信長、24年目のリストラ…筆頭家老「林秀貞」の追放劇はなぜ起きた?

  • 2026/01/04
林秀貞は筆頭家老でありながら、突如追放されることに…。(AI生成イラスト)
林秀貞は筆頭家老でありながら、突如追放されることに…。(AI生成イラスト)
 古文書には頻繁に名が登場するものの、その言動が史料にあまり残らない武将がいる。このタイプは実務担当の事務方に多く、信長家臣の中でも林秀貞(はやし ひでさだ)の地味さは抜きんでている。同じ実務派の村井貞勝も地味なタイプだが、京都所司代だったのもあり、その言動の記述は割と残されている。

 そんな訳で、長年信長を支え続けた秀貞の失脚はセンセーショナルであった。明確な理由なき追放劇…。彼が流浪の身となるまでの足跡を、史料から紐解いてみたい。

「通勝」ではなく、正しくは「秀貞」

 かつて、林秀貞は「林通勝(みちかつ)」の名で広く知られていた。しかし実は、一次史料にその名は一切見当たらない。では、なぜ通勝と呼ばれてきたのか。

 最も有力な説は、松永久秀の家臣にいた同姓同名の「林通勝」との混同だ。当然ながら、秀貞が久秀に仕えた事実はない。後世の編纂過程で記憶のすり替えが起きたのだろう。

 秀貞は信長の父・信秀の代から仕える宿老で、織田家の筆頭家老という重責にあった。林一族は尾張春日井郡沖村(愛知県北名古屋市)を本拠とする土豪とされるが、血縁を辿ると意外な事実が見えてくる。実は美濃の有力者・稲葉氏の一族だというのだ。

 この「美濃衆・稲葉氏との縁」が、後の追放劇に微妙な影を落としていると私は睨んでいるのだが、それについては後述したい。

信長の家臣ナンバーワン

 幼少期の信長を支えた家老といえば平手政秀が有名だが、実は序列のトップは秀貞であったようだ。『信長公記』によれば、まだ幼少の信長に那古屋城が与えられた際に、秀貞が一番家老として補佐したとある。

 秀貞も政秀と同様、信長の奇行には手を焼いたらしい。次第に万事そつなく品行方正な信長の弟信行(信勝)を支持するようになったのではないだろうか。

初期の信長家臣団(1560年の桶狭間の戦いのころ)
初期の信長家臣団(1560年の桶狭間の戦いのころ)


 織田信秀の死後、次第に頭角を表し始めた信長であったが、秀貞は信行の擁立に動く。どうも秀貞は信長の言動というか、人となりに不審を抱いていたようだ。信長がのちに足利義昭を奉じて上洛し、天下を動かす武将になる事など、この時点で予測できるはずもなく、国衆や家臣を無難に取りまとめる領主を求めたということもあろう。そういう点では、万事そつなく振舞える信行の方が適任に見えても不思議ではないだろう。

 これは柴田勝家も同様だったと思われる。実際、のちに勝家は秀貞の弟・通具(みちとも)と共に信長へ反旗を翻し、挙兵にまで至っているのである。


稲生の戦いには不参加

 美濃の斎藤道三は、婿である信長を高く評価し、強力な後ろ盾となっていた。しかし弘治2年(1556)、息子・義龍との「長良川の戦い」で道三が戦死。信長は最大の支えを失う。

 この好機を逃さず、同年8月に柴田勝家と信行が謀反を起こす(稲生の戦い)。勝家はそもそも信行直属の家臣だったため、やむを得ない行動だが、信長直属の秀貞の立場は複雑だった。興味深いのは、弟・通具が勝家と共に戦った一方で、兄の秀貞は不参加を貫いた点だ。

 信長は奇嬌な振る舞いも多く、何を考えているかわからない面もあるが、秀貞は信長の「武将としての器」を認め始めていたのかもしれない。当時、今川氏の圧力が強まる中で、織田家が生き残るには信長の力が必要だと判断したのだろうか。弟を見捨てられぬ情と、主君としての資質への評価。その板挟みが「不参加」という決断に繋がったのではないか。


主に事務方で活躍

 稲生の戦いの後、秀貞は信行や勝家と共に赦免され、再び信長に仕える。ここからの彼は、優れた政治家・行政官として辣腕を振るう。

 永禄3年(1560)、桶狭間の戦い後の「清洲同盟(家康との同盟)」では立会人を務めた。信長が永禄11年(1568)に足利義昭を奉じて上洛した後には、信長の発給する政治的文書のほとんどに署名を記しており、その実務能力の高さが窺える。

 また、公家と信長との取次役を務めることもあり、『言継卿記』によると、山科言継が信長に拝謁する際には、秀貞が取り次ぐのが常であったという。さらには、信長の開く茶会には常に招かれるなど、その待遇は破格である。

 そして、天正7年(1579)の安土城天主完成の折には、同じく事務方の村井貞勝とともに見学を許されている。少なくともこの時点までは、信長の信頼は揺るぎないものに見える。


秀貞追放の謎

 ところがそれから1年足らずの天正8年(1580)8月、状況は急変する。秀貞は突然、丹羽氏勝や安藤守就らと共に追放されたのだ。『信長公記』には、次のようにしか書かれていない。

「先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」

 これは「信長公が信長包囲網で窮地に陥っていた折に謀反を企てたからである。」という話らしいのだが、秀貞が謀反を企てたという話は史料には一切出て来ない。一説に下田甲斐守の謀反の鎮圧失敗が追放の原因というが、それならば柴田勝家もかつて加賀一向一揆の鎮圧に失敗している。

 なぜ勝家はその失敗を不問に付されたのに、秀貞は追放されたのか…。かつて信長に反旗を翻したことを蒸し返すのであれば、さかのぼること24年前に織田信行を擁立しようとしたという点では勝家も同様である。戦働きが少なかったという理由ならば、同じ事務方の村井貞勝などは戦働きがほとんどない。にもかかわらず、村井は本能寺の変(1582)に信長が斃れるまで追放されることなく仕えている。

 ここで林氏が稲葉氏の一族であるということが関わってくるのではないだろうか。

 実は天正3年(1575)11月に信長は家督を嫡男信忠に譲っているが、その際に秀貞は信忠付きの家老となっている。秀貞の他にも主に美濃衆である家臣が信忠付きとなっているが、これは家督を継いだ信忠が美濃の一部を領有し、岐阜城に入ったからである。秀貞は尾張にも地縁を持つ武将であるから、信長と信忠の連携をスムーズにする役目があったのではないだろうか。

 もし、この「政権中枢のポジション」を狙う者がいたとしたら?

 それは美濃にゆかりがあり、信長の信頼厚く、政治行政の手腕に長けた人物である明智光秀しか思い当たらない。それを裏付けるように、『佐久間軍記』には、秀貞の追放は光秀の讒言(ざんげん)によるものという記述がある。

 動機らしきものもあった。実は信忠の養母は帰蝶だったのではないかとされているのだ。

 『言継卿記』には、信忠を後継者とするにあたり、信長正妻の養子とした、という記述がある。この「信長正妻」が帰蝶であるという説が有力だという。帰蝶は光秀の従兄妹であるとされているから、血縁的なコネは十分すぎるほどある。

 そして光秀ならば「秀貞より上手く政権を切り盛り出来る」という自負もあったろう。なにせ光秀はかつて、村井貞勝とともに京都所司代を務めたほどであるから、行政能力は極めて高いのだ。そもそもその手腕を買われて信長に仕え、次第に軍事的才能まで発揮するようになっていったという経緯がある。

 秀貞が追放された天正8年(1580)前後といえば、光秀が丹波亀山の攻略や石山合戦に心血を注いでいた頃であった。当時、齢50を超えていたと思われる光秀にとって、途中体調を崩すなど、かなり過酷な戦いであったとされる。

 ひょっとすると、この時期に光秀は最前線で戦う武将として体力の限界を感じたのかもしれない。事務方に戻れたならば、秀貞のポジションは非常に魅力的であろう。そして天下が平定されたなら、戦働きはほぼ無くなってしまうという焦りもあったのではないだろうか。


おわりに

 信長家臣の不審な死や謎の追放を調べていくと、しばしば光秀の影が差す。秀貞追放の一件についても疑惑満載なのだが、もし光秀が仕組んだのだとしたら、信長にどんな讒言をしたのであろうか?

 これに関しては興味深い話がある。『三河物語』によれば、本能寺の変の際、襲撃の報を聞いた信長はとっさに「信忠の謀反か」と口にしたという。

 光秀はこうした信長の猜疑心を利用して「秀貞が信忠様を担いで、かつての斎藤義龍のように反旗を翻す噂を小耳にはさんだことがありますな」とでも吹き込んだのではないか。

 秀貞は、追放されてからわずか2カ月後、失意のうちにこの世を去った。享年68。織田家を支え続けた筆頭家老の、あまりに寂しい幕切れであった。


【参考文献】
  この記事を書いた人
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...
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