「佐久間信盛」筆頭格から追放へと大転落。信長を激昂させたセリフとは?
- 2019/12/24
退却戦の殿軍の指揮に優れていたことから "退き佐久間" と称され、織田家の最有力家臣として知られる佐久間信盛。しかし、晩年には信長の怒りを買って高野山へ追放されるという憂き目に遭っています。
今回はそんな信盛の大活躍と大転落の人生をみていきます。
今回はそんな信盛の大活躍と大転落の人生をみていきます。
信長の家督相続後に抜擢
信盛の初期の経歴ですが、実は不明点が多すぎて生誕年すらハッキリしていません。佐久間一族のルーツは桓武平氏の流れを汲む三浦義春の子・家村が、安房国に居住して佐久間氏を名乗ったことにはじまります。鎌倉時代には尾張国愛知郡御器所(愛知県名古屋市昭和区御器所町)に移り、やがて4家に分かれて尾張の国人領主として根付いたとされています。
若い頃より信盛は織田信秀(信長の父)に仕え、彼の葬儀のときに信長の弟・信行にお供していたように、はじめは信行に付属されていたようです。しかし、信長が家督を継いでからはすぐに信長に従ったとみられています。
実際、弘治2(1556)年に織田家のお家騒動となった稲生の戦いにおいては、柴田勝家や林秀貞らが信行を担いだのに対し、信盛をはじめとする佐久間一族は信長を支持しています。
いち早く信長の信頼を得て重用されるようになった信盛は、以後の信長の所領拡大の過程において、主だった合戦のほとんどに従軍していくことになるのです。
織田家中で台頭し、近江支配体制の一角を担う。
信長の転機となった永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際、信盛は善照寺砦を守備して今川兵200を討ち取ったといい、戦後に鳴海城を与えられて子の信栄とともに守備したといいます。永禄10(1567)年5月には信長の長女である徳姫が徳川家康の嫡男・松平信康に嫁いでいますが、このときに信盛が警護役を務め、三河国岡崎城まで供奉しています。
翌永禄11年(1568年)には、信長が足利義昭を奉じて大軍勢を率いて上洛作戦を展開。これに従軍した信盛は、その途上で丹羽長秀や木下秀吉(のちの豊臣秀吉)らとともに六角義賢の支城・箕作城を攻略し、観音寺城も無血開城させるなどの功をあげ、さらに上洛後においては、幾内の政務や治安維持を任されて京都に留まっています。
『多聞院日記』によると、信盛の他、村井貞勝・丹羽長秀・明院良政・木下秀吉の4人が信長の命で京都に残されたとのことです。
こうしたメンバーや上洛後の役割をみると、この時点ですでに信盛は信長の厚い信頼を得ており、織田家中でも重臣クラスに位置していたのが推測できますね。
年があけた永禄12(1569)年正月には、将軍の仮御所としていた本國寺が三好三人衆らに襲撃されますが、辛うじて防戦に成功しています。この事件をきっかけに信長は自ら京都で陣頭指揮を執り、防備の整った新たな御所・二条城の建設を行いますが、このときも信盛は京都・畿内で禁制の発行や兵糧米の賦課などの政務を執っているのです。
同年8月には、伊勢の国司・北畠氏との戦いにも従軍。大河内城を包囲した際には木下秀吉・氏家卜全・安藤守就らとともに城の西に配備されています。
近江支配体制
さて、上洛を果たした信長ですが、元亀元年(1570年)4月に突如信長の妹婿・浅井長政が越前朝倉氏に寝返ったため、すぐに近江国の支配体制を構築していきます。まずは以下、近江国の要所に家臣を配置しました。
- 永原城:佐久間信盛
- 長光寺城:柴田勝家
- 宇佐山城:森可成
- 安土城:中川重政・津田隼人正
この体制は六角氏や浅井・朝倉氏の来襲に備えるだけでなく、信長の居城である岐阜城と京都の通り道を確保する、という意味合いがあったようです。信盛もシッカリとその一員に抜擢されていますよね。
翌5月には、さっそく浅井の寝返りに呼応した六角軍が一揆勢を扇動して野洲川方面へ進軍してきます。このとき信盛は柴田勝家とともに野洲河原で迎撃してこれを撃退しています。
その後、休む間もなく信長軍は6月の姉川の戦い、9月からの志賀の陣など、浅井朝倉勢と対立、さらに本願寺顕如が突如挙兵して伊勢長島一向一揆もはじまりますが、信盛はこれらの戦に当然のごとく従軍しています。
元亀2年(1571年)の9月には、有名な比叡山焼討ちが実施されます。『甫庵信長記』などによると、信盛ら一部の家臣たちはこの焼討ちに賛同せずに信長を諌めますが、信長は反論して比叡山焼き討ちを決定したとか。
延暦寺・日吉神社はことごとく放火や殺戮、そして寺領や社領は没収され、その没収地は、信盛をはじめ、明智光秀・柴田勝家・丹羽長秀ら南近江に配置されていた部将に与えられ、近江の支配体制は整備されていきました。
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一方、この頃より信長に将軍権力を抑えられて不満を抱いていた足利義昭は、武田・上杉・本願寺・毛利氏などの各諸大名に御内書を下しはじめていました。つまり、打倒信長に向けて水面下で反信長勢力の結集を呼び掛けていたのです。そして元亀3年(1572年)、反信長勢力でも最強の人物・武田信玄が動き出します。
西への侵攻をもくろむ信玄は西上作戦を開始し、あっという間に徳川領を攻略。同年末の三方ヶ原の戦いでは、信盛と平手汎秀・水野信元の軍勢が援軍として家康の下に赴きますが、その兵力はわずか3千だったとか。。平手汎秀は討死し、信盛もなにも戦功をあげることもなく、退却したといいます。
その後、天正元年(1573年)4月に信玄が急死。これを機に信長は一気に反信長勢力をたたきます。7月に槙島城の戦いで将軍義昭を追放、8-9月には一乗谷城の戦いで越前朝倉氏を、小谷城の戦いで浅井氏を立て続けに滅ぼすのです。
信盛はこの一連の戦いすべてに従軍していますが、特筆すべきは朝倉氏との戦いに関しての『信長公記』の記述でしょう。
信長は信盛ら先陣の家臣たちに対し、朝倉を逃がさないように厳命していたが、朝倉軍が撤退したときに、先陣の追撃は信長本陣よりも遅れてしまったことで、信長から叱責されたといいます。
この時に柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉ら先陣の諸将らは謹んで陳謝したものの、信盛は涙を流しながらも弁明して信長を激怒させたとか…。
佐久間信盛
そうはおっしゃいましても、我々のような(優秀な)家臣はお持ちにはなれますまい。
この話が本当なら、信長が激怒するのも無理はないかもしれませんね。
信長の主な合戦にほぼ参戦
さて、将軍義昭が追放され、浅井・朝倉が滅んだあとも将軍に加担した勢力の掃討に動き、信盛ら織田軍に休息はなかったようです。浅井滅亡直後の9月、信盛は2度目の長島一向一揆攻めに参加。一方、追放された将軍義昭は河内国若江城へ移り、妹婿の三好義継の庇護下にありました。11月には、信長の命を受けた信盛が、若江城に攻め込み、三好義継を自害に追い込んでいます。その後、さらに続けて松永久秀の多聞山城を囲み、12月には久秀を降伏させます。
天正2年(1574年)には、信長による3度目の長島一向一揆攻めが行なわれ、7万ともいわれる信長の大軍は三手に分かれて、攻撃を開始。信盛や柴田勝家の隊は北西の賀鳥口に配置されていたとみられ、信長はこの戦いでようやく長島一向一揆を崩壊させました。
信盛は翌天正3年(1575年)も、第二次石山合戦と呼ばれる高屋城の戦い、鉄砲を用いて武田勝頼に大勝した長篠の戦い、越前一向一揆などに出陣し、信長の主な戦いに参加しています。
大阪方面軍団の総指揮官へ
天正4年(1576年)に入ると、信盛は水野信元が武田に内通している旨を信長に讒言し、信元を殺害まで追い込み、のちにその旧領を与えられています。また、同年5月に行なわれた本願寺攻め・天王寺の戦いでは、信長の軍勢は三段に配備されたが、信盛は先陣を務めました。信長軍は敵兵1万5千に対し、3千という少数の兵で立ち向かったが、これになんとか勝利しています。この戦いで、本願寺攻めの指揮官・塙直政が討死したため、信盛・信栄父子が後任として天王寺砦を守備することになりました。
領国が拡大した信長は、この年に方面軍団を配置して宿将に指揮権を委ねることにしますが、その方面軍の指揮官に任命されたのが信盛と柴田勝家の2人でした。
つまり、信盛は本願寺攻略を、勝家は北陸方面の平定をミッションとして大軍団を与えられたということ。信盛軍団は、配下に三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の7ヶ国の与力をつけられ、織田家臣団で最大規模のものとなったのです。
しかし、その後の信盛は天王寺城を本拠として4年間も本願寺の包囲を続けることに・・。その間、他の軍事作戦にもたびたび参加しています。
天正5年(1577年)には、雑賀攻め、謀反を起こした松永久秀を討伐した信貴山城の戦いなどに参戦。このほか、翌天正6年(1578年)に別所氏の謀反で勃発した播磨の三木城攻めに救援軍として赴いたりもしています。
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信長激怒!? 19ヶ条の折檻状
天正8年(1580年)、本願寺の包囲戦は何も変化がないまま、結局は信長と本願寺顕如との間で講和が結ばれ、両者は終戦。このとき信盛は松井友閑とともに和睦の使者となっています。しかしこの後まもなく、信盛・信栄父子は19ヶ条にわたる信長直筆の折檻状を突き付けられ、高野山へ追放されてしまうことに…。
その理由は折檻状に書かれているので、『信長公記』よりご紹介します。
- 一、佐久間信盛・信栄父子、5年間、天王寺に在城したが、その間、格別の功績もなかった。これは世間で不審に思われても仕方がない。信長も同感であり、弁護する余地もない。
- 一、その意図を推察するに、大坂方を大敵と考え、武力も行使せず、調略活動もせず、ただ居陣の砦を堅固に構えて何年か過ごしていれば、敵は僧職のことであるから、やがては信長の威光に屈して撤退するだろうと予測していたのか。しかし、武士の取るべき道はそうではない。このような情況下では、勝敗の機を見定めて一挙に合戦に持ち込めば、信長のため、ひいては佐久間父子のためにもなり、兵たちの苦労も終わって、誠に武士のとるべき道であった。しかるに、ひたすら持久戦のみに固執していたのは、分別もなく、未練がましいことであった。
- 一、丹波は明智光秀が平定し、天下に面目をほどこした。羽柴秀吉は数カ国で比類ない功績を上げた。また池田恒興は小禄ながら短期間で花熊を攻略し、これも天下の称賛を得た。佐久間父子はこれを聞いて発奮し、ひとかどの戦果を上げるべきだったのだ。
- 一、柴田勝家は彼らの働きを聞き、すでに越前一国を領している身ながら、天下の評判を気にかけて、今春加賀に進撃し、一国を平定した。
- 一、武力による作戦が進展しなければ、利益誘導などの調略活動をし、なお不充分なところがあれば信長に報告し、指図を受けて決着をつけるべきであった。しかるに、五年間一度も具申のなかったことは職務怠慢であり、けしからぬことである。
- 一、保田安政が先日よこした報告には、大坂の一揆勢を攻略すれば周辺に残る小城などは大方退散するはずだと書いてあったが、これに佐久間父子は連判をしていた。しかし、自分では何も具申をせず、保田に報告書を送らせたのは、自分の手数を省くつもりで保田の報告に便乗し、あれこれ意見を述べたのか。
- 一、信長の家中でも信盛には特別な待遇を与えているではないか。三河にも、尾張にも、近江にも、大和にも、河内にも、和泉にも与力を付けてあり、さらに根来寺衆も与力として付けてあるのだから紀伊にも与力がある。勢力は小さい者たちではあるが、七カ国に与力を持ち、その上に自分の軍勢を加えて出動すれば、どんな合戦をしてもさほどの負け戦となるはずはないのだ。
- 一、小河・刈屋の水野信元の死後、その地の支配を命じたので、以前より家臣の数も増加したろうと思ったが、その様子もなく、かえって水野当時の旧臣の多くを解雇した。たとえそうだとしても、それ相当に後任者を補充しておけば以前と同様なのに、一人も補充せず、解雇した者の知行地を直轄にして自分の収入とし、これを金銀に換えていたとは、言語道断の仕様である。
- 一、山崎を支配させたところ、それ以前に信長が目をかけていた者たちを間もなく追い払ってしまったのは、これも前項で述べた小河・刈屋での仕様と同じである。
- 一、昔から抱えていた家臣には知行を加増してやり、相応に与力を付け、新規に侍を召し抱えていれば、これほどの不手際をしなくても済んだはずであった。しかるに、けちくさい蓄財ばかりを心掛けていたから、今になって天下に面目を失い、その悪評は唐土・高麗・南蛮にまで知れ渡った。
- 一、先年、朝倉義景が敗走のおり(=一乗谷城の戦い)、戦機の見通しが悪いと叱ったところ、恐縮もせず、揚げ句に自慢をいって、その場の雰囲気をぶちこわした。あの時、信長は立場がなかった。あれほどの広言をしておきながら、長々と当地に滞陣しており、卑怯な行為は前代未聞である。
- 一、信栄の罪状は一々書き並べようとしても、とても書き尽くせるものではない。
- 一、大略をいえば、信栄は第一に欲が深く、気むずかしくて、良い家臣を抱えない。その上、職務に怠慢だという評判である。ようするに、父子ともに武士たるの心構えが不足しているから、このような有様なのである。
- 一、もっぱら与力を働かせ、当方の味方になるという者を信長に取り次ぐと、今度はその者を使って軍役を務める。自分の侍を召し抱えず、領内に知行人のない無駄な土地を作り、実際には自分の直轄として卑劣な収入を得ている。
- 一、与力や直属の侍までもが信盛父子を敬遠しているのは、ほかでもない。分別顔をして誇り、慈愛深げな振りをして、綿の中に針を隠し立てた上から触らせるような、芯の冷たい扱いをするから、このようになったのである。
- 一、信長の代になってから三十年仕えているが、その間に佐久間信盛比類ない手柄と称されたことは、一度もあるまい。
- 一、信長一代のうち戦に敗れたことはないが、先年、遠江へ軍勢を派遣した時(=三方ヶ原の戦い)は、敵味方互いに勝ったり負けたりするのが当然だから、負けたといえば確かにそのとおりだった。しかし、徳川家康の応援要請があったのだから、不手際な合戦をしたとしても、兄弟が討たれ、またはしかるべき家臣が討たれるほどの活躍をしたのならば、信盛は運がよくて生還できたのかと他人も納得してくれただろうに、自分の軍勢からは一人も討ち死にを出さなかった。にもかかわらず、同僚の平手汎秀を見殺しにして、平気な顔をしている。これをもって見ても、以上各条のとおり、心構えができていないことは紛れもない事実である。
- 一、この上は、どこかの敵を制圧して今までの恥をそそぎ、その後に復職するか、または討ち死にするかである。
- 一、父子とも髪を剃って高野山に引退し、年を重ねれば、あるいは赦免されることもあろうか。
右のとおり、天王寺在城数年の間にさしたる功績もなかった者の未練な子細が、このたび保田の一件で了解できた。そもそも天下を支配する信長に口答えする者はあの時が初めてだったのであるから、かくなる上は、右末尾の二カ条を実行せよ。承諾しなければ、二度と赦免されることはないものと思え。
上述のように、信長は実に多くのことに言及しています。中でもやはり本願寺攻略の任務を果たせなかった事が一番の問題だったのでしょう。さらに、
「討ち死に覚悟で働くか、高野山への追放か?──」
信長にこうした挽回の機会を与えられているのにもかかわらず、信盛が後者を選択している部分もとても興味深いですね。
信盛の最期
『信長公記』では、結局信盛父子は高野山での居住すら許されず、あてもなく紀伊の熊野の奥に逃亡。そしてこの間にこれまで付き従っていた者たちにも見捨てられ、身のまわりの物にも不自由で哀れな有様だったと。最期は天正9年(1581年)正月に熊野の奥で病死したといいます。ただし、歴史学者の神田千里氏はその著書『織田信長(筑摩書房、2014年)』の中で、この内容に関して誤りの可能性を指摘しています。理由は『多聞院日記』の中で、信盛が死んだときに高野山の宿坊に荷物を残していた、との証言があるからとのことです。
一般には信盛の最期は哀れだったと思われていますが、実際には高野山で余生を静かに暮らしたようですね。ちなみに残された信栄ですが、信長が信盛のことを不憫に思ったのか、まもなく赦免されたとか…。
【参考文献】
- 和田裕弘『織田信長の家臣団 -派閥と人間関係』(中公新書、2017年)
- 神田千里『織田信長』(筑摩書房、2014年)
- 太田牛一『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 谷口克広『信長と消えた家臣たち -失脚・粛清・謀反』(中公新書、2007年)
- 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』(中公新書、2005年)
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
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