【兵庫県】御着城の歴史 播磨国守護・赤松氏の一族、小寺氏の居城!
- 2021/03/04
戦国時代を象徴する言葉のひとつに「下剋上」というものがあります。下が上を剋する、つまり家臣が主君を討ったり、弱かったはずの者が強者に取って代わったりということが日常的に起きる時代だったといえるでしょう。それは一国の統治者であった守護や守護大名にとっても、同様の脅威でした。各地で勃興した勢力が旧権威を打倒していく構図が見られますが、播磨国でもそんな栄枯盛衰が繰り広げられました。
播磨の守護は赤松氏ですが、その庶流の小寺氏が本城としたのが「御着城(ごちゃくじょう)」です。織田軍による播磨進攻で陥落した城塞群のひとつですが、「播磨三大城」の一角ともされる名城として知られています。
今回はそんな、後着城の歴史について見てみることにしましょう!
播磨の守護は赤松氏ですが、その庶流の小寺氏が本城としたのが「御着城(ごちゃくじょう)」です。織田軍による播磨進攻で陥落した城塞群のひとつですが、「播磨三大城」の一角ともされる名城として知られています。
今回はそんな、後着城の歴史について見てみることにしましょう!
御着城とは
御着城は現在の兵庫県姫路市御国野御着に所在した平城です。西から東へと緩やかに下降する標高約13~14メートルの微高地に位置し、その西から南側を天川が流れて城域の区画となっています。このため、資料によってはこれを平山城と分類する場合もあります。近世の史料では天川城や茶臼山ノ城などの別名でも記されており、山陽道に沿った交通の要衝という重要地点の防御を担う城でもありました。
築城は永正16年(1519)、赤松氏庶流の小寺政隆によるものとされていますが、明応4年(1495)の段銭徴収に関わる文書に小寺氏の名が見え、すでに御着城が存在していた可能性も指摘されています。
赤松氏と浦上氏の対立が続いたことと、山陽道という大動脈に沿った立地条件から重要な防衛拠点として度々戦場になりました。
永正18年(1521)には浦上村宗攻めのため、赤松義村が御着城に着陣したことが記録され、享禄3年(1530)には細川高国と結んで上洛を企図する村宗の攻撃で落城し、小寺政隆は自害しています。翌年には大物崩れなどで村宗および高国が敗死し、政隆の子の小寺則職が御着城主として復帰しました。
永禄12年(1569)には織田信長の命を受けた木下助右衛門や三木城の別所氏が御着城を攻撃。天正3年(1575)、小寺氏は一旦信長に臣従する道を選びますが、天正6年(1578)に荒木村重が信長から離反すると、これに呼応して再度反旗を翻します。天正7年(1579)には織田軍による播磨進攻が開始、後着城周辺は信長の嫡男・織田信忠による火攻めの被害を受けます。
御着城は三木城との連絡網を遮断されつつも、同年10月28日まで存続。しかし翌天正8年(1580)1月、三木城に先立って開城することとなりました。4月、羽柴秀吉は御着城を含む周辺諸城の破却を命じており、これにより御着城は廃城となりました。
播磨三大城たるゆえん、後着城の威容
御着城の姿は、宝暦5年(1755)に描かれた絵図から想定することができます。それによると、本丸を囲む内堀と北東側に備えられた二の丸をめぐる三重の堀が設けられ、南西側は天川を天然の堀としている様子がわかります。山陽道や城下をこれらの堀に取り込む総構の城であり、昭和52~54年(1977~79)にかけて姫路市埋蔵文化財センターが実施した発掘調査の成果でもその裏付けがとられました。
調査では礎石をもつ建物群や石組の井戸、瓦で区画された蔵とみられる建物跡などが検出されています。瓦や陶磁器なども多数出土しており、往時には流通の拠点ともなる都市的景観をつくりだしていたことが想像されます。交通網と物流を掌握していたともいえる小寺氏は、高い経済力をもった武将だったとも言い換えられるでしょう。
おわりに
「播磨三大城」は後着城のほか、別所氏の三木城と三木氏の英賀城があげられます。後着城は一国を代表する城のひとつとして認識されたといえるのではないでしょうか。また、播磨の小寺氏といえば、軍師として有名な「黒田官兵衛」が最初に仕えた主君だったこともよく知られています。黒田氏の出自は近江国とされていますが、官兵衛の祖父・黒田重隆の時代に播磨御着城主・小寺則職に仕えることになりました。則職の跡を継いだ小寺政職に少年の官兵衛は仕え、近習として頭角を現していくことになります。
こうして見ると、歴史の糸も不可思議としか言いようのない縁で絡まり合っていることを、改めて感じさせられるようですね。
補足:御着城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
永正16年 (1519年) | 小寺政隆により築城 |
永正18年 (1521年) | 赤松義村が浦上村宗攻めのため御着城に着陣 |
享禄3年 (1530年) | 浦上村宗の攻撃で落城、政隆は自害 |
享禄4年 (1531年) | 村宗らが敗死。小寺則職が御着城主に復帰 |
永禄12年 (1569年) | 織田信長の命で木下氏や別所氏が御着城を攻撃 |
天正3年 (1575年) | 小寺氏が織田氏に臣従 |
天正6年 (1578年) | 荒木村重の織田離反に小寺氏も呼応 |
天正7年 (1579年) | 織田信長軍が播磨に侵攻 |
天正8年 (1580年) | 御着城が開城、のち廃城に |
宝暦5年 (1755年) | 御着城の様子が絵図に描かれる |
昭和52~54年 (1977~79年) | 姫路市埋蔵文化財センターにより発掘調査実施 |
【主な参考文献】
- 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『御着城跡発掘調査概報』 姫路市教育委員会 1981
- 兵庫県公式観光サイト 御着城
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