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  • 織田信長
 2019/04/01

「稲生の戦い(1556年)」信長の家中での評価が一変した兄弟対決。

稲生原古戦場跡(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84" target="_blank">wikipedia</a>)
稲生原古戦場跡(出所:wikipedia

弘治2年(1556)8月、織田信長と弟・信勝との間に起きたのが「稲生の戦い」です。“兄弟対決”と聞くと、なんだか興味をそそられませんか? ですが、実際にそれに巻き込まれた家の人たちは、たまったものではなかったはず。

織田家中を真っ二つにしてしまったという「稲生の戦い」とは、いったいどんな合戦だったのでしょう。そして戦後に起こった、意外な結末とは!?
(文=こばやかわ)

合戦の背景

父・信秀の死後、家督を継いだ若き日の織田信長。かつては「大うつけ」呼ばわりされていたものの、その後の合戦(萱津の戦い村木砦の戦いなど)では実績を残しています。ところが、家臣からの人望は今一つといったところでした。

筆頭家老から殺されるかもしれなかった信長

というのも筆頭家老である林秀貞をはじめ、その弟の林通具(美作守)、そして柴田勝家ら3人は信勝(信行とも/信長の弟)を支持し、信長に逆心を抱いているという噂が流れていたのです。

そんな状況にあった弘治2年(1556)5月26日のこと。信長はどういうわけか、弟の安房守秀俊(信時)と二人だけで、那古野城にいる林秀貞のもとへとやってきたのです。なんと不用心なのでしょう……。

もちろん、林通具は今がチャンスとばかりに、信長の殺害を兄・秀貞に提案します。が、秀貞は「三代にわたって仕えてきた主君をここで殺すのは、天罰が怖い」という理由で、このときは信長に手をかけないでいたのでした(『信長公記』)。

とはいえ、一両日過ぎに秀貞らは反信長の立場を明らかにしたようです。しかし、ここで信長を殺さなかったことは、ある意味“歴史を変えた瞬間”と言えそうです。

荒れる織田家

このように、信長が家督を継いだばかりの織田家では、数々のトラブルが巻き起こっていました。まずは同年6月、守山城主であった秀俊が、家臣の角田(つのだ)新五によって殺害されました。その理由は、秀俊が坂井喜左衛門の息子・孫平次を重用する一方、新五は忠勤を認められなかったのを恨んだためとされています(『信長公記』)。

これが嘘か本当かはともかく、殺された秀俊は優秀な人物だったそうです。よって信長にとっても、秀俊は邪魔な人物だったのかもしれません。まぁ、信長がこの事件に関わったかどうかなんて、わからないんですけどね……。

そして秀俊の死後、信長は叔父の信次(※)に守山城を与えることになりました。

※かつての守山城主。家臣による秀孝(信長の弟)射殺を機に、しばらくの間出奔していた。

トラブルは、これだけではありません。信長の弟・信勝が、代々織田家の当主が名乗ってきた「弾正忠」の官途を名乗るようになっていたのです。彼の背後にいたのは、先ほど紹介した林兄弟や柴田勝家たち。優秀かつ家臣からの人望も厚かった信勝は、まるで自分が当主のように振る舞いだしました。

信長VS信勝の兄弟対決始まる

信勝は、信長の直轄領であった篠木三郷(現:愛知県春日井市)を押領。このままでは庄内川に砦を築いて領地をもっと広げるのでは? と危機を感じた信長は、信勝に先んじて、庄内川を渡った名塚(なづか/現在の名古屋市西区)という場所に砦を築かせたのでした。

あーもう、これは一触即発の状態ですね! 家臣たちも信長派と信勝派に分かれ、織田家中は真っ二つになってしまったのです。

そして翌日の23日、信勝の名代・柴田勝家は1,000人、林秀貞は700人の兵を引き連れ、信長方の名塚の砦へと出陣しました。一方の信長も翌24日、700人の親衛隊を率いて清州を出陣。そして両軍は正午頃、稲生原(いのうはら)の地(現在の名古屋市西区)で衝突したのです。

合戦の経過・結果

※戦場は尾張国稲生(現在の愛知県名古屋市西区名塚町1丁目)

まず信長軍は、柴田軍に戦いを挑みました。佐々孫介(まごすけ/佐々成政の兄)といった屈強な家臣たちも討たれる中、信長が怒鳴ったところ、柴田軍の兵たちはビビって逃げて行ったそうです。そんなことあるのかと疑問に思いますが、まぁ、敵といっても身内ですしね……。

次いで信長軍は、林軍との戦闘を開始。信長自らが槍を持ち、敵の主将・林通具を討ち取ったことをもって、この戦いは決しました。この戦いの中で信長が討ち取った敵方の首は、450以上にも上ったといいます(『信長公記』)。

戦後

この戦い以後、信勝をはじめとする敵方は、那古野・末盛城への籠城を余儀なくされました。ところが信長の母である土田御前の嘆願により、信長は信勝を赦免することに。また林秀貞・柴田勝家・津々木蔵人(くらんど)も清州城を訪れて信長に謝罪、そして忠誠を誓うことになったのです。

一方、信勝はというと、家督継承への望みを捨てきれませんでした。確かに、盛り立てておきながら、家臣にコロッと態度を変えられた信勝の立場を思うと不憫ですね。そんな信勝は弘治3年(1557)、岩倉城の織田信安と共謀し、信長の直轄領を奪おうと目論み始めます。

しかし、この動きを察知していたのが柴田勝家。信長に忠誠を誓った彼は、その情報を信長側にもたらしました。すると信長は仮病をつかって信勝を清州城に誘い出し、家臣によって殺害させます。柴田勝家がのちに越前を拝することになるのは、このときの忠節によるものだそうですよ(『信長公記』)。

まとめ

林兄弟や柴田勝家ら家臣の動きによって、不和になってしまった織田信長と弟の信勝。そんな両者の間に起こったのが、「稲生の戦い」でした。身内同士とはいえ、多くの犠牲者を出したこの戦い。勝利したのは信長です。そしてこれを機に、信勝派であった家臣たちも信長に忠誠を誓うことになります。

しかし、信勝の気は収まらなかったのか、信長に対する謀叛の計画を立てました。ところが、柴田勝家がこの情報を信長にリーク。信勝は信長にまんまと騙され、清州城内で殺害されてしまったのです。


【主な参考文献】





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