「林秀貞」は地味ながら信長重臣筆頭格だった!
- 2020/06/01
文書にはその名が良く現れるが、その言動があまり史料に残らない武将がいる。このタイプは事務方の武将に多く、中でも林秀貞(はやし ひでさだ)はその地味さ加減では抜きんでている。村井貞勝もどちらかというとそちらよりであるが、京都所司代だっただけあり、その言動の記述は割と残されている。
そんな訳で、事務方であった秀貞の失脚はセンセーショナルだった。それが理由なき追放だったからである。彼が追放に至るまでの足跡を史料から追いかけてみたい。
そんな訳で、事務方であった秀貞の失脚はセンセーショナルだった。それが理由なき追放だったからである。彼が追放に至るまでの足跡を史料から追いかけてみたい。
通勝(みちかつ)ではなく、秀貞
かつて、林秀貞は林通勝と呼ばれることが多かったが、実は林通勝という名は一次史料には見られない。では、林通勝という名はどこから来たのであろうか。最も有力な説は、松永久秀の家臣林通勝と混同されてしまったのではないかというものである。ちなみに、もちろん林秀貞が松永久秀に仕えたという事実はない。どこかで記憶がすり替えられてしまったのだろう。
林秀貞は信長の父信秀の代から織田家に仕え、筆頭家老という立場にいた人物である。
そもそも、林一族は尾張春日井郡沖村(愛知県北名古屋市沖村)を本拠地とする土豪であると言われる。しかし、地縁としては尾張との縁が深い秀貞であるが、血縁から探ってみると、意外なことに美濃衆である稲葉氏の一族であるらしい。
美濃三人衆の一角であった稲葉氏の一族であることは後の出来事に微妙に関係してくると私は睨んでいるのだが、それについては後述したい。
信長の家臣ナンバーワン
まだ幼少だった信長の家老と言えば平手政秀が有名であるが、実は一番家老は秀貞であったという。『信長公記』によれば、まだ幼少の信長に那古屋城が与えられた際に、秀貞が一番家老として補佐したとある。政秀同様、秀貞も信長の奇行には手を焼いたらしい。次第に万事そつなく品行方正な信長の弟信行(信勝)を支持するようになったのではないか。
信秀の死後、次第に頭角を表し始めた信長であったが、秀貞は信行の擁立に動く。どうも、秀貞は信長の言動というか、人となりに不審を抱いていたようだ。もっとも、それは信長を単なる尾張の領主として見れば、ということであったと思われる。
後に信長が足利義昭を奉じて上洛し天下を動かす武将になるなど、この時点で予測できるはずもなく、国衆や家臣を無難に取りまとめる領主を求めたということもあろう。そういう点では、万事そつなく振る舞える信行の方が適任に見えてしまっても仕方がない面はある。
これは柴田勝家も同様だったと思われる。実際、勝家はのちに秀貞の弟である通具(みちとも)とともに信長に反旗を翻し、挙兵までしているのである。
稲生の戦いには不参加だった!
美濃の斎藤道三は信長の正室である帰蝶の父であるが、彼は信長を高く評価していたと言われる。これが尾張と美濃の同盟関係をより強固なものにしていたことは言うまでもないであろう。信長の背後に道三が控えているとなれば、反信長派も迂闊には動けなかったのだ。
ところが弘治2(1556)年、隠居していた道三と跡を継いだ義龍が長良川で激突。世に言う「長良川の戦い」である。
なんと、この戦いで道三は落命してしまい、信長は後ろ楯を失ってしまう。これにより、美濃との同盟は無いも同然となる。
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先にも触れたが、同年の8月、織田家では斎藤道三という後ろ楯を失った信長に対し、柴田勝家が信行とともに謀反を起こす。稲生の戦いである。
勝家はそもそも、信行付きの家臣であったから、挙兵はやむを得ない所であろうが、秀貞はれっきとした信長付きの家臣だっただけに事はそう単純ではなかった。
どうも林兄弟の行動を見ていると、信長に強い不満を抱いていたのは弟の通具のほうではないかと思われてならない。というのも、通具は勝家とともに打倒信長を掲げて稲生の戦いに参加してしまうのだが、秀貞のほうは不参加だったからだ。
信長は奇嬌な振る舞いも多く、何を考えているかわからない面もあるが、武将としての能力は高いと秀貞が判断していたのかも知れない。
確かに、この頃は今川の圧力が強まり、一部の武将には今川の息がかかり始めていたから、状況は極めて微妙であった。おそらく、秀貞は信長が今川との和議を破棄した際には、これに反対したのだろう。
しかし、和睦したまま尾張が統一されていくのを黙って指をくわえて見ているほど今川は甘くない。秀貞は織田が今川に飲み込まれてしまうのだけは許しがたかったのではないか。これに関する史料が残されていないので、確たる証拠はないのであるが。
ともかく、秀貞にとって信長は必要であったが、さりとて弟をあっさり裏切る訳にもいかなかったというのが私の見立てである。
主に事務方で活躍
稲生の戦いの後、秀貞は信行や勝家とともに赦され、再び信長に仕える。秀貞は優れた政治家であったらしく、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いに勝利した後に結ばれた、家康との清洲同盟においては立会人を務めている。特に信長が足利義昭を奉じて上洛した後には、優れた行政官としてその辣腕を振るっている。
ちなみに、信長発給の政治的文書のほとんどに秀貞の署名が記されていることはあまり知られていない。
その他、公家と信長との取次役を務めることもあり、『言継卿記』によると、山科言継が信長に拝謁する際には、秀貞が取り次ぐのが常であったという。さらには、信長の開く茶会には常に招かれるなど、その待遇は破格である。
そして、天正7(1579)年安土城天主完成の折には、同じく事務方の村井貞勝とともに見学を許されている。少なくともこの時点までは、信長の秀貞に対する信頼は損なわれていない。
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秀貞追放
ところが、それから1年足らずで状況は一変する。天正8(1580)年8月、秀貞は丹羽氏勝や安藤守就らとともに突然追放されたのだ。『信長公記』には「先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」としか書かれていない。
要は、「信長公が信長包囲網で窮地に陥っていた折に謀反を企てたからである。」という話らしいのだが、秀貞が謀反を企てたという話は史料には一切出て来ないのである。
一説には、下田甲斐守の謀反の鎮圧失敗が追放の原因であるというが、それを言うなら柴田勝家もかつて加賀一向一揆の鎮圧に失敗している。
なぜ勝家はその失敗を不問に付され、秀貞は追放されたのだろうか?かつて信長に反旗を翻したことを蒸し返すのであれば、さかのぼること24年前に織田信行を擁立しようとしたという点では勝家も同様である。
戦働きが少なかったからと言うのであれば、同じ事務方の村井貞勝などは戦働きがほとんどない。にもかかわらず、本能寺の変で信長が斃れるまで追放されることなく仕えているのはなぜなのか。
ここで、林氏が稲葉氏の一族であるということが関わってくるのではないか。実は天正3(1575)年11月に信長は家督を嫡男信忠に譲っているが、その際秀貞は信忠付きの家老となっている。
秀貞の他にも主に美濃衆である家臣が信忠付きとなっているのであるが、これは家督を継いだ信忠が美濃の一部を領有し、岐阜城に入ったからである。
秀貞は稲葉氏の一族であるが、尾張に地縁を持つ武将である。そんな彼が信忠付となったのは信長と信忠の連携をスムーズにするという役目があったのではないだろうか。
もし、このポジションを虎視眈々と狙っていた人物がいたとしたらどうであろう。それは、美濃にゆかりがあり、信長の信頼厚く、政治行政の手腕に長けた人物であるはずだ。
そのような人物となると、織田政権№2の明智光秀しか思い当たらない。それを裏付けるかのように、『佐久間軍配』には秀貞の追放は光秀の讒言によるもの、という記述がある。
動機らしきものもあった。実は、信忠の養母は帰蝶だったのではないかとされているのだ。
『言継卿記』には信忠を後継者とするにあたり、信長正妻の養子とした、という記述がある。この「信長正妻」が帰蝶であるという説が有力だという。帰蝶は光秀の従兄妹であるとされているから、血縁的なコネは十分すぎるほどある。
そして、「俺なら秀貞より上手く政権を切り盛り出来る。」という自負もあったろう。なにせ、光秀はかつて村井貞勝とともに京都所司代を務めたほどであるから、行政能力は極めて高いのだ。
そもそもは、その手腕を買われて、信長に仕えることになった光秀であるが、次第に軍事的才能まで発揮するようになっていったという経緯がある。
秀貞が追放された1580年前後と言えば、光秀は丹波亀山の攻略や石山合戦に心血を注いでいた頃であった。当時、齢50を超えていたと思われる光秀にとって、途中体調を崩すなど、かなり過酷な戦いであったとされる。
ひょっとすると、この時期、光秀は最前線で戦う武将としては体力の限界を感じたのかもしれない。事務方に戻るとすると、秀貞のポジションは非常に魅力的である。そして、天下が平定されれば戦働きなどほぼ無くなるという焦りもあったのではないか。
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あとがき
信長家臣の不審な死や謎の追放を調べていくと、その背景に光秀の影がうっすらと写り込んでいることがある。秀貞追放の一件についても疑惑満載なのだが、もし仮に光秀が真犯人だとすると、信長にどのような讒言をしたのであろうか?
これに関して、興味深い話がある。
かの大久保彦左衛門が記した『三河物語』によれば、本能寺の変の際に本能寺襲撃の報を聞いた信長はとっさに「上之助(信忠)が別心(謀反)か」と述べたという。
この時信長には斎藤道三の一件が、脳裏に浮かんだのかもしれない。それは、嫡男信忠が斎藤義龍と同様に美濃を治めていたからである。
このことを考えると、光秀は信長にこう讒言したのではないか。
明智光秀
そういえば、何年か前に秀貞殿が信忠様を担いで信長公を排斥しようと画策しているという噂を小耳にはさんだことがございますが、やはり単なる噂でしたな。
信長はこの話を受けて、念のため秀貞を追放したのではないだろうか。追放された秀貞は2ヵ月後の10月15日この世を去ったと伝わる。享年68であったという。
【参考文献】
- 大久保彦左衛門 (著),小林賢章 (翻訳)『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫 2018年)
- 瀧澤中『「戦国大名」失敗の研究 政治力の差が明暗を分けた』(PHP研究所 2014年)
- 太田牛一・中川太古『現代語訳 信長公記』(中経出版 2013年)
- 高橋隆三・小坂浅吉・斎木一馬『言継卿記』(1999年)
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