本能寺の変の際、なぜ細川藤孝は光秀に味方しなかったのか?

本能寺の変で信長の暗殺に成功したものの、秀吉によって即座に討たれてしまった「三日天下」の武将。それが、明智光秀の一般的なイメージでしょう。そのあまりに短かった栄華が原因となり、光秀は短慮を起こしたと見なされることも少なくないように思えます。

ただし、光秀も全く考え無しに謀反を起こしたわけではありません。彼は謀反を起こしたのちに同僚であった細川藤孝(幽斎)を自陣営に引き入れようと画策していました。もっとも、この提案は細川家から色よい返事を引き出すには至らず、光秀は孤立無援の状態に陥ってしまうことになります。

そこで、この記事では光秀と藤孝の関係性を明らかにするほか、光秀が藤孝に提案した計画の内容と藤孝が味方をしなかった要因までを詳細に解説していきたいと思います。

光秀と藤孝の関係とは

まず、光秀と藤孝はともに織田信長が天下統一をもくろむ過程で家臣となった、いわば後発の家臣でした。そのため、両者にはある程度立場的に共通するところがありました。また、光秀の娘である明智玉子(細川ガラシャ)が藤孝の息子忠興に婿入りしているため、両者は親戚の関係にもあったのです。

光秀と藤孝は信長に仕えた過程や時期も近かった

光秀の出自は詳細にわかっていませんが、美濃土岐氏の一族の出で諸家を転々としたのち、足利義昭の家臣となっています。その義昭家臣時代に信長と藤孝に出会ったことで、彼は信長の家臣として召し抱えられるようになりました。

一方、藤孝は幕臣として足利氏に仕える細川家一門に生まれ、足利義昭の配下として彼の将軍就任に尽力していました。しかしながら、幕府そのものが三好氏らによって脅威にさらされたことで信長に助力を求め、やがて信長の家臣となりました。

つまり、両者はもともと足利家に仕えていたものの、信長と義昭の対立が生じた結果、信長に従ったという点で共通しているのです。そのため、基本的に一時期を除いて織田家家臣としての格は同格であり、お互いが現代でいうところの同僚的な立場にありました。

ガラシャの婿入りにより、両者は親戚の関係に

こうして信長の家臣となった光秀と藤孝ですが、両者をさらに接近させたのが子どもたちの婚姻でした。政略の一種として家臣同士の婚姻を奨励していた信長は、ガラシャと忠興を結婚させることで両家の結びつきを強めようと画策したのです。

そして命令を受けた両者はめでたく婚姻に至るのですが、この婚姻で特筆すべきは信長によって命令が下ってから実行までの期間が非常に短いことです。
その期間的な短さが意味するところは、信長の命令ではあるものの両家にとってこの婚姻が望むべきものだったことを意味していると考えられます。そうでなければ、実行までに婚姻への反対の形跡やタイムラグが残っていても不思議ではありません。

ただし、両家の結婚があくまで政略結婚に過ぎないことは事実です。そのため、両家に特別な縁が存在したわけではなく、この点が後の本能寺における出来事に関与したと考えられます。

本能寺の変の後、光秀が藤孝に提案した計画とは

さて、両者は天下統一事業を完成目前にした織田家において、後発の家臣ながら家内で力をもつようになりました。信長の天下統一を遮る障害は残りわずかとなっていたため、いよいよ二人も「天下の織田家家臣」となる日が目前に差し迫っているようにも思えました。

しかしながら、ご存知のようにこのタイミングで光秀は信長を突如として裏切り、本能寺の変を起こします。その理由に関しては諸説あるので省略しますが、信長を討った光秀は秀吉ら他の家臣たちとの「弔い合戦」に備える必要性が生じました。そこで、光秀は親戚の関係にあった藤孝に助太刀の要請を送ります。

ところが、光秀が要請を出す前に細川親子が髷を払って喪に服していることを知りました。これは、彼らが「信長の死を悼んでいる」ことを意味するので、送られた書状にはこれに怒りと焦りを感じている光秀の様子もうかがえます。また、この際の書状は3か条で構成されており、『細川文書』に内容が現存しているのでそれを紹介しておきます。

まず、髷を払っていることに関しては腹立たしく思っているが、事が起こってしまったのでなんとか助太刀を願いたい、という内容が書かれています。次に、助太刀の見返りとして摂津一国を用意しているが、希望があればさらに若狭一国も与える、という内容が書かれています。
そして、最後に謀反を起こしたのは忠興の処遇をよくするためであり、数十日あれば近国を平定できる、という内容が書かれています。

この書状を受け取った藤孝でしたが、彼は明智家との絶縁を突きつけ秀吉方に参戦するための準備を進めていくのでした。

こうして後ろ盾を失った光秀は秀吉に敗れ、戦から落ち延びる最中に命を落とします。一方で、細川家は秀吉の厚遇を受けて家名を残していくことになりました。

なぜ藤孝は光秀に味方しなかったのか

さて、ここまで本能寺の変をめぐる光秀と藤孝の動きを整理してきました。しかし、この内容だけではなぜ藤孝が光秀に味方しなかったのかを知ることは難しいでしょう。そこで、ここからはその部分の理由を考えていきます。

光秀の根回しが不足していた

これに関しては出来事を振り返っていくだけでもわかりますが、光秀には事前の根回しが明らかに欠けているという致命的な問題がありました。天下統一目前の将を裏切るということは、明らかに事前の準備が必要な作業です。そのため、変が起こってから藤孝がそのことを知ったという事実自体が、この準備不足を裏付けています。これではいきなり主君への反逆を申し付けられた藤孝が光秀を見限ったのも頷けます。

ただし、光秀という人物の経歴を見ていくと、これほど明らかな失態を犯すような人物には見えないという問題もあります。そもそも、仮に筆者でも容易に想像できる程度のことに考えが及ばない人物が、信長にあれほど重宝されるとは考えにくいのも事実です。それゆえに突発的な衝動説や陰謀説が出回っているのですが、残念ながら真相はわかっていません。

藤孝は光秀ほど「縁」を大切にしていなかった

もう一つの理由は、光秀と藤孝に彼らの「縁」に対する温度差があったことです。

先ほど挙げた光秀の書状を見ると、光秀はまさか藤孝が敵になることはないだろうと考えていたように思えます。物言いにも尊大なところがあり、忠興の正室の実家であるということを「強力な縁」だと考えていたのでしょう。

しかしながら、藤孝はこの縁をそこまで重視していなかった節があります。その理由としては、藤孝にとって光秀との関係はあくまで「信長ありき」なものであったことが挙げられます。

そもそも藤孝は義昭を見限るまでは幕臣としても高い位に位置しており、そこは光秀と対照的でした。しかし、信長家臣としての光秀と藤孝は対等であり、当然主命とあらば光秀とは対等に接することを求められました。つまり、光秀との姻戚関係という「縁」はその関係性の延長上に位置していたと考えられます。

したがって、藤孝が縁を結んだのはあくまで「織田家家臣としての明智光秀」であり、「明智光秀」その人ではなかったといえるでしょう。こうした藤孝の心中を把握しきれなかったことが、光秀の思い違いに繋がったのかもしれません。


【主な参考文献】
  • 米原正義編『細川幽斎・忠興のすべて』新人物往来社、2000年。
  • 安延苑『細川ガラシャ』中央公論新社、2014年。
  • 谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像』洋泉社、2014年。

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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