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「甘利虎泰」謎につつまれた武田重臣最高職武将の実像とは?

そもそも、甘利虎泰に関する史料は非常に少なく、その実像はよくわかっていません。そのため、ここでは上代より通説として語られてきた虎泰の姿と、近年の史料批判によって浮かび上がってきた説を組み合わせながら、その実像について検討していきます。(文=とーじん)

謎につつまれた出自や素性

甘利氏は、甲斐国巨摩郡の甘利荘を本拠とした武田氏の庶流であり、武田信義(=武田氏の祖)の孫・甘利行忠を祖としています。 甘利行忠は鎌倉時代、甲斐源氏(=武田氏をはじめとした、源義光を祖とする一族)を恐れる源頼朝に誅殺されており、その後の甘利氏は家系を伝えていくも、甘利虎泰まで繋がる系譜は不明とされています。

虎泰は生誕年すらも不明で、彼の存在は江戸時代に入ってにわかに注目されるようになりました。そこで伝えられていたところによると、虎泰は武田氏の筆頭家老である「両職」という立場につき、板垣信方とともに武田氏を支えたとされていました。その事実については、『甲斐国史』という文書内で確認することができます。

信虎に仕え、四宿老の一人として政権に貢献

生年や幼少期の姿はよくわかっていませんが、虎泰は武田信虎に仕えると、やがて信方・虎泰・小山田古備中とともに宿老となりました。

合戦においては損害を少なくするように配慮して臨んでいたため、信虎から戦上手にみられていたようです。 さらに、信虎に疎まれていた信玄は、家臣にも見下される傾向にありましたが、虎泰や信方ら一部の者は信玄の才能を見抜いていて、これに同調しなかったとされています。

天文10年(1541年)には、主君・信虎が同盟相手の今川義元に会うために駿府に赴いている間、信玄と重臣らによるクーデターが勃発して信虎を追放していますが、これに虎泰も大きく関わっていたとされています。 信虎が駿府へ向かう前に、虎泰と信方は、次郎(のちの武田信繁)を躑躅ヶ崎館の留守居役にすること、および、嫡男信玄の監視を命じられていたといいます。

そして、信虎が駿府へ向かった後、虎泰は信玄や信方からクーデター計画に協力するよう要請されているのです。 このとき、虎泰はクーデターに加担することは天道に背くのではないかと恐れていたようです。 迷っていた虎泰は、武田家の守護神・八幡大菩薩と重宝御旗・楯無の鎧の前でクジを取り、クーデターが吉となったため、これに加担することにしたとされています。

クーデターといえば明智光秀の本能寺の変が思い起こされますが、彼ももしかするとくじ引きで決行を決断したのかもしれませんね。

筆頭家老として信玄を補佐

信玄が武田家の当主になるころにも、虎泰は信方や飯富虎昌らとともに、引き続き宿老として補佐役を務めたとされます。

『高白斎記』によると、天文11年(1542) に甲府に虎泰の屋敷が新築されたといいます。 さらに同年には信玄が父の信濃経略を引き継いで信濃諏訪郡への侵攻を行ないましたが、虎泰もこれに従軍して功をあげています。

諏訪氏を滅ぼして諏訪郡を制圧した信玄は、翌天文12年(1543年)に信方に対して上原城代と諏訪郡代となることを命じています。このときは虎泰が、今井伊勢守や駒井高白斎らとともに信玄の上意を信方に伝えたといされています。

こうして信頼を得ていた虎泰は、信玄から「弓矢ばしら」(武田家の柱石)と評されていたともいわれています。 また『甲斐国志』によれば、板垣信方とともに武田家臣団で最高位の「両職」に就いていたともいわれています。 つまり、宿老の中でも虎泰と信方は別格だったと認識されていました。

さらに虎泰は、信玄から10人の「素破(すっぱ)」(=スパイ、忍者を意味する) を預けられていたといい、しかもこれを預けられたのは虎泰・信方・飯富虎昌の3人の宿老だけだったとのことです。また、彼ら3人は配下の素破を使って諜報活動を行ない、戦略に活かすための情報を収集して信玄に報告する役目を果たしていたとされています。

実は虎泰は「両職」ではなかった?

これまで通説の虎泰をみてきましたが、ココでは近年の研究でわかった点もみていきましょう。

先に虎泰が武田氏の筆頭家老「両職」という立場だったことを書きました(『甲斐国史』)。しかし近年の研究で、この点に事実のねじ曲げが在ったことが確認されているようです。

そもそも「職」という役職は具体的にどのようなものなのでしょうか。

武田家における「職」は、治安維持や裁判などの警察・司法権の一部を大名より委譲されたものです。守護大名であった武田氏にとって、これらの役職が重要なものだったことは事実です。

実際、「両職」の一人とされている板垣信方は、信玄治世の初期段階において、大きな発言力をもっていたことが指摘されています。また、信方が筆頭家老であったことを示す武田氏ならではの風習が存在します。
武田氏は、偏諱(へんき)という独自の風習をもっており、武将の名前二文字のうち、一字を大名より与えられるというものです。その字には格式があり、「信」は最も格式高いものとされていたようです。

ここで、虎泰の名に注目してみましょう。彼が与えられた字は「虎」です。「虎」は「信」よりも格が低いとされており、同じ役職を任されていたとするのは実に不自然です。

なぜ「両職」と誤解されたのか

先ほどから「両職」という役職について論じてきましたが、そもそも虎泰だけでなく信方も「両職」と呼ばれる役職についていた可能性が低いことが指摘されています。

この根拠として、『甲斐国史』を除けば、彼らが両職であるという記述が史料内にみられないことが挙げられており、職という役職こそ存在したものの、それが最高役職であるという考えは幻想とも考えられるためです。

では、なぜ彼らは「両職」と誤解されたのでしょうか。その理由は、彼らの後継である板垣信憲と甘利昌忠が「両職」に近い地位として重用されたのは事実とされているからです。それゆえに、彼らをさかのぼったとしても、家として「両職」という地位を継いでいたものと誤解したことが理由とされています。

また、板垣氏と甘利氏を意図的に同職につけたのは、板垣氏を政権中枢から排除しようとしたことが原因であるとされています。このエピソードからは、信玄がその豪快なイメージとは裏腹に、きめ細やかな内政を敷いていたことが伺えますね。

武田家に尽くした虎泰の最期

虎泰の合戦での大功といえば、板垣信方とともに出陣した天文16年(1547)の佐久郡志賀城攻めが知られています。 武田軍が志賀城を包囲していたところ、敵の援軍・関東管領の上杉憲政が派遣した軍勢が碓氷峠を越えて押し寄せてきました。

『勝山記』によれば、これに対し、虎泰は板垣信方・多田三八郎らとともに別働隊を率いて小田井原でこれを迎え討ち、大勝したといいます。しかし、翌天文17年(1548)に小県郡へ進出した信玄が、村上義清の軍勢と上田原で一戦を交え大敗した際、虎泰は惜しくも戦死したとされています。

虎泰の死を知った信玄は、『甲陽軍鑑』によれば表面は平常心を装っていたものの、大きな衝撃を受けて気落ちし、一時は「存命不定の煩」にかかったと他国で噂されるほどだったようです。なお、この戦いでは信方も同様に討死したとされています。

虎泰は志半ばで斃れてしまいますが、甘利氏はその後も脈々と発展していきました。現在政治家を務める甘利明も彼の一族の末裔とされており、その血は生き続けているといえるでしょう。

【主な参考文献】
  • 丸島和洋『戦国代表武田氏の家臣団:信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年。
  • 新編武田二十四将正伝
  • 平山優『新編武田二十四将正伝』武田神社、2009年。
  • 柴辻俊六編『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。etc…





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