが、中国の古典を武家のたしなみと以上に深く掘り下げ、自らの行動理念を早くに築き上げていたのでしょう。
兄2人が早くに亡くなったということもあり、武田家と兄を支えるのは年の近い弟である自分しかいないとの思いを強めていたのかもしれません。
父・信虎追放に際しての信繁の心中はいかに?
天文10(1541)年、娘婿の今川義元に会うため駿河国に出発した父・信虎は、家老の板垣信方と甘利虎泰に信玄を預け、信繁には躑躅ヶ崎館の留守居役を命じました。信虎の目的は今川義元と今後の協議をするためでしたが、その後、甲府へ戻ることはできませんでした。というのも、信玄と板垣・甘利ら重臣によって甲駿の国境が封鎖され、信虎は事実上追放されてしまったからです。
このクーデターの理由は諸説ありますが、一因として、信虎が信玄を廃嫡して信繁に家督を譲ろうとしていた点も挙げられています。すでに重臣たちの心は信玄にあり、信虎との間に亀裂が入っていたのです。この時、信玄21歳、信繁は17歳でした。
兄による父の追放は、信繁の心にどんな感情を去来させたのでしょうか?
儒教に基づく行動を理念としていた信繫ならば、年長者へのこうした扱いを善しとしなかったかもしれません。ただその一方で、儒教は君臣間の道徳も説いています。となれば、兄の廃嫡を画策していたかもしれない父を追放することは、兄を敬い、将来の主と仰いでいた信繫にとってはそれもやむなしとの思いに至らしめたのかもしれません。
やがて兄信玄の片腕へと成長
父を追放し、晴れて甲斐武田氏の当主となった信玄は、引き続き今川氏との同盟関係を継続させる一方で、信濃国への侵攻に関しては、諏訪氏の領地奪取に本腰を入れ始めます。信繁は宿老の板垣信方と共に出陣し、諏訪攻略の柱となりました。その後起こった高遠頼継の反抗に際しても鎮圧軍の大将を務めています。しかし、天文17(1548)年2月、北信濃の村上義清との間で起きた上田原の合戦では、板垣信方と甘利虎泰が討死し、信玄にとって初めての大敗となってしまいました。
これで勢いを失うかに見えた武田軍の侵攻でしたが、同年7月には塩尻峠の戦いで小笠原長時を圧倒します。盛り返した武田軍の中心には、先陣を務めた信繁がいました。苦しい状況下で自分を支えてくれる弟の存在を、信玄は心底頼もしく思ったことでしょう。
惣領家への配慮
自身の元服時には兄・信玄への配慮を見せ、許可なく元服しないとの誓いを立てたほどの信繁でしたが、天文19(1550)年に信玄の嫡男・義信が元服すると、翌天文20(1551)年には武田氏の庶流・吉田氏の名跡を継いだと伝わっています。(『高白斎記』)実際に信繁が吉田姓を名乗った形跡は見られないのですが、ここには甥・義信への信繁の配慮がうかがえます。
信玄の後継者となり、ゆくゆくは惣領家の当主となる義信に対し、信繁自身はあくまで臣下の礼を取ることを示したのでしょう。後に彼が制定した九十九ヶ条の家訓の中にも、「惣領家に対して謀反してはならない」と記されているように、一族ではあっても嫡流=主君を重んじる彼の誠実さが表れていると思います。
多岐にわたる信繁の活躍。その評価は?
『甲陽軍艦』によると、信繁は、武田重臣の山県昌景から、内藤昌豊と並んで「真の副将」と評されており、江戸時代に伝わる"武田二十四将" では、副大将に位置づけられています。さらに、江戸時代の儒学者・室鳩巣からは "賢" と称すべき人と評価されています。(『駿台雑話』)このように高い評価を得た理由の最たるものとして、信繁が戦場以外でも活躍の場を持っていたことが挙げられるでしょう。
当主たる兄・信玄の上意を伝えるという重要な役割を何度も務め、対外的には礼状を発行するなど交渉役も担っており、ただの武辺者ではなかったことがわかります。
また、和歌を嗜むなどして深い教養があったことも、公卿の四辻季遠や冷泉為和らとの交流や、作成した家訓などからうかがえます。時に交渉相手とは世間話もしたでしょうし、そんな時に教養の深さを見せられれば、信繁自身だけでなく武田氏全体の威信向上にもつながってきたと考えてもいいのではないでしょうか。
すでに述べたように、中国の古典にも造詣が深かった信繁。残した言葉の多くが、『論語』『孫子』『礼記』『韓非子』などから引用されています。
川中島での最期
戦国武将が影武者を立てるのは決して珍しい話ではなく、武田信玄もその例に漏れず、何人かの影武者がいたと言われています。信玄・信繁の弟に当たる武田信廉が有名ですが、信繫自身もまたそのひとりだったとも伝わり、「もし信玄公に一大事の時が来たら、自分が身代わりとなって必ず討死する」と日頃から口にしていたという話もあります。その忠義が示された最後の戦いとなったのが、永禄4(1561)年の第四次川中島合戦でした。
軍師・山本勘助の策を容れた信玄は、妻女山の上杉謙信の陣に別働隊が攻撃を仕掛ける一方で、信玄率いる本隊が退却してくる上杉軍を待ち伏せ、挟撃することにしたのです。しかし作戦決行の当日早朝、深い霧が晴れた先に信玄本隊が見たものは、目の前で臨戦態勢を取った上杉軍でした。策はすでに見抜かれていたのです。形勢は一気に武田不利へと傾きました。
この時、信繁は本隊の前衛として布陣しており、まともに上杉軍の攻撃を食らうことになりました。それでも彼は「全員が討死を覚悟しているから援軍は不要。この間に勝利の工夫をするように」との使者を信玄に送ったそうです。そして、信玄から拝領した母衣と息子・信豊のことを家臣に託すと、戦場へと身を投じ、帰らぬ人となりました。享年37。その早すぎる死は敵味方問わず惜しまれたそうです。
武田に仕え、後に徳川家康を苦しめた真田昌幸は、息子に「信繁」と名付けます。信繫を尊敬した昌幸がその名を取ったとも言われていますよ。
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