「板垣信方」若き信玄を指南するその姿は、まさに武田家の”重鎮”
- 2019/07/05
甘利虎泰とともに武田家臣団の最高職「両職」として知られ、筆頭家老として信玄の一番の良き理解者でもあった板垣信方(いたがき のぶかた)。信玄の父・武田信虎を追放した張本人との見方もあるようです。
信玄の傅役、武田の宿老を務める
武田信虎・信玄の2代に渡って武田家に仕えた信方ですが、残念ながら幼少・青年期に関してはあまりわかっていません。誕生年も不明です。
ただし、父に関しては板垣信泰と推定されています。板垣氏は武田信義(=武田氏の祖)の三男・兼信が甲斐国山梨郡板垣郷に領地を得たことで興ったとされていますので、武田氏の庶流にあたります。
信虎に仕えた時期もはっきりしていませんが、大永元年(1521年)に信虎嫡男の勝千代(のちの信玄)が誕生した後、信虎から信玄の傅役(いわゆる養育/教育担当)を命じられています。
のちに信虎が甲斐統一を果たし、北条や今川氏などの国外勢力との戦いを始めた頃には、武田家の四宿老の1人に就いたといわれています。また、時期は不明ですが、駿河守の官途も与えられています。
なお、信方が信玄の傅役をしていたころのエピソードを一つ紹介します。
信虎は信玄の弟である次郎(のちの武田信繁)を寵愛し、嫡男の信玄を疎んじていました。家臣らの多くも同調して「うつけ者」とみなされていた信玄。しかし、信方をはじめ、甘利 虎泰や小山田虎満ら一部の家臣はこうした声に同調しませんでした。
彼らは信玄が気兼ねして「うつけ者」を演じていることを見抜いており、信玄こそが武田家当主にふさわしいと感じていたからだといいます。
要するに信方ら一部の人間は、最初から信玄の才覚を見抜いていたんですね。
信虎追放の首謀者か?
天文6年(1537年)に入り、信虎は駿河今川氏の当主に今川義元が就いたのをきっかけとして、今川氏と甲駿同盟を結びますが、これによって今川氏と北条氏の同盟関係が破綻します。北条氏綱は今川領へ攻め込んで、駿河東部を舞台とした「河東一乱」が勃発します。
一方で、武田氏は信濃国への侵略に専念できるようになり、天文9年(1540年)には武田・諏訪・村上の三氏が連合して佐久郡・小県郡に攻め込んでいますが、このときに信方も従軍して功をあげています。
しかし、翌天文10年(1541年)、信虎が同盟相手の今川義元のもとに駿河へ訪れた際、嫡男の信玄によって帰路を封鎖されて甲府に戻れなくなることに。これは信玄と武田重臣らによるクーデターでした。
この主君追放劇の背景として、「信虎・信玄父子の不仲説」や「信虎 "悪行" 説」など色々とあるようですが、これは信玄が1人で実行したわけではなく、信方をはじめとして、甘利虎泰や飯富虎昌らも関与していました。しかも、首謀者は信方であったという見解が有力視されているのです。
というのも信方は、信虎から嫡男信玄の監視、および、次男信繁を躑躅ヶ崎館の留守居役にすること、を命じられていました。そして信虎が駿河へ向かった隙に、甘利・飯富らを説得してクーデターを実現させたといいます。
信玄の側近・駒井高白斎ですら、クーデターを知らされていなかったので、極秘で計画が進められたのでしょう。
同じ両職とされる甘利との比較
ところで信方と同じ「両職」の甘利虎泰と比較した場合、武田家中での立場はどちらが上だったのでしょうか。先に答えを言ってしまうと「信方 > 虎泰」となります。どうやら実名から信方の家格のほうが上と判断できるようです。くわしくは甘利虎泰の生涯記事で触れています。
諏訪郡代となり、信濃経略を牽引
さて、話を元に戻しますが、信濃国の経略を父から引き継いだ信玄は、天文11年(1542年)から諏訪郡を攻略して諏訪氏を滅ぼしています。
もちろん信方も諏訪攻略に従軍していたと考えられます。ちなみに諏訪頼重を自害させるまで幽閉していた場所は、甲府東光寺にある信方の屋敷だったようです。
さらに翌天文12年(1543年)には、諏訪氏の居城であった上原城に入り、諏訪郡代に任命されています。この上原城は佐久郡・伊那郡・筑摩郡などをつないでおり、信濃経略の要衝の地でした。信方が信濃経略において如何に大きな役割を担っていたのかがわかりますね。
外交官としても活躍
また、外交面においての活躍も見逃せないのが、駿河東部を巡る河東一乱における和睦仲介です。
河東一乱は最終的に天文14年(1545年)に武田氏の仲介によって和睦となって終結しましたが、このとき、信方は駒井高白斎らとともに北条方の陣所がある伊豆国へ赴き、和睦交渉の使者として動いています。この他、本願寺との外交窓口も務めていたようです。
志賀城攻めでの武功
天文16年(1547年)の佐久郡志賀城攻めで、信玄は佐久郡をほぼ制圧することに成功しましたが、このときは別働隊として大功を立てています。
信玄率いる本隊が志賀城を包囲している間、敵の援軍、すなわち関東管領・上杉憲政が派遣した上野国からの軍勢が志賀城へ向けて押し寄せてきました。このとき、信方は甘利虎泰らとともに小田井原で迎撃し、敵将14~15人と雑兵3千を討ち取って大勝利となりました。この後、討ち取った首級を志賀城の周囲に並べて敵城兵の戦意を削いだことで、まもなくして志賀城は落城しています。
信方の最期
佐久郡を制圧した信玄は、翌天文17年(1548年)には小県郡へも侵略の手を伸ばします。同2月14日、武田軍と村上義清の軍が千曲川を挟んで上田原に対峙、開戦となります。
『甲陽軍鑑』によると、先陣の信方は、敵を150余討ち取るすさまじい活躍でしたが、退却する敵兵を追って他の部隊がついていけないほどであったとか。そこで信方は何を思ったのか、敵の首実験を行なったらしく、物見に出ていた敵将に察知されて村上勢に急襲されるハメに。
このとき床几に腰掛けていた信方。突然に敵兵が出現したため、慌てて馬に乗ろうとしますが、最期はたちまち敵兵に囲まれて槍で突かれ、討ち取られたといいます。
これが事実だとしたら、なんともあっけない最期ですね。ちなみに晩年の信方は、傲慢な行ないや軽率な判断などが目立つようになっていたとも伝わります。
【主な参考文献】
- 丸島和洋『戦国代表武田氏の家臣団:信玄・勝頼を支えた家臣たち』教育評論社、2016年
- 平山優『新編武田二十四将正伝』武田神社、2009年
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