※『名将言行録』より
小田原征伐(1590年)の後、秀吉は天下統一仕上げのため、残る関東と奥州の地の仕置を行なうことになった。このとき秀吉は鎌倉を経て会津へ向けて出陣するとのことで、政宗が先発として小田原を出発した。
秀吉の会津出陣は、鎌倉幕府の源頼朝が奥羽合戦で鎌倉から宇都宮へ入り、宇都宮大明神に奉幣して奥州平定したことに倣ったものである。
豊臣諸大名らが宇都宮に着陣すると同時に、政宗の領地に調査の者や目付らが派遣されたが、とても物静かで軍勢がくりだされたり、籠城したりしそうな気配は全くなく、豊臣諸将らは皆不思議がったという。
そして秀吉が宇都宮城に着陣すると、政宗は家老・片倉小十郎景綱の1人だけを召し連れ、手勢は少数で宇都宮へ向かい、城下の禅寺に宿をとり、豊臣奉行の大谷吉継のもとへ景綱を遣わせた。
━━ 大谷吉継の居にて ━━
小十郎が大谷吉継に会うと、政宗から吉継宛ての文を読み上げた。
「先日はじめて伺い、色々とおもてなしを頂き、過分のことに存じます。そのおりに申し上げましたとおり、私めはお上を軽んずる意は全くございません。しかし、何を申すにも全くの田舎者ゆえ、物事をわきまえず、いささか兵を動かしたことは、今さらのごとくに恐れ入り、悔やんでおります。」
「それゆえ、蘆名領は申すまでもなく、本領米沢の城地ともに、お上へ献上いたしますので、ご裁定を下され、伊達の名跡相続の件につきましては、ひたすらご貴殿のお取りもちに預かりたく存じます。この件につきましては事前にうかがうべきことですが、道中病気になったゆえ、まず小十郎をつかわして申し入れる次第でございます。」
・・・以上にございます。
こうして小十郎は述べ終わると、2つの箱を取り出して大谷吉継に差し出した。
・・これは?
小十郎はまず一つ目の箱を開けて言った。
これは蘆名旧領の絵図目録帳面にございます。
そう言って吉継に渡した。
もうひとつの箱は、政宗の先祖より伝えている米沢領絵図目録でございます。
続けてそう言い、小十郎はこの箱も開けようとしたが、吉継がこれを制止した。
・・!?
その箱は封のまま我らが預かり申そう。
お申し越しの趣意は逐一承りました。病気は油断なきようになさるよう、政宗殿にお伝えくだされ。
こうして伊達政宗が秀吉に降り、宇都宮へ参陣したことが奥州諸将に伝わると、出羽・奥州のあらゆる諸将らは非常に驚き、我先にと宇都宮へ馳せ参じたという。
ある者は名代をもって贈物を送り、機嫌を伺うようになってきたので、秀吉はしばらく宇都宮城に留まり、奥羽をことごとく手中にしたということである。
その後、大谷吉継から、「秀吉公がご対面なさるということなので、片倉殿を召し連れて、明早朝に登城なさるように。」との連絡があり、翌日、政宗らは秀吉のもとへ出仕した。
━━ 宇都宮城 ━━
政宗らは秀吉と対面。料理を賜り、一通りの茶席等があった。その後、政宗は秀吉に呼び出されると、吉継が例の箱を持ち出してきて、政宗の前に置いた。
・・政宗。会津旧領の地は召し上げるぞよ。
!!!
そなたのいう本領米沢も召し上げるべき所じゃが・・・
まあ、そなたの心入れに免じ、そのままそなたの領地とするがよい。
・・ははぁ!ありがたきお言葉。
わしも近く帰京するゆえ、そなたも早々に国元へ帰るがよい。
こうして政宗はその箱を頂戴し、一礼を述べて帰ったという。その際、大谷吉継が小十郎に言った。
━━ 帰り際 ━━
・・ところで、会津はいつごろのお明け渡しになりますかのう?
はい。黒川(=のちの会津若松)をはじめ、その他の城も既に明けており、城番の侍足軽が少々居残っているばかりですから、明日にでも差し上げることができましょう。
この返答に、豊臣家中は「政宗は言うまでもなく、景綱も尋常の者ではない」と、色々と話題に上がったという。