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  • 今川義元
 2019/10/09

「今川氏輝」謀殺か?若くして謎の死を遂げた今川当主の生涯とは

氏輝・義元の墓がある臨済寺(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AF%BA_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E5%B8%82)" target="_blank">wikipedia</a>)
氏輝・義元の墓がある臨済寺(出所:wikipedia

今川氏といえば、河内源氏の流れを受け継ぎ、将軍足利氏より御一家として遇された吉良氏の分家という名門中の名門です。足利氏が絶えた場合は吉良氏から将軍を輩出し、吉良氏が絶えた場合は今川氏より将軍を輩出するように定められていたとも伝わっています。

そんな名門の駿河今川氏で初代範国から数えて8代目当主だったのが「今川氏輝」です。病弱だったために22歳という若さで亡くなりましたが、その死の真相はよくわかっていません。今回は謎の死を遂げた彼の生涯についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと 理穂)

氏親の嫡男として誕生

氏輝は永正10(1513)年に駿河今川当主・今川氏親の嫡男として生まれました。幼名は龍王丸といい、大永5(1525)年に元服して"氏輝"を名乗っています。

※参考:駿河今川氏の系譜
  • 初代範国
  • 2代範氏
  • 3代泰範
  • 4代範政
  • 5代範忠
  • 6代義忠
  • 7代氏親
  • 8代氏輝
  • 9代義元
  • 10代氏真

今川氏と後北条氏との関係

かつて父氏親が幼い頃、今川家は家督争いにおいて滅亡の危機を迎えていました。この窮地を救ったのが氏親の母・北川殿の弟である伊勢盛時(のちの北条早雲)です。氏親は叔父である盛時の力を借りて、正式な今川氏の当主となったわけです。

今川氏親の家督争いの構図
今川氏親の家督争いの構図

盛時は後北条氏の祖とされており、この時から今川氏と北条氏は互いに支え合って勢力を拡大していきました。名目上は北条氏は今川氏と主従関係にありますが、今川氏は北条氏の力を借りて遠江国へ、北条氏は今川氏の力を借りて関東へと進出していっています。

この関係は氏輝の代にも変わらず続いており、北条氏は2代目北条氏綱となっています。

家督継承直後、しばらくは母が政務を代行

父氏親の晩年は中風に苦しめられていたようで、政務は正室である寿桂尼が代行していたとみられます。

氏親が病没する直前の大永6(1526)年4月に制定された分国法『今川仮名目録』は、実際には寿桂尼が家臣たちと定め、氏親名義で発布したのではないか、と考えられているようです。

同年6月に氏親が病没すると、氏輝は14歳にして家督を継承しています。ただし、国主になるには少し幼過ぎたのもあり、事実上の領国経営は寿桂尼が行っていたと考えられているようです。彼女はこの当主代行ともいえる期間に15通の文書を発給しており、その大半が仮名書きで朱印状のようです。

氏輝の発給文書の初見は大永8(1528)年です。2年の準備期間を経て、氏輝が16歳になって初めて当主として政務をとったとみられています。

ただ、氏輝は病弱だったことから、氏親の二男である彦五郎が当主継承権を持って待機していたようです。同じく寿桂尼の子とされる五男は出家して栴丘承芳(のちの今川義元)と名乗っています。

公家や文化人との交流

氏輝の母である寿桂尼は、公家出身で、藤原北家の観修寺流中御門の娘です。そのため、今川氏と京都の繋がりはより強くなったようです。京都より駿河国に多くの公家が下向し、歌会などが開催されていました。

氏輝は、その中のひとりである冷泉為和の門弟となり、和歌を学んで、都の公家や文化人と盛んに交流をしていたようです。 毎年正月に開かれる今川氏歌会始や、宗長(連歌師)や為和の指南する歌会にもたびたび参列しています。

享禄3(1530)年には、近衛尚通が『古今和歌集』を氏輝に贈りました。さぞかし氏輝は喜んだことでしょう。

氏輝の国政

天文元(1532)年の頃から、氏輝も当主として領国経営を開始しています。ただ、軍事行動は少なかったようで、名門今川氏の当主として周辺諸国の戦国大名とは一線を画しています。

氏輝の発給文書は43通残っており、寿桂尼とは異なり、真名書き(漢字文)であり、花押の添えられた判物となっています。

当初は父氏親の路線を継承しています。例えば氏親が平定した遠江国での検地の実施です。氏親も同じように検地を実施しており、氏輝はそれを引き続き行ったようです。また、朝廷に献上して中央との関係を強化しています。

その一方、馬廻衆の創設や流通の活性化のための政策も実施していますが、これらは氏輝の代になって初めて行われているので、彼独自の政策と考えられています。

甲斐武田氏との戦い

また、甲斐国の武田氏とは氏輝が家督を継いだ年に和睦していましたが、天文3-4(1534-35)年にかけて交戦した記録が残っています。この時、同盟国である北条氏が甲斐国に攻め込み、武田氏当主である武田信虎の弟・勝沼信友を討っています。

ただし氏輝自身が出陣したという記録は残っていません。病弱だったと伝わっているので戦場に出るようなこともなかったのでしょう。

武田信虎の肖像画
氏輝の死後、義元の代に婚姻同盟を結んだ武田信虎。

謎の突然死

武田氏を退けた後の、天文5(1536)年、為和らと共に北条氏の歌会参列のため小田原へ出向いた記録が残っていますが、直後に急死。後継者である弟の彦五郎も同日に亡くなったとされています。詳細は不明です。

毒殺説や自殺説などの憶測が飛び交わっていますし、彦五郎についてはさらに不明な点が多く、跡を継いだ義元によって意図的に記録が削除されたという説もあります。また、彦五郎が氏輝自身のことだという説もあり、この場合、氏輝と彦五郎は同一人物となります。

まとめ

氏輝の跡を継ぎ、今川氏第11代当主となった義元はこれまでの方針を転換し、武田信虎の娘を正室に迎えて姻戚関係を結びました。

怒った北条氏綱は今川氏との同盟を破棄しています。この辺りの周辺諸国との関係を探っていくと、もしかすると氏輝の死の真相が見えてくるのかもしれません。

氏輝が当主であり続けていれば、積極的に尾張国に攻め込むこともなく、桶狭間の戦いも起こっていないでしょうから、今川氏、織田氏、武田氏、北条氏のパワーバランスがどうなっていたのか非常に興味深いものがあります。


【参考文献】
  • 小和田 哲男『今川義元のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 有光 友學『今川義元(人物叢書)』(吉川弘文館、2008年)
  • 小和田 哲男『駿河今川氏十代(中世武士選書25)』(戎光祥出版、2015年)



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