「直江景綱」謙信を含め、越後長尾氏三代に仕えた宿老の生涯とは

上杉家において極めて高い知名度を誇る家臣といえば「直江一族」でしょう。特に上杉景勝の側近として活躍した兼続は、「愛一文字」の兜や大河ドラマ『天地人』の主役としても著名です。しかし、兼続が活躍する以前にも、直江家は上杉家中で極めて重要な立ち位置にありました。

この記事では、長尾三代(為景・晴景・謙信)に仕えて力を発揮した直江景綱(なおえ かげつな)という人物の生涯について解説していきます。

為景・晴景時代

景綱は越後守護の上杉家に仕えていた重臣の飯沼氏という一族に従う直江家に誕生しました。父は直江親綱とされますが、生年や出自についてはハッキリとしたことは分かっていません。そもそも直江氏は景綱以前は不明瞭なようです。

永正4(1507)年には、越後守護・上杉氏とその守護代である長尾氏との抗争によって、主家の飯沼氏が滅びてしまったようで、以後は景綱率いる直江氏が与板城という城を本拠に活躍していくことになります。

為景・晴景に仕えた景綱は家臣として一定の地位を築いていたようで、天文11(1542)年には伊達氏との間で持ち上がっていた時宗丸(のちの伊達実元)を、越後守護の上杉定実の後継者として上杉家に入れるのに際し、彼を伊達の居城まで迎えに上がっていたことが確認されています。

しかしながら、この一件は越後領内に対する伊達氏の介入を招き、さらに彼らのお家騒動(いわゆる天文の乱)に巻き込まれる形で越後国は完全に二分化してしまうのです。

事務方の仕事で謙信を支える

ここで頭角を現してきたのが上杉謙信です。謙信は反乱を首尾よく治め、そのまま長尾氏の家督を継承しました。景綱はここでの謙信による後継を推進したとも伝わっており、彼らの信頼関係はこの時期に築かれたという説もあるとのことです。

当時の越後はひどい内乱状態が続きました。謙信自身、国のために戦っているにもかかわらず、国元が越後守護代の長尾派と越後守護の上杉派に分かれて分裂状態にあり、彼はそれを憂いて出家を示唆するほどでした。

景綱は長尾派(謙信派)としてこの争いに加担したため、上杉派が一掃されて以降は奉公衆の一員として謙信の活動を支えていくようになります。

永禄2(1559)年に謙信が上洛したときには、幕府との折衝に骨を折ったほか、帰国した謙信に対して上洛成功の祝いとして太刀を贈呈しています。さらに、翌年に謙信が関東出兵を企図した際には、越後国内の留守役を監視するという大役を任されるなど、謙信からは信頼を得ていたようです。

また、景綱は内政や外交のほか、戦場においても活躍を見せています。永禄4(1561)年の第四次川中島の戦いにおいては、予備兵を率いて本隊の補給線を確保すると、啄木鳥戦法を用いて本隊を陥れんとする武田の別動隊を足止めしたと伝わります。

信玄と謙信の一騎打ちの絵

こうした渋い働きで死闘を支えたことから、景綱は戦場の最前線に立つよりも、内政や外交面で活躍する吏僚タイプの武将だったのかもしれません。

なお、永禄7(1564)年には謙信がかつて名乗っていた「景虎」の名から一字を拝借し、これまで名乗っていた直江実綱の名を「景綱」へと改めています。

晩年の景綱は?

高齢になっても変わらず活躍を見せていた景綱は、元亀2(1571)年に武田勢が北条方の深沢城を攻めた際に武田援軍として派遣されました。この戦は武田方がすぐに退散してしまったため彼もまた本国へと呼び戻されてしまいましたが、恐らく60代近いと思われる年齢でもなお一線級の働きを披露していたようです。

さらに、天正3(1575)年にまとめられた「上杉家軍役帳」によると、家中でもトップクラスの軍役を負担していたことが分かります。これは言うまでもなく直江氏の勢力が強大であったことを示しており、彼らの影響力の強さを物語っています。

一方、晩年の景綱は出家を経験しており、「酒椿斎(しゅちんさい)」という名を名乗っていたようです。出家後も武将として働いており、天正4(1576)年には石動山城の城主に任じられています。

こうして晩年まで活躍を続けた景綱は、翌年に七十歳あまりの生涯を終えたとのことです。

その後の直江家

その後の直江家ですが、景綱には男子の後継者がいなかったため、婿養子として長尾顕景という人物の子を迎え入れ、景綱の娘「お船の方」と結婚させています。この人物に「直江信綱」と名乗らせ、後継者としました。

しかし、天正6(1578)年に謙信が急死すると、上杉家の家督争い・御館の乱が勃発。長期にわたる争いの中で、上杉景勝を支援して勝ち抜いた信綱でしたが、天正9(1581)年に不運にもこの戦いの恩賞をめぐるトラブルに巻き込まれて、殺害されてしまうのです。

突如として空席となった直江家の当主の座。そこで上杉景勝の命により、信綱の跡を継いで直江家に婿入りしたのが、世に名高い「直江兼続」です。彼は直江家との縁は無かったものの、景勝側近としてお船の方と結婚し、大身の直江家を継いで上杉家を支えていくことになりました。

直江兼続の銅像
兼続お船ミュージアム(新潟県長岡市)の前にある直江兼続の銅像

景綱と兼続。やや奇妙な親子関係とも言えますが、その後の兼続の活躍のおかげで、景綱の知名度も上がったのは間違いないでしょう。

兼続はお船を大切にし、側室を置かなかったというエピソードは広く知られています。ただ残念ながら、兼続とお船との間に生まれた男子は夭折したため、直江家は兼続の代で断絶しています。


【参考文献】
  • 矢田俊文『上杉謙信』ミネルヴァ書房、2005年。
  • 鈴木由紀子『直江兼続とお船』幻冬舎、2009年。
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』、学研パブリッシング、2009年。
  • 乃至政彦『上杉謙信の夢と野望:幻の「室町幕府再興」計画の全貌』洋泉社、2011年。
  • 乃至政彦・伊東潤『関東戦国史と御館の乱:上杉景虎・敗北の歴史的な意味とは?』洋泉社、2011年。

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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