新選組の隆盛を見届けた男・島田魁の熱き思い
- 2025/01/08
新選組随一の巨漢で力持ち、そして明治以降も生き続けた隊士が今回紹介する島田魁(しまだ かい)である。島田は新選組結成直後に入隊し、箱館戦争まで新選組が関連したほとんどの事件・戦に参加している。いわば新選組の歴史を知り尽くしたような人物だ。
明治以後は静かに、だが凛として生き、最期も新選組隊士として死んでいった…と私は考えている。新選組を愛し、義を貫いた島田魁の生涯とは、いったいどのようなものだったのだろう。
明治以後は静かに、だが凛として生き、最期も新選組隊士として死んでいった…と私は考えている。新選組を愛し、義を貫いた島田魁の生涯とは、いったいどのようなものだったのだろう。
新選組入隊以前の島田魁
島田魁が生まれたのは、美濃国方県郡雄総村(現在の岐阜県岐阜市長良雄総)である。父は郷士の近藤伊右衛門で文政11年(1828)が生年だ。郷士の次男として恵まれた暮らしのはずだったが、木曽川の氾濫で木材が流出した責任を取り、父が切腹したことで、島田の運命は大きく変わる。剣術との出会い
父亡き後、母は何らかの理由で子を置いて再婚する。島田は母方の親戚である永縄家や川島家に預けられた。辛い少年時代を過ごしたであろう中で、島田は剣術と出会った。剣術修行に明け暮れる日々を過ごしながら、成長する島田。彼がその剣才を認められたのは、名古屋城で行われた御前試合である。 この御前試合で優勝した島田は、大垣藩(岐阜県大垣市)・島田才の養子となる。
江戸へ
養父の援助を受けた島田は、剣術修行のために江戸へ向かう。島田が門をたたいたのは、牛込御留守居町の心形刀流の道場を開いていた幕臣・坪内主馬である。島田29歳の時だった。その道場の師範代には新選組の仲間となる永倉新八がいて、親しくしていたようだ。文久元年(1861)頃に、大垣藩から帰国要請が来たが、島田はこれを拒否し京都へ出奔した。この時期は、尊王攘夷の嵐が吹きあれ、政争の中心は京都になっている。多くの志ある若者が京都へ向かうのと同じように、島田も己のうちに燃え始めたまだ何物かもわからない炎の正体を求めて京都へ行ったのだろうか。
壬生浪士組(新選組の前身)に入隊する
京都へ移った島田は、大坂で種田流槍術の修業をしている。その道場はのちに新選組隊士となる谷三十郎・万太郎兄弟が開いていたものだ。島田はここで免許皆伝を得ている。文久3年(1863)、新選組の前身である壬生浪士組が結成されて初めての隊士募集に応じ、島田は壬生浪士組に入隊した。島田の入隊には、旧知の中だった永倉新八の誘いがあったとも考えられている。入隊時、島田はすでに36歳であった。入隊後まもなく、島田は諸士調役兼監察に抜擢され、多くの事件に関わることになる。
身長が八尺(約180cm)・体重は四十五貫(約100kg)という巨漢持ち主の割には、よく気が回り、優しい性格だったようで、隊士たちからは、怪力の「リキさん」と呼ばれて慕われていたらしい。
島田が関わった主な事件
諸士調役兼監察とは、隊規の取り締まりによる隊士の粛清や情報収集を行うスパイのような仕事をこなす、いわゆる裏方の仕事が主な任務だ。島田は多くの事件に関わることになった。主な事件だけを述べても次の通りである。池田屋事件(1864年)
いわずと知れた新選組最大の事件。 島田らは数カ月前から探索を行い、事件前日には過激浪士たちの中心的存在であったと目される古高俊太郎捕縛にも貢献している。事件当夜も池田屋での戦闘に参加し、のちに十七両の報奨金を受け取っている。
禁門の変(1864年)
池田屋事件の約1ヶ月後に起こった戦いである。会津藩と共に新選組も参加しているが、島田が残した『島田魁日記』にはその詳細が書かれており、御所から天王山へ、そして大坂へと長州の残兵を追尾する様子がよくわかる。油小路の戦い(1867年)
慶応3年(1867)に起きたこの事件は、ひとことで言えば新選組の内紛である。途中入隊していた伊東甲子太郎は、新選組の内部分裂を画策したのち、数十名の隊士を引き連れて隊を離脱、御霊衛士(ごりょうえじ)となる。表向きは円満に離脱したように見えたが、新選組の隊規では隊を脱すれば切腹だ。
その上、伊東らが新選組局長・近藤勇の暗殺を計画しているという情報まで入ったことで近藤・土方は伊東の暗殺を決行する。その後伊東とともに離脱した元隊士たちをおびき寄せて襲ったのが、油小路の戦いだ。
この戦いで島田は、隊でも一二を争う剣の達人といわれていた服部武雄と戦っている。
近藤勇狙撃事件(1867年)
これは油小路の戦いで生き残った伊東の仲間が、近藤を狙撃した事件だ。王政復古の大号令、そして大政奉還となり、新選組は伏見奉行所に陣を移していた。近藤は、軍議に参加するため二条城へ出向くことが多く、その途中で狙撃されたのである。この時、島田は近藤の護衛をしていた。『島田魁日記』には、
「隊長近藤公馬上ニテ伏見墨染ノ辺ヲ通リ候処、狼藉物七八人ニテ不意ニ炮発シ胸ニ徹シ(近藤の胸に当たり)」
とある。乱闘の中で局長付きの井上新左衛門と奴(下僕)の芳介が死亡したが、落馬を逃れた近藤は島田が馬の尻を鞭で叩いたおかげで何とか伏見奉行所に帰り着いたと書かれている。
右肩に重傷を負った近藤は治療を受けるために、労咳(結核)にかかっていた沖田総司らと共に大坂城へ送られている。
それから10日あまりのちに始まったのが、鳥羽伏見の戦いだった。
鳥羽伏見の戦い(1868年)
近藤の代わりに指揮を取る土方のもとで、島田や永倉たちは薩摩軍と戦う。初めのうちは互角であった戦いも、次第に銃器に勝る薩摩軍に押され、最終的には大坂まで敗走することになった。この戦いの中でよく知られている島田のエピソードを1つ。
永倉たちと敵陣へ斬り込んだ新選組は、敵の銃の前に退却を余儀なくされた。伏見奉行所まで戻ってきたが、重装備の永倉が土塀を乗り越えるのに手間取っていた。それを見かねた島田は自分の銃を差し出して永倉につかませると、軽々と引き上げたという。
のちの戦地・宇都宮でも足にけがを負った土方を背負って歩いたというエピソードがある。島田の怪力おそるべし。
怪力の持ち主・甘党リキさん
巨漢で怪力といわれると、さぞ酒豪かと思う方も多いだろうが、島田は実は超甘党だったそうだ。酒好きの新選組隊士と出かける時も、島田は甘いものを求めたようだ。ある時、島田は屯所で大鍋にたっぷりの汁粉を作ったそうだ。それも超甘のおしるこ。ほかの隊士は甘すぎて遠慮していたため、結局は島田一人で平らげたとか。以来隊士たちは、この超甘おしるこを「島田汁粉」といって恐れたという…。
実は明治に入ってから島田は、雑貨屋を営んだことがあるのだが、そこではなぜかレモネードを作っていたとか。あまり売れなかったというレモネードも、超甘かったのかも。
北の大地へ
鳥羽伏見の戦いに負けた新選組は、他の旧幕府軍と共に江戸へ帰る。新選組は甲陽鎮撫隊と名を改めて甲府城攻めに向かうが、そこでも惨敗。試衛館からの新選組メンバーであった永倉新八や原田左之助らが離脱した後も、島田は近藤・土方に従う。流山で再起を図ろうとした近藤らだが、薩長軍改め新政府軍に包囲され、近藤が捕縛される。
島田は土方と共に旧幕府軍に参加すべく、北へ向かった。宇都宮、会津などで戦ったあと、旧幕府軍は蝦夷(北海道)に渡った。彼らが箱館に到着したのは、慶応4年改め明治元年(1868)の10月末のことだ。五稜郭を占領した旧幕府軍は、箱館政府を樹立する。厳しい冬が終わるころ、新政府軍との最後の戦いが始まった。
新選組の終焉
土方が指揮し、何度も新政府軍を退けた二股口の戦いにも参戦した島田は、その様子も詳しく書き残している。「挟攻ヲナツ(敵方に挟み撃ちにされ)、我軍色動ク(わが軍が浮足立った)総督土方歳三山嶺を陟降シテ(山頂を上り下りして)諸壁ヲ戒ム(胸壁を用心させる)中略退ク者在レバ是ヲ斬ル(と言った)」
長時間の攻撃に耐えて夕方には新政府軍が敗走する。そして…。
「総督(土方)自カラ樽酒ヲ携(持って)諸壁シテ兵ニ贈リ謂、汝等ハ歩卒ニシテ能防リ、官軍ハ士ニシテ且衆(士官であり数も多い)、吾常ニ賞嘆ス(中略)吾重賞ヲ与フ、然レドモ酔ニ乗シテ軍律侵スヲ患、只一椀ヲ与フ(酔いに乗じて規律を乱してはいかんので、一杯ずつ与える)」
自軍よりもはるかに兵力が多かった新政府軍を見事退却させた部下たちへ、ちょっと粋なねぎらい方をする土方。鬼の副長と恐れられた京都時代とは異なった一面を見せる土方を敬愛する多くの兵士たちを見て、島田はさぞうれしかっただろう。
明治2年(1869)5月11日。新政府軍の函館総攻撃が始まった。島田は弁天台場で戦っていたが、誰かに聞いたのであろう、土方戦死の様子も日記に残している。土方は孤立していた弁天台場を救うため、五稜郭から一本木関門まで到達したところで敵の弾丸を受けて死亡した。
土方の戦死から7日後、箱館政府は降伏した。
明治以後の島田
島田は明治4年(1871)まで、名古屋藩お預けとなっていた。赦された後は故郷の美濃でしばらく過ごすが、明治6年ごろには京都へ戻り剣術道場を開いている。所用で京都に訪れた榎本武揚から、新政府への出仕を勧めたいという連絡がきたときは、「呼び出したいならならそっちから出向いてくるのが道理だ」と拒否した。多くの同志を失った島田は、かつての敵に仕える考えなど持ち合わせていなかった。最期まで新選組と共に
剣術道場を経営するほかに雑貨屋を開いたり、仏具店に勤めたりもしていたらしい島田だが、老年になるとかつて新選組の屯所があった西本願寺の夜間警備員となった。明治33年(1900)3月20日。島田は西本願寺境内で一生を終えた。警備員として巡回している途中に持病の喘息発作が出たためではないかと考えられている。享年73歳。
懐には、土方歳三の戒名「歳進院誠山義山豊大居士」と書かれた紙が入っていたそうだ。最期まで副長と、そして新選組と共にあらんとした武士・島田魁。
島田魁の葬儀には永倉新八も参列した。遺骨は大谷祖廟にある。
あとがき
島田魁は、新選組創成期から終焉までを知り、明治を生き抜いた数少ない隊士だ。その上、監察役として新選組の表も裏も知る人物でもある。そのため彼が残した『島田魁日記』や『英名録』などは、新選組の研究をするうえでの貴重な資料となっている。専門的なことはわからないが、私のような新選組ファンにとっても、新選組隊士たちの生き生きとした姿が見られる大切な資料だ。
亡くなった後も新選組のために大いなる貢献をしている甘党リキさん。都の人々にはあまり好かれていなかった新選組が、幕末のスター並みの人気者になったのを喜んでいるのかな。
@参考
新選組大事典 新人物往来社 1999年
新選組隊士伝 学研 2004年
新選組日記 木村幸比古 2003年
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