大和百万石の中心であった「郡山城」の歴史について

ろひもと理穂
 2022/05/26
大和郡山城の天守台跡
大和郡山城の天守台跡

かつて大和・紀伊・和泉という百万石の領地を治めた豊臣秀長が居城としていたのが大和の郡山城(こおりやまじょう)です。秀長亡き後は転々と城主が変わり、廃城や復元が繰り返されて今日に至ります。今回はそんな郡山城の歴史についてお伝えしていきます。

改修工事を重ねて近世城郭へと変貌

松永久秀と大和の支配を巡って争った筒井順慶は、天正8(1580)年に織田信長の協力を得て大和国守護となります。このとき拠点と選び、大規模な工事を行ったのが郡山城です。明智光秀も見回りとしてその工事に携わっていたと伝わっています。

奈良中の大工を雇い、また、久秀が拠点としていた多聞城からも大石を運んで天正11(1583)年に天守が完成しています。

大和郡山城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

しかし、順慶が天正12(1584)年に亡くなり、その跡を継いだ筒井定次は豊臣秀吉の命令で伊賀上野城へと転封となってしまいます。筒井氏に替わって郡山城に入ったのは秀吉の弟である豊臣秀長です。

秀長は大和だけでなく紀伊と和泉併せて百万石の領主であり、その拠点にすべく郡山城をさらに拡大工事を行いました。この際の郡山城の工事は急がれ、石才が不足する中、春日大社の水谷川から大石を切り出したり、五輪塔や石地蔵などが石垣に転用されています。秀長の大和百万石の拠点というだけでなく、郡山城は大坂城の豊臣氏を守るという重責も担っていたのです。

天正19(1591)年に秀長が亡くなり、その跡を継いだ豊臣秀保が工事も引継いだことで、本丸や毘沙門曲輪、法印曲輪などの多くの建物が完成しています。なお、郡山城は犬が伏せているようにも見えるため「犬伏城」との異名もあります。抜け穴はふたつあり、木島と外川に通じていると伝わっています。

郡山城の拡張整備が着々と進む中、秀保が文禄4(1595)年に死去。御家断絶となってしまったため、替わって郡山城に入ったのは、22万3千石の領主となった五奉行のひとり、増田長盛でした。長盛は秋篠川の流れを変え、もともとの川跡を外堀として利用。さらに堀を巡らし、その内側にも土居も設けています。こうして城下町を囲む惣構えは長盛の時代に完成したのです。

慶長5(1600)年に関ヶ原の戦いが行われると、西軍に与した長盛は追放されてしまいます。このとき郡山城は廃城となり、破却されて建築物などは伏見城に移築されました。徳川家康は郡山城地を筒井氏に戻すことを決め、筒井定慶に与えています。

頻繁に城主が変わった江戸期の郡山城

大坂の陣では定慶は豊臣方に攻められ、郡山城を失っています。2000あまりの軍勢が侵攻してきたのに対し、1000ほどの兵を集めたものの、相手の軍勢の数を見誤り、3万という報告を受けて定慶は戦わずに郡山城を捨ててしまいます。その直後に大坂城は落城。戦うことなく郡山城を捨てたことを恥じて定慶は自刃したと伝わっています。

関ヶ原の戦いの後に廃城となっていなければ、防御の堅い郡山城で籠城戦もできたでしょうが、城郭がほとんど機能していないような状態だったとすれば、定慶が戦わずに一端退いた理由もわかります。

元和元(1615)年7月、水野勝成が6万石の領主として三河刈谷から移封され、荒廃した郡山城の城郭修復を始めました。勝成は本丸御殿や三の丸などを普請しますが、修復の途中の元和5(1620)年に備後福山へ転封となり、替わって松平忠明が12万石の領主として入り、修復工事を引継ぎます。

忠明は二の丸屋形を造営した他、伏見城から鉄門や桜門、一庵丸門、西門を移築。寛永16(1639)年になると今度は忠明が播磨姫路に転封となり、本多政勝が15万石の領主として入って整備を行ったため、郡山城の修復・造営はここに整いました。

城下町は政勝の時期に最盛期を迎えています。人口は2万人を超えていたと伝わっており、後の享保9(1724)年ごろの郡山城の様子を記した『郡山町鑑』には人口13000人ほどになっていますので、政勝の時代がいかに栄えていたのかがわかります。

政勝の亡くなると、後継争いのため本多氏は転封となり、松平信之が8万石の領主と入りますが、延宝8(1680)年に城下町に大火が起り、多くの家屋が焼失しています。

松平信之が幕府の重臣となって転封されると、替わって本多忠平が12万石の領主として入り、享保8(1723)年まで本多氏が城主を務めました。しかし本多氏が御家断絶となると、柳澤吉里が15万石の領主として入り、改めて城下町の整備に尽力しています。安政5(1858)年には二の丸から出火し、建築物のほとんどを焼失する大火が起こりました。

こうして再建の途中、時代は明治維新を迎えることになります。

昭和、平成の復元の経緯

明治維新後、明治6(1873)年になると郡山城は廃城令によって破却されてしまいます。城門は永慶寺の山門として移築されるなど多くの建築物が払い下げされ、石垣や堀だけが残されました。この遺構が今も残されているのです。

昭和36(1961)年に遺構である本丸、毘沙門曲輪が奈良県の指定文化財に指定されると、次第に復元の熱が広がっていき、市民活動の成果で昭和58(1983)年に追手門が復元され、翌年には追手東隅櫓、さらに昭和62(1987)年には追手向櫓が復元されました。

平成25(2013)年から天守台と展望台の整備が開始され、平成29(2017)年に完成。この年に続日本の百名城に選定されています。

また本丸と毘沙門曲輪を繋ぐ極楽橋の復元作業と白沢門櫓台整備も開始し、極楽橋は令和3(2021)年に完成して一般公開となりました。なお、郡山城と800本の桜は日本さくら名所百選にも選ばれています。

おわりに

復元された門や櫓は壮麗ですが、戦国時代の息吹を感じさせてくれるのはやはり石垣や堀といった遺構でしょう。秀吉から絶大な信頼を得ていた弟・秀長が目指した郡山城の面影が本丸や毘沙門曲輪には残されています。

その後の数々の城主たちはこの場に立ってどのような思いを抱いたのでしょうか。そんなことを考えながら郡山城を散策してみるのもいいかもしれません。

※参考:略年表
天正8(1580)年筒井順慶によって築城が開始
天正13(1585)年豊臣秀長が入城
文禄4(1595)年増田長盛が城主となる
慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの後、廃城となる
元和元(1615)年水野勝成が城主となり修復を開始
元和5(1620)年勝成が備後福山へ転封、松平忠明が城主となる
寛永16(1639)年忠明が播磨姫路に転封、本多政勝が城主となる
延宝8(1680)年城下町で大火が起こる
享保9(1724)年柳澤吉里が城主となる
安政5(1858)年二の丸から出火し大火が起こる
明治6(1873)年廃城令によって破却される
昭和36(1961)年奈良県指定文化財に指定される
昭和58(1983)年追手門が復元される
昭和59(1984)年追手東隅櫓と多聞櫓が復元される
昭和62(1987)年追手向櫓が復元される
平成2(1990)年日本さくら名所百選に選定される
平成25(2013)年天守台の石垣修復と展望施設整備を開始
平成29(2017)年天守台の石垣修復と展望施設整備が完了。続日本の百名城に選定。極楽橋再建と白沢門櫓台石垣整備を開始
令和3(2021)年極楽橋復元される

【主な参考文献】
  • 奈良県HP いかす・なら 郡山城
  • コトバンク

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執 ...

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