うつけの兄 vs 常識人の弟。信長の実弟・織田信勝を襲った悲劇の末路
- 2026/01/19
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織田信長という武将は、若き日に「大うつけ」と呼ばれていたことで有名ですが、それとは対照的に「常識人」であったと伝わっているのがすぐ下の弟・織田信勝(信行)です。本来は織田家の屋台骨を支えるべき立場にありながら、彼は織田家の家督を継承することができず、兄信長への反逆を繰り返し、最終的には信長の手で葬られる運命を辿ります。
同じ母から生まれた兄弟が、なぜ修復不能な殺し合いへと突き進んでしまったのか。信長の影に隠れがちな信勝の生涯を紐解き、その対立の謎に迫ります。
同じ母から生まれた兄弟が、なぜ修復不能な殺し合いへと突き進んでしまったのか。信長の影に隠れがちな信勝の生涯を紐解き、その対立の謎に迫ります。
※なお、後世では「信行」の名で広く知られていますが、当時の史料からは、生前にその名を使用していた形跡はなく、「信勝」「達成」「信成」といった名を名乗っていたことが確認できます。本稿では混乱を避けるため、便宜上「信勝」に統一します。
父の葬儀では礼儀正しい振る舞い
信勝は、尾張国(現在の愛知県)で急速に勢力を拡大していた織田信秀の三男、または四男として生を受けました。誕生年こそ定かではありませんが、彼には他の兄弟たちとは決定的に異なる「武器」がありました。それは、すぐ上の兄こそが織田信長であり、かつ、十人を超える兄弟の中で唯一、信長と同じ正室・土田御前を母に持つ「同母弟」であったという事実です。
戦国時代において、「正室の子か、側室の子か」という違いは、家督継承の順位を左右する極めて重要な要素でした。通例であれば、生まれの時点で、家督継承は「嫡男の信長か、唯一の実弟である信勝か」ということが明白でした。彼らは生まれながらに対立する可能性を秘めていたのです。
二人の性格の違いを象徴する有名なエピソードが、父・信秀の葬儀です。 『信長公記』によれば、兄・信長はあろうことか、茶筅髪(ちゃせんがみ)にだらしない服装という珍妙ないで立ちで現れ、仏壇に線香を投げつけるといった奇行に走ります。対して弟の信勝は服装、態度共に見事な姿勢で臨んだといいます。
実際、信長はこうした奇行により、家臣たちから「このうつけが後継者で大丈夫なのだろうか…?」と資質を疑問視され、信勝を次期当主に推す声もあったといいます。しかし、信秀は早くから信長を後継者と定めており、既定路線通り、信長に家督が譲られました。
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末森城主として兄に劣らぬ権力を有するも…
家督継承こそ果たせなかったものの、信勝もまた、正室の子にふさわしい力を有していました。それは父信秀の居城であった末森城を譲り受け、家臣にはすでに手練れとして知られていた柴田勝家、佐久間次右衛門らがつけられていることからも窺い知れます。当時の武家において、有力な弟を補佐役として重用する大名は少なくないため、ここまでは戦国の慣習通りといえるかもしれません。しかし、信勝は単なる「補佐役」の域を大きく逸脱し、あたかも「もう一人の当主」であるかのような独自の動きを見せ始めるのです。
その象徴的な事例が、織田家が信仰対象としていた熱田神宮の管理権を巡る対立です。熱田神宮を管理する加藤家に対し、信長と信勝はそれぞれ別の人物を保護しているのです。
また、弘治元年(1555)に起きた、もう一人の弟・織田秀孝の殺害事件への対応にも、両者の立ち位置の違いが鮮明に表れています。 守山城主・織田信次の家臣によって秀孝が射殺された際、信勝は激怒して即座に守山の町を焼き払うという苛烈な報復を行いました。一方で信長は、事件の背景に秀孝側の落ち度もあったと冷静に分析し、あえて出奔した信次を処罰することはしませんでした。
さらに決定的なのは、信長が事件後に守山城に新城主として織田秀俊を送り込みますが、信勝の差し金で暗殺した事実が確認できることです。明確に従わない姿勢を見せていた信勝は、本来信長が名乗るべき「弾正忠」を自称し、「自分こそが織田弾正忠家の当主である」と示すほどでした。
「稲生の戦い」家臣との共謀で信長に反逆
すでに信長と相いれない姿勢を表明していた信勝は、やがて信長への反逆を意識するようになります。信勝に従ったのは、かねてから補佐役の柴田勝家と、他でもない信長の重臣であった林秀貞です。当時の信長は、合戦で非凡な才能を見せつけるとともに斎藤道三との姻戚関係で後継としての地位を築いていましたが、決して安泰ではありませんでした。後ろ盾であった道三は戦死し、信長の教育係であった平手政秀も自害。信長が孤立を深めていくこのタイミングを、信勝らは「好機」と捉えたのでしょう。
林秀貞は兄弟で信長に反発し、秀貞の弟は騙し討ちを献策するほどでしたが、さすがにこの案は秀貞が退けたといいます。信勝の不穏な動きを察知した信長は、名塚砦を築くなど、信長と信勝の仲はすでに修復不可能なものとなっていました。
そして弘治2年(1556)、ついに信勝は名塚砦に攻め込みます。世に言う「稲生の戦い」です。 信勝自身は出陣しませんでしたが、
一方の信長は自身が軍を率いて、砦を出た稲生の地へ向かいました。
兵力数では、信勝軍が信長軍の2倍以上と圧倒的に優位でしたが、結果は信長の完勝という形で幕を閉じています。戦勝の要因は大将直々に出陣した信長軍と、代理を派遣しただけの信行軍の「士気の差」、そして「信長親衛隊の実力」の二点と考えられています。
どんなに数で勝っていても、命を懸けて戦う覚悟のない大将の下では、兵の心は離れます。信長の凄まじい執念の前に、信勝軍は総崩れとなりました。士気の差に加え、戦における経験・実力差がそのまま勝敗に直結したという印象です。
戦後、信長は信勝のいた末森城を攻めることも考えたようですが、母による懸命の命乞いがあったことで信勝を許しています。加えて、林秀貞や柴田勝家についても処罰することはなかったようで、同時代の例に比べても極めて寛大な処置といえるでしょう。後年の「冷酷非道な魔王」というような信長像とはずいぶんとかけ離れている印象です。
再度の反逆心で、最期を迎える
寛大な処置で一度は命を救われた信勝。勢力は壊滅し、本来であれば兄の軍門に下り、隠居するか忠実な家臣として生きる道もあったはずです。しかし、信勝の心から「当主への未練」が消えることはありませんでした。信勝はその後も密かに、信長の宿敵であった斎藤義龍(父の道三を殺害した人物)と書状を交わし、共謀して一発逆転の機会を狙っていました。さらに永禄元年(1558)年には、龍泉寺に新たな城を築き始めます。これは信長への反抗を諦めないという姿勢の表れだったのでしょう。
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しかし、信勝は一つ、決定的なことを見落としていました。それは「家臣たちの心変わり」です。 かつて彼を熱烈に支持した柴田勝家は、敗戦を通じて信長の真の器量に触れ、すでに信勝には愛想を尽かしていました。勝家は信勝の再度の謀反計画を知るや否や、それを密かに信長へと報告したのです。
これで弾正忠家の後継争いは、”勝負あり”といったところ。家臣に見捨てられたことが信勝の命運を決定づけました。同年末、信勝は病を装った信長に清州城へと誘い出され、殺害されてしまうのです。
おわりに
信長が「唯一の同母弟」を殺害したという点だけを考えれば、彼の苛烈さを象徴する出来事に見えるかもしれません。しかし、そこに至るまでの経緯を辿れば、むしろ信長はよく我慢していたといえるでしょう。戦国の世において、一度目の反逆は「迷い」として許されても、二度目は「断じて許されざる裏切り」です。信勝は乱世を生き抜くための状況判断力に欠けていたと言わざるを得ないでしょう。






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