日本最古の天守を備えた城だった?「伊丹城(有岡城)」の歴史について

帯刀コロク
 2021/01/18

有岡城の本丸跡(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%B8%B9%E5%9F%8E" target="_blank">wikipedia</a>)
有岡城の本丸跡(出所:wikipedia

「天守」といえば城のシンボルたる壮麗な高層建築がイメージされますが、そのはっきりとした起源は定かではありません。 しかし古記録にはその言葉が残されており、現在確認できる最古のものは『細川両家記』による永正17(1520)年の事例です。 それが摂津国の城、「伊丹城」です。

今回はかの荒木村重が摂津支配の拠点としたことでも知られる、伊丹城の歴史にフォーカスしてみることにしましょう!

伊丹城とは

伊丹城は現在の兵庫県伊丹市伊丹に所在した平城で、後に荒木村重が改称したことから有岡城の名でも知られています。

伊丹段丘の東側に位置するこの城は、自然の段丘崖を有効活用する形で城域を形づくっています。南北約1.7キロメートル・東西約800メートルという細長い範囲であり、本丸は現在のJR伊丹駅の近辺にあったと考えられています。

伊丹城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

城の中核をなすのは古城山と呼ばれる台地の周辺で、調査によると最低でも三つ以上の曲輪で構成されていたことが想定され、その周囲は大規模な濠や土塁で囲まれていました。

西側の防御線は大きな溝筋で内・外の曲輪に区画し、内曲輪には侍屋敷、外曲輪には寺院や町屋などを配置。さらに要所となる鵯塚・女郎塚・岸といった地点には砦を構築していました。

天正5(1577)年に伊丹城を訪れたルイス・フロイスは、書簡でその壮大さを讃えています。

正確な築城年代は定かではありませんが南北朝(1336~1392年)時代、摂津国人・伊丹氏により築かれたと考えられており、文和2(1353)年の古記録に伊丹城の名が初出します。

南北朝の動乱や応仁の乱などで度々戦場となり、永正17(1520)年に落城した際は伊丹但馬守らが天守で自刃したことが記録されています。

このことから、文献上で確認できる「天守」の最古例 *1 とされていますが、その構造までは詳らかではありません。

*1 近年では「天守(てんしゆ)」ではなく、「主殿(しゆてん)」であり、書写の過程での間違ったものとされています。

一方で伊丹城は堅城としても知られ、大永7(1527)年には三好元長軍の攻撃を一か月以上、天文18(1549)年には三好長慶軍による半年にわたる攻撃にそれぞれ耐え抜いています。

天正2(1574)年には織田信長の部将となっていた荒木村重が、伊丹氏を追放して伊丹城に入城。これを有岡城と改称します。

天正6(1578)年には村重が突如として信長から離反、有岡城の戦いが勃発。やはり籠城戦により約1年にもわたって信長軍の攻撃に耐えますが、翌年には村重が密かに尼崎城へと脱出。有岡城は落城となります。

天正8(1580)年に池田之助が城主となりますが、天正11(1583)年に之助が美濃へと転封されたことにより、廃城となりました。

近代には工事によって遺構が破壊される事態が起こりますが、昭和50(1975)年には発掘調査が開始。昭和54(1979)年には国史跡の指定を受け、昭和63(1988)年にはその追加指定がされています。

周辺を含む発掘調査は400次を超え、平成5(1993)年には史跡公園としての整備事業が完了し、現在では有岡城跡史跡公園となっています。

荒木村重の有岡城脱出とその後

天正7(1579)年、およそ1年におよぶ籠城戦の末に有岡城を脱出した荒木村重でしたが、妻子一族および家臣団とその家族も放棄するという形でのことでした。

信長はこれに苛烈な処断を加え、古記録によると村重家臣の妻子500名、村重の妻子一族36名がすべて処刑されるという凄惨な結果を生じました。

この出来事に言及した同時代の史料ではその多くが批判的な立場であり、『立入左京亮入道隆佐記』によると「ここまで恐ろしい処断は、仏の時代からして初めてのことだ」と記しています。

まとめ・略年表

戦国の世の惨さを強く印象付ける、有岡城の戦いにおける戦後処理の数々。 英雄譚に目が向きがちなこの時代ですが、そんな悲痛な出来事が起きたことも、無言の城跡が語り継いでいるかのようです。

※参考:略年表
南北朝時代
(1336~92年)
摂津国人・伊丹氏により築城
文和2年
(1353年)
古記録に伊丹城の名が初出
同 年伊丹基長が南朝勢を撃退
永正8年
(1511年)
細川澄元・赤松義村の連合軍に包囲される
永正17年
(1520年)
細川高国が伊丹城を放棄。伊丹但馬守らが天守で自刃
大永7年
(1527年)
三好元長の軍が一か月以上伊丹城を攻囲するが落城せず
享禄2年
(1529年)
柳本賢治の攻撃により伊丹城が落城
享禄3年
(1530年)
高畠甚九郎が翌年まで居城とする。後、伊丹氏が伊丹城を奪還
天文2年
(1533年)
一向一揆により伊丹城が包囲される
天文18年
(1549年)
三好長慶による半年以上の攻囲を受ける
天文19年
(1550年)
三好長慶と和睦
天正2年
(1574年)
荒木村重が伊丹氏を追放して伊丹城に入城、有岡城と改称
天正6年
(1578年)
荒木村重が信長に謀反、有岡城の戦いが勃発
天正7年
(1579年)
村重はひそかに尼崎城へと脱出。同年有岡城は落城
天正8年
(1580年)
池田之助(元助)が有岡城主に
天正11年
(1583年)
之助の美濃転封により、有岡城は廃城に
明治26年
(1893年)
鉄道敷設工事により有岡城東部が破壊
昭和50年
(1975年)~
発掘調査開始
昭和54年
(1979年)
国史跡に指定
昭和58年
(1983年)
史跡公園整備事業開始
昭和63年
(1988年)
国史跡への追加登録
平成5年
(1993年)
史跡公園整備事業完了

【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 伊丹市HP 有岡城跡

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...

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