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謎の死で短命に終わった今川当主「今川氏輝」の生涯とは

今川氏といえば、河内源氏の流れを受け継ぎ、将軍足利氏より御一家として遇された吉良氏の分家という名門中の名門です。足利氏が絶えた場合は吉良氏から将軍を輩出し、吉良氏が絶えた場合は今川氏より将軍を輩出するように定められていたとも伝わっています。

そんな名門今川氏の第10代当主が「今川氏輝」です。病弱だったために22歳という若さで亡くなりましたが、その死の真相はよくわかっていません。今回は謎の死を遂げた彼の生涯についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと 理穂)

今川氏親の嫡男として誕生

今川氏と後北条氏との関係

氏輝の父である今川氏第9代当主、今川氏親は家督争いで一時は滅亡の危機を迎えています。この窮地を救ったのが、氏親の母、北川殿の弟である伊勢盛時(北条早雲)です。氏親は叔父である盛時の力を借りて、正式な今川氏の当主となったわけです。

盛時は後北条氏の祖とされており、この時から今川氏と北条氏は互いに支え合って勢力を拡大していくことになります。名目上は北条氏は今川氏と主従関係にありますが、今川氏は北条氏の力を借りて遠江国へ侵攻し、北条氏は今川氏の力を借りて関東に進出していくのです。

この関係はそれぞれの子の代にも変わらず続きました。それが、今川氏第10代当主となる氏輝と、北条氏第2代当主となる北条氏綱です。

後見人である母、寿桂尼が政務を代行する

氏輝は永正10年(1513年)に氏親の嫡男として生まれました。幼名は竜王丸で、大永5年(1525年)に元服し、氏輝を名乗っています。

氏親の晩年は中風に苦しめられていたようで、政務は正室である寿桂尼が代行しています。そして氏親が病没する直前の大永6年(1526年)4月に、分国法である「今川仮名目録」が制定されます。家督をスムーズに氏輝に移行させる狙いもあったようです。

氏親は同年6月に病没し、氏輝が14歳にして家督を継ぎました。ただし政務は引き続き、母の寿桂尼が代行していたようです。氏輝が当主を務めていた期間に15通の文書を発給しています。大半が仮名書きで、朱印状でした。

また、氏輝は病弱だったため、氏親の二男である彦五郎が当主継承権を持って待機していたようです。同じく寿桂尼の子とされる五男は出家して栴丘承芳と名乗っています(後の今川義元)。

当主として政務を取り仕切る

冷泉為和より和歌を学ぶ

氏輝の母である寿桂尼は、公家出身で、藤原北家の観修寺流中御門の娘です。そのため、今川氏と京都の繋がりはより強くなったようです。京都より駿河国に多くの公家が下向し、歌会などが開催されていました。氏輝は、その中のひとりである冷泉為和の門弟となり、和歌を学んで、都の公家や文化人と盛んに交流をしていたようです。

毎年正月に開かれる今川氏歌会始や、宗長(連歌師)や為和の指南する歌会にもたびたび参列しています。享禄3年(1530年)には、近衛尚通が『古今和歌集』を氏輝に贈りました。さぞかし氏輝は喜んだことでしょう。軍事行動は少なかったようで、名門今川氏の当主として、周辺諸国の戦国大名とは一線を画しています。

甲斐国、武田信虎との戦い

天文元年(1532年)の頃から、氏輝も当主として領国経営を開始しています。この年に父である氏親が平定した遠江国での検地を実施しました。氏親も同じように検地を実施しており、氏輝はそれを引き続き行ったようです。

また、朝廷に献上して中央との関係を強化しています。さらに馬廻衆の創設や、流通の活性化のための政策を実施していきました。 氏輝の発給文書は43通残っており、寿桂尼とは異なり、真名書き(漢字文)であり、花押の添えられた判物となっています。

甲斐国の武田氏とは氏輝が家督を継いだ年に和睦していましたが、天文3年から4年(1534年から1535年)にかけて交戦した記録が残っています。この時、同盟国である北条氏が甲斐国に攻め込み、山中の戦いで武田氏当主である武田信虎の弟、勝沼信友を討っています。氏輝自身が出陣したという記録は残っていません。病弱だったこともあり、戦場に出るようなことはなかったのでしょう。

武田氏を退けた後の、天文5年(1536年)、為和らと共に北条氏の歌会参列のため小田原へ出向いた記録が残っていますが、直後に急死。後継者である弟の彦五郎も同日に亡くなったとされています。詳細は不明です。

毒殺説や自殺説などの憶測が飛び交わっていますし、彦五郎についてはさらに不明な点が多く、跡を継いだ義元によって意図的に記録が削除されたという説もあります。また、彦五郎が氏輝自身のことだという説もあり、この場合、氏輝と彦五郎は同一人物となります。

まとめ

氏輝の跡を継ぎ、今川氏第11代当主となった義元はこれまでの方針を転換し、武田信虎の娘を正室に迎え姻戚関係を結びました。怒った北条氏綱は今川氏との同盟を破棄しています。
この辺りの周辺諸国との関係を探っていくと、もしかすると氏輝の死の真相が見えてくるのかもしれません。

氏輝が当主であり続けていれば、積極的に尾張国に攻め込むこともなく、桶狭間の戦いも起こっていないでしょうから、今川氏、織田氏、武田氏、北条氏のパワーバランスがどうなっていたのか非常に興味深いものがあります。





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