「武田信虎」信玄の父は悪行によって国外追放されたワケではなかった!?

pinon
 2021/12/16
武田信虎の肖像画(武田信廉 画、大泉寺蔵)
武田信虎の肖像画(武田信廉 画、大泉寺蔵)

武田信虎(たけだ のぶとら)と言えば、武田信玄の父であり、その悪行から信玄によって甲斐を追放されたと認識されている方が多いと推察される。簡単に言えば、信虎はダメ親父であり、信玄は名君というイメージだろう。

しかし近年になってこのイメージは崩れつつある。なにしろ信虎は甲斐守護であり、一代で甲斐を平定した名将なのだ。信玄が礼賛されるあまり、信虎が不当に評価されているのが現状であるようだ。

今回は真の信虎像を史料から読み解いてみたい。

棚ぼた的だった家督相続

信虎の誕生年

武田信虎は、武田氏17代当主である武田信縄(のぶつな)の嫡男として生まれた。 信虎の生年については、2つの説がある。

1つは明応3(1494)年で、もう1つが明応7(1498)年であり、最近までは前者の説が有力であった。というのも『甲陽軍鑑』に信虎が天正2年に81歳で死去したとの記述があるからだ。

かなり昔、『甲陽軍鑑』は偽書であるという説が強く信じられていたが、その後の研究で、その著者が武田家の重臣・高坂弾正であるという可能性が高くなった。このことで、1次史料ではないが史料として一目置かれるようになったという経緯があった。

信虎の天正2年死去の記述から逆算すると、生年は明応3(1494)年ということになる。ところが2006年に、歴史学者の秋山敬氏が『高白斎記』及び『大井俣神社本紀』の記述から、明応7(1498)年正月6日が生年である可能性を指摘したことで、議論の余地が生じたのである。

生母についても、古くは『甲斐国志』の記述から、信縄正室の崇昌院であるというのが定説であった。 その後、『菊隠録』に信縄の側室岩下氏を信虎の母とする付箋があることがわかり、岩下氏が生母であるという説が有力となったという。

信虎の家督相続

実は信虎誕生当時、武田家中は内訌によって混乱状態にあった。 きっかけは、信虎の祖父にあたる武田信昌(たけだ のぶまさ)が隠居した際に、家督を嫡男の信縄ではなく、信縄の異母弟である油川信恵(あぶらかわ のぶよし)に譲ろうとしたことにあった。

「信縄 vs 信昌・信恵」の対立は、武田家中だけでなく、対外勢力や甲斐国内の国衆をも巻き込んだ内乱だったようだ。 信縄は、伊豆を追放された堀越公方足利茶々丸を保護したり、大森氏の生き残りを匿うなどしたため、彼らと敵対していた伊勢宗瑞(のちの北条早雲)や今川氏親らが信昌・信恵方に味方するなど、対外勢力の侵攻を招いていたのである。

明応7(1498)年には明応の大地震が発生。これを「天罰」と考えた両者は一時的に和睦し、家督は信縄が継承することになった。

しかし信虎は永正3(1506)年から翌年にかけて、生母岩下氏、および父・信縄が相次いで亡くなるという不幸に見舞われる。ただ、信縄の死は、信虎を武田家当主の座に押し上げていくことになった。

武田宗家統一

信虎が当主になると、武田家は再び信縄派と信恵派による抗争を繰り広げることになった。 信縄が死去する前に成立していた信恵との和睦は、信縄の死によって反故になってしまったのである。

信恵は好機とばかりに挙兵するが、永正5(1508)年10月4日の勝山城の戦いに大敗し、自身も討死してしまったというから大変だ。信恵だけではなく、弥九郎・清九郎ら子息及び重臣たちの多くが戦死し、信恵派は事実上崩壊してしまったのである。

信虎はこのときまだ幼く、采配を振るったのは板垣ら譜代の家臣たちであったようだ。穴山信懸ら有力な国人衆も信虎についたという。それぞれの思惑があったことは当然としても、幼君信虎に才気を感じさせる何かがあったのかもしれない。

勝山城の戦いに続き、同年12月の坊ケ峰の戦いにおいても、甲府に侵攻してきた小山田弥太郎と一戦を交えた。 こちらは、最初こそ苦戦したものの、弥太郎勢に奇襲をかけて撃破。この戦いの結果、信虎はあっさり武田宗家の統一に成功してしまうのである。

甲斐統一

信虎が武田宗家を継承したのを見て、甲斐への侵攻を目論む勢力があった。今川氏親である。

これは、まだ幼い信虎がいきなり当主となった不安定な状況を利用して、甲斐の国人衆の切り崩しに動いたものと思われる。氏親が目を付けたのは穴山氏だったのではないか。当主の穴山信懸は信虎方の武将であったが、氏親とも関係が深かった。

そんな中の永正10(1513)年5月27日、信懸が息子の清五郎によって殺害されてしまったと『勝山記』にはある。その後、今川寄りの信綱が当主に収まったことを考えると、今川からの調略があった可能性は高いだろう。

これを裏付けるかのように、今度は永正12(1515)年甲斐西部の国衆・大井信達も今川方に帰順する。大井氏は、武田氏の庶流で南北朝期に武田信武の二男、または三男が甲斐国巨摩郡大井荘を領有したのにはじまる。 武田氏と敵対関係となった理由ははっきりしないが、駿河の今川氏と友好関係にあったらしい。

信虎はこれを討つべくして富田城を包囲するが、今川の救援により敗退してしまう。逆にこれを機に今川は甲斐への侵攻を開始。『高白斎記』によれば永正13(1516)年9月28日のことだという。緒戦から信虎は苦戦を強いられ、勝山城を占拠されてしまったのだ。

しかし、信虎方はこのままでは終わらなかった。 『勝山紀』によれば同年12月26日、都留郡の武田勢が反撃を開始し、今川勢を三河国の吉田城まで敗走させている。 翌永正14(1517)年1月には、都留郡の武田勢は小林道光に吉田城を攻撃させ、これを陥落させたという。

今川は和睦を申し出て甲斐から撤退することとなる。 これを機に、甲斐の国衆は相次いで信虎方へと鞍替えをし始めた。

これを見た氏親は信虎との和睦へと舵をきる。 同年3月、氏親と信虎の和睦が成ると大井信達も降伏し、娘を正室として信虎に娶らせた。 これがいわゆる大井夫人だ。大井夫人はその後信玄や信繁など、次世代の武田を背負っていく子を産むこととなる。

新都甲府

甲斐をほぼ手中に収めた信虎が、まず着手したのは新都の建設であった。

そもそもは父・信縄の代までの居館である川田館を継承していた信虎であったが、治水・経済・家臣の統制を総合的に考えて甲府への移転を決意したものと思われる。『王代記』によれば、それは永正15(1518)年のことだという。

この新都移転に関して画期的だったのは、居館である躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の周囲に城下町を建設し、家臣たちをそこへ集住させた点である。 織田信長が安土城下に家臣を集住させたことはよく知られているが、信虎の策はその先駆けと言えよう。

躑躅ヶ崎館と、甲斐国の主要な城の位置。色塗部分は甲斐国。地図を拡大していくと城名が表示されます。

斬新なだけに、家臣たちの反発も大きかったようだ。特に、今井信是や大井信達らは激しく抵抗し、甲府を退去するという事態に陥ってしまう。信虎はこれを許さず、兵を動員し、これらを全て降伏させている。この頃、今川勢が再び不穏な動きを見せつつあった。

大永元(1521)年2月には、今川方の武将である福島正成を中心とする軍勢が甲斐へ進出し、河内地方を占領すると、9月16日には大井氏の属城である富田城も落としている。

信虎は、この非常事態に懐妊中の大井夫人を積翠寺要害山城に避難させたといい、その後、今川方が甲府に迫り、10月16日に飯田河原(甲府市飯田町の荒川河原)で両軍が激突となった。

この合戦で、今川勢に総攻撃をかけた信虎は、福島正成や富士氏の軍勢を次々と撃破し、今川勢を駿河へ退却させ、勝利を収めた。

この時点で穴山家の当主・信風は依然今川方だったのだが、信虎の勢いに恐れをなしたのか、降伏して恭順の意を示している。 この戦いの最中に嫡男晴信が生まれた。この子がのちの武田信玄である。

対外勢力との戦い

北条氏と敵対

こうした中、大永3(1523)年には、伊勢氏綱が北条姓を名乗り、扇谷上杉氏と敵対関係となると、翌大永4(1524)年正月には武蔵国への侵略をはじめ、江戸城を奪取した。

扇谷上杉氏、山内上杉氏の両家と同盟関係にあった信虎は、かつて北条と敵対した父・信縄の外交戦略を継承する。 同年2月には上杉支援のために出陣し、相模国津久井郡へ侵入し、北条方と交戦。翌3月には道を転じて武蔵国秩父へ進出し、当時関東管領の職にあった山内上杉氏の上杉憲房と対面。さらに7月には武蔵国岩槻城・太田資高を攻めている。

しかし、北条は手強く、両上杉が弱体化しつつある中、この戦略は合理性を欠くものとなっていったような気がしてならない。おそらく、上杉憲房を重視してのことだったのではないかと思われるが、戦国時代も後期にさしかかりつつあったこの時期には、そぐわない戦略だったのではないか。

問題点はもう1つあったろう。上杉からの援軍要請に応えて北条との戦に出兵することもあったため、その戦費も馬鹿にならなかったと推測される。それは信虎もわかっていたはずである。事実、大永5(1525)年にかけて、信虎は北条氏綱と一時和睦している。

しかし、この和睦は程なくして破綻した。氏綱は上杉の領地である上野を攻撃する際に、信虎に領内を通過することを許可するよう求めたが、信虎がこれを拒否。どうも山内上杉に配慮してのことのようであるが、和睦は破棄されてしまうのである。

『勝山記』によれば、このとき信虎は山内上杉の上杉憲寛とともに北条の相模津久井城を攻撃している。 どうも信虎は上杉重視の戦略から脱却できなかったようである。家臣たちもこの戦略に諸手を上げて賛成していた訳ではなさそうだ。

信虎は享禄元(1528)年には諏訪郡への侵略を開始し、諏訪頼満・頼隆父子と戦っている。これ以後、諏訪氏とはたびたび交戦する間柄となる。

享禄3(1530)年、扇谷上杉の上杉朝興の斡旋により、前の関東管領・上杉憲房の後室を側室に迎えるが、これは甲斐の武家には不評であったらしい。

さらに上杉憲房の娘を武田家に迎えようと画策するが、これに愛想を尽かしたのか、享禄4(1531)年1月、家臣の栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌らが甲府を退去し、反旗を翻す。

これは当時敵対していた諏訪氏をも巻き込む騒動となり、国中大乱といって差支えない状況であった。 これも程なくして鎮圧されるが、家臣たちの関係にしこりが残ったことは想像に難くない。

この当時、信虎の同盟者は両上杉氏のみであり、今川、北条、諏訪の三氏と対峙するという過酷な状況であった。 北条氏綱と互角に戦う戦上手の信虎をもってしても、この状況は厳しいといってよいだろう。 信虎は新たな和睦策を探らざるを得なくなったのではないか。

今川との甲駿同盟

天文4(1535)年9月、信虎は諏訪頼満と和睦する。 そして天文5(1536)年、氏親亡き後、今川家の家督を巡る花倉の乱で勝利した義元が今川の当主となる。

これを機に、義元の斡旋によって信玄に公家・三条公頼の娘を娶らせ、さらに翌天文6(1537)年2月には信虎の長女・定恵院(=信玄の姉)を義元の正室に嫁がせることで、武田・今川間で甲駿同盟が結ばれた。

この同盟には武田・北条どちらの家中でも反発があり、これまたひと騒動あったのである。

信濃経略に専念

信虎は甲駿同盟によって南を気にすることなく、北の信濃経略に専念できる体制が整った。

一方で北条氏綱はこの同盟に激怒し、今川氏と断交してすぐに駿河今川領へ攻め込むと、富士川以東の駿東・富士2郡を押さえ、さらに興津(=静岡市)あたりまで焼き払っている。

このとき信虎は救援のために須走口に出陣して一戦を交えており、以後も北条勢と天文8(1539)年まで衝突を繰り返すことになるが、やがて小康状態となる。

天文9(1540)年、信虎は今井信元を浦城で降伏させると、今度は娘・繭々御料人を嫁がせて同盟を結んだ諏訪頼重とともに、再び信濃佐久郡に出陣するという強行軍であった。

ちなみに、その勢いは1日で城を36も攻め落とすという凄まじさだったとも伝わる。この遠征では初めて甲斐国外の所領を獲得しているから、快挙と言えば快挙であるが、相次ぐ戦に対する国内での不満が気になるところである。

というのもこの頃は台風が東海・甲信地方に上陸しており、これによって農作物が被害を被り、凶作となったことが知られているからである。

同年、この地域は大飢饉に見舞われている。いわゆる天文の飢饉である。このような時期の天文10(1541)年に、信虎は村上氏、諏訪氏とともに信濃佐久への遠征を行っていたのだ。

しかも、小県郡における海野平の戦いで敗走した敵方の武将海野棟綱が関東管領の上杉憲政を頼り、憲政が佐久へ出兵すると、上杉との衝突を避けるため、信虎は撤兵してしまう。

信虎追放の謎

同年6月4日、信虎は甲斐へいったん戻り、14日には今川義元を訪問するため駿河に向かった。 この際、晴信は甲駿国境に足軽を派遣し往来を遮断してしまう。 何と、信虎は国外追放され今川の下で強制的に隠居させられてしまったのだ。

この追放の理由としては晴信との不仲説をはじめ、義元との共謀説など諸説ある。 義元との共謀説は『甲陽軍鑑』に記述があるので信じたくなるのであるが、私としては違う見立てを持っている。

歴史学者の平山優氏は、信虎の領民への配慮を欠いた度重なる出兵と物価高騰・飢饉等が根底にあり、国人衆の反発が離反につながることに危機感を募らせた晴信と板垣信方ら重臣が信虎追放に動いたという説を提唱している。

私もこの説を支持する1人なのだが、もう一点気になっていることがあるのだ。 それは信虎が追放される直前におこなった信濃佐久への遠征において、敗走した敵方の武将海野棟綱が関東管領上杉憲政を頼り、憲政が佐久へ出兵するや兵を引いてしまった一件である。

ひょっとすると、嫡男晴信や重臣たちは、この期に及んでも衰退の一途をたどっている上杉を立てている父に愛想を尽かしたのではないか。晴信が家督継承後、甲相駿三国同盟を結び上杉重視策を転換させたことを考えると非常に興味深い。

追放後

駿河での生活は信虎にとって悪くないものであったと思われる。 今川家では義元の舅殿として優遇されていて、その扱いは今川一門よりも上位であったらしいのだ。 しかも側室を甲斐から連れてきており、信友という子も授かっているというから驚く。

さらには京をはじめとする上方への遊歴も確認され、中々に充実した隠居生活を送っていたようだ。 天文12(1543)年6月には、上洛して「京都南方」を遊覧し、高野山引導院を参詣、8月には奈良へ赴いて、同月15日に駿河へ戻っている。

以後もたびたび上洛が確認されているようである。『言継卿記』によれば、弘治3(1558)年以降から例年に渡り、公家の山科言継が信虎への年始挨拶などを行っている。また、信虎はこの頃から京に住んで、室町幕府へ奉公するようになり、足利義輝、義昭両将軍に仕えたとみられている。

永禄11(1568)年には信玄が駿河へ攻め込んで今川氏の本拠・駿府を占領している。『松平記』によると、このときの占領にあたっての今川方への調略は、信虎が画策したといわれている。

『細川家文書』によれば、元亀4(1573)年3月、信虎は、織田信長と対立した足利義昭が挙兵した折に、義昭の命で近江甲賀郡に向かい、六角氏とともに近江攻撃を計画していたという。

しかし同時期、武田信玄が将軍義昭と呼応して西上作戦を展開するも、その途上信玄は急死してしまうのである。信長包囲網はあっけなく瓦解し、行き場を失った信虎は天正2(1574)年、三男信廉の居城である高遠城に居住するようになったといい、既に武田家の家督を継いでいた勝頼とも対面を果たしたようだ。

同年3月5日、高遠にて死去。享年81と伝わる。

あとがき

信虎は悪行により信玄に追放されたという説は、実は1次史料にはほとんど記述がなく、極めて怪しいことがわかっている。どうも信玄の信虎追放を正当化するため、印象操作が行われたようだ。

『甲陽軍艦』にも信虎の悪行と思しき行為が記されているが、これも情報操作の可能性が高いと思われる。 武将としての信虎は戦上手であり名将ではあったと私は考えているが、政治、特に民への理解に乏しく名君とはいい難かったというのが私の見解である。


【主な参考文献】
  • 平山優『武田三代 信虎・信玄・勝頼の史実に迫る』 PHP新書 2021年
  • 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版 2019年
  • 渡辺誠『<武田信玄と戦国時代>武田信虎・勝頼と武田家の系譜 』学研プラス 2015年
  • 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社 2007年
  • 奥野高広『武田信玄(人物叢書 新装版)』吉川弘文館、1985年
  • 磯貝正義『定本武田信玄』新人物往来社、1977年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。
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