「堀秀政」信長の馬廻衆の中でもかなり好戦派!?

織田信長に寵愛を受けたエリート武将といえば、堀秀政(ほり ひでまさ)。彼は信長の死後も秀吉の下で出世街道を突き進みましたが、秀吉の天下統一を目前にして謎の死を遂げてしまいます。本記事ではそんな彼の生涯を追ってみたいと思います。

信長の寵愛を受ける

秀政は天文23年(1553)、堀秀重の嫡男として美濃国で誕生しました。

父の秀重は、最初は美濃の斉藤道三、次に織田信長に仕えて近江坂田郡に3000石を与えられます。そうした中、秀政は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫のもとで過ごしたとされています。

上茜部城跡にある堀秀政の生誕之地の石碑
上茜部城跡にある堀秀政の生誕之地の石碑(岐阜県岐阜市茜部本郷。出所:wikipedia

また、幼いころより頭も顔も良かったと言われ、かなり信長に寵愛されていたようです。実際、はじめは織田家臣の大津長昌や木下秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕えていましたが、のちに信長に見出されて小姓に取り立てられています。一説には、信長が秀政を見るや「その綺麗な子をワシによこせ」と言って信長に仕えるようになったとか…。

信長が足利義昭を奉じて上洛したのが永禄11年(1568)です。同時に若干16歳の秀政が15代将軍となった義昭の仮住まい普請奉行を任されている程ですので、その俊才ぶりは間違いないでしょう。その他にも建築工事の責任者や外交の使者など様々な仕事をこなしていたというから驚きです。

馬廻でありながら、合戦でも大きく貢献

織田政権の誕生後、勢力の拡大に伴い、信長自身が合戦で直接指揮することも少なくなると、馬廻衆の活躍の場も減っていきました。しかし、秀政だけは馬廻衆の身であっても合戦で多くの活躍した姿がみられるようになります。

天正5年(1577)には、高い軍事力を持った傭兵集団・雑賀衆の討伐が実施されますが、このとき馬廻衆で秀政だけが信長本陣から離れ、佐久間信盛・羽柴秀吉らとともに一隊を率いて敵陣を襲撃。さらに翌年の有岡城の戦いでは万見重元や菅屋長頼らとともに鉄砲隊の指揮を任されています。

また、天正7年(1579)の信長の摂津出陣にも従軍。その後、前田利家ら越前衆が応援にくると、秀政は越前衆とともに別所氏の播磨三木城攻めに駆り出されました。ただ、このときは合戦に参加したわけでなく、検使の役目だったようですね。

信長の二男である織田信雄が総大将となった天正9年(1581)の第二次天正伊賀の乱の際にも、近江衆を率いて信楽口から進軍し、合戦の勝利に貢献しています。


このように秀政は近習として信長を補佐するだけでなく、一武将として見事な働きをしていました。その戦いの働きぶりもさる事ながら、先に述べた政治や外交手腕など文武両道を遺憾なく発揮して、同年に近江国坂田郡に2万5千石を与えられています。

その実力は信長の腹心である丹羽長秀と比較されるほどに優秀だったとされます。長秀の通称は五郎左衛門尉といい、信長からは「米五郎左」と言われていました。

お米は毎日の生活で欠かせない貴重なものであり、長秀も米同様に欠かせない存在として評されていたのですが、そんな長秀と同じように秀政も「名人久太郎」と言われ、そこから名人と言われるようになったようです。

本能寺の変以後

天正10年(1582)の本能寺の変の際には、秀吉の軍監として備中国(現在の岡山県西部付近)に出兵していましたが、すぐに中国大返しを敢行する秀吉軍と合流しています。

秀吉による中国大返しの行程
秀吉による中国大返しの行程

信長の弔い合戦となった山崎の戦いでは、明智光秀の討伐に並々ならぬ強い思いがあったのか、秀政はこの合戦において高山右近とともに先陣を務めます。光秀の援護にきた従兄弟の明智秀満を坂本城に追い込んで自害させました。その後は秀吉に従い、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いや、翌年の小牧長久手の戦いでも一貫して秀吉方として参加しました。

天正13年(1585)の紀州攻めや四国攻めで武功を立てた後は、その恩賞として丹羽長秀の遺領である越前国北ノ庄18万石を拝領。さらに同年中に秀吉が関白になってからは従四位下・侍従兼左衛門督に叙任されるなど、ますます忙しくなってきます。

豊臣政権による天下統一戦は続き、天正14・15(1586~87)年の九州征伐でも先鋒を務めています。小田原征伐(1590)にも当然参加しますが、その最中に突如病気にかかり、天下統一の世をみることなく陣中で急死となりました。

おわりに

エリート武将の突然の死は色々な疑惑を残したまま謎に包まれています。北条家の刺客に暗殺された、秀政の出世に嫉妬した他の武将たちに毒を盛られた etc…。数々の陰謀論が飛び交っていますが、実際のところはわかっていません。


【主な参考文献】
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
  • 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』(中公新書、2005年)
  • 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
  • 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』(中公新書、1998年)

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  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

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