江戸幕府10代将軍・徳川家治 吉宗の血を色濃く受け継いだ平時には惜しかった名君
- 2024/12/27
いわゆる田沼時代をつかさどった将軍であり、どうしても田沼意次と連動的な評価をされてしまう傾向があることも否めません。それがため、家治は不当に過小評価されてきたといっても良いでしょう。
そこであまり紹介されることのない10代将軍・徳川家治の素顔をたどってみましょう。
祖父、吉宗の寵愛を一身に受けて育つ
家治は9代将軍・徳川家重(いえしげ)の長男として生まれました。母は家重の側室である至心院です。幼い頃より家治は、聡明快活で祖父である8代将軍・徳川吉宗から大きな期待を寄せられます。9代将軍の家重は吉宗の長男ですが、身体的な障害があったことで、吉宗も家重に後を継がせて良いものか相当に悩んだと言われています。そのため、吉宗が家重に将軍職を譲ったのは吉宗62歳、家重43歳という遅さでした。
徳川吉宗
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宗尹 宗武 家重
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重好 家治
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家基
吉宗は将軍職を譲った後も、大御所として実権を握りますが、意外にも頭の切れる家重の人事を見て、口出しは止めることにしたようで、ほとんど政治には関与してきませんでした。その家重の長男として生を受けた家治もまた、幼少時より聡明・利発であったので、吉宗は家治を寵愛し、帝王学を叩き込みました。そのおかげで家治は文武両道に長けていたのです。
剣術は柳生久寿、槍術は小南三十郎に師事し、家治はいずれも優秀でしたが、特に鉄砲に優れ、百発百中だったとも伝えられています。また、吉宗の説く帝王学をよく理解し、吉宗を喜ばせたとも伝えられています。
家治も吉宗を尊敬しており、のちに10代将軍になってからも、たまに見慣れない食物が膳に上ると、
と確認を取るほどであったと言います。
愛妻家でもあった家治
家治は17歳の時に直仁親王の娘・倫子女王(ともこ じょおう)を正妻に迎えます。倫子女王は将軍の妻である御台所になり、家治との間に2人の娘を授かります。実は、歴代の徳川将軍の中で御台所である正妻との間に子供をもうけた、というのは2代将軍の秀忠と10代家治の2人しかいないのです。それくらいに御台処というのは「お飾り的な存在」となってしまうことが多かったのですが、家治は違いました。徳川将軍家では、結婚しても離れた場所に住むことになるのですが、家治は倫子女王のところに足繁く通いつめており、そのために家治付の女中と倫子女王付の女中の間で諍いが起きるほどであったそうです。
しかし跡継ぎの男子が生まれなければ困ります。そこで家臣達は家治に側室を持つよう勧めます。家治は簡単には受け入れませんでしたが、
という条件付きで側室を持ちます。しかし側室に男子が生まれると、もう側室のところには行かなくなってしまったそうです。
家治は53歳で病死する間際に倫子女王を枕元に呼び、次のように言い残したとも伝えられています。
江戸幕府10代将軍に就任
宝暦10年(1760)、父の家重は唯一の通訳であった大岡忠光が死去したため、正常なコミュニケーションが取れなくなって引退を決意。これにより家治は徳川代10代将軍に就任します。この時の老中には、8代吉宗や9代家重に仕えた松平武元(たけちか)、家重が抜擢した田沼意次がいました。家治は両者を重用しましたが、特に松平武元は吉宗以来の臣下でもあり、吉宗に心酔していた家治は松平武元とともに政治に励みます。しかし松平武元が死去すると、政治に興味を失ったのか、全てを田沼意次に任せて政治には関わらなくなり、趣味に没頭するようになるのです。
なぜ家治は政治に興味を持てなくなってしまったのでしょうか? これには諸説ありますが、当時は百姓一揆の頻発、天災の発生などの非常事態的な事象が多く、家治が吉宗から教わった帝王学的政治学では処理できない内容であったからではないか、と推測されます。
こういった非常事態では、「いかに後始末を行ない、それに必要なお金をどう工面するか」ということが政治課題であり、それには田沼意次の世事に通じた実践的な政治能力の方が適しており、家治の政治能力の限界を超えていたのではないでしょうか。もし戦国の世のような知略謀略を必要とするような乱世の時代であれば、家治はもっと強い政治力を示せたのではないか? つまり、家治は力はあったのですが、時を得なかったのではないかと思われるのです。
しかし、自分よりも田沼意次の方が時節に適した対応ができると見極め、身を引いたのだとすれば、これはとても潔い態度とも取れます。事実、細かい金の工面などは江戸城住まいの家治には無理だったことでしょう。結果的に田沼意次に全面委任したおかげで、打ち続く人災・天災に何とか対応できた事実を見れば、家治の態度は、むしろ正しい判断だったとも言えるのです。
趣味は将棋とボードゲーム
政治から身を引いた家治が打ち込んだのは将棋でした。実は父の徳川家重も将棋が得意であり、江戸城内ではかなう者がおらず、遂には名人を呼んで対局したとまで伝えられています。この一点をもってしても家重愚鈍説を否定することができます。といのも、将棋は非常に頭脳を酷使しなければならず、愚鈍な人間が強くなることはできないゲームだからです。父・家重は言語不明瞭、身体不自由な面もありましたが、明晰な頭脳を持った人物であったのです。
その血を引いた家治もまた、将棋に打ち込んで相当な腕前にまでなったそうです。現在、残されている家治の将棋譜を見た現代のプロ棋士は「アマの高段者クラスの実力」と評価しています。父・家重が名人と五分に対局したという点と比べると、さすがに見劣りはするのですが、家治はむしろ創作に才能を持っていたらしく、詰将棋を作らせたら天下一品の見事な物を作り上げたそうです。
「御撰象棊攷格」という100の詰将棋を残していますが、これは現代でも他の追随を許さぬ名作・好作と評価されています。また七国象棋という独自のボードゲームを創作して家臣達と競技していたそうです。
他人に気を遣う優しい人柄
将軍の起床は朝6時でしたが、家治はそれよりも早く目を覚ますことが多く、そんな時は座敷の中で音を立てないように、行ったり来たりして、6時になるのをひたすら待っていたそうです。また、厠に行く時も当番の御納戸役を起こさないよう、抜き足差し足で廊下を歩いたという逸話も残っています。天下人の将軍なのですから、そんな気遣いは無用だったはずですが、家治の人柄が伝わりますね。また次のようなエピソードもあります。
ある激しい雨の日、家治は一人の近習が空を見上げ、溜息をついているのを目にした。別の者にその訳を聞いたところ、「あの者は貧しく、家が朽ちて雨漏りがしており、今頃親が苦心していることを思っているのでしょう」と答えた。それを聞いた家治は、いくらあれば直せるのかを聞くと、「100両もあれば直せると思います」と答えた。すると家治はその近習を呼び、「孝を尽くせ」と100両を渡した。
総じて家治の評価は歴史的には決して芳しいものとは言えませんが、案外に能力を秘めていた人物であることは間違いないようです。ただ、家治が将軍を務めた時代は、彼の能力には見合わない時代であり、それを家治自身も知っていたというべきでしょう。己の限界を知り、よりよい選択として田沼意次に政治を任せた決断は正しいものでした。そういった意味では名君とも呼んでも良いでしょう。
ただ残念ながら家治の知名度は低く、評価しようにも材料が少ないというのが現実なのです。本来であれば田沼意次が再評価されつつある今、それを任せた家治の評価も連動して再評価されねばならないとも思えるのですが…。
【主な参考文献】
- 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮社、2005年)
- 二上達也『日本将棋大系 別巻3』(筑摩書房、1978年)
- 国立公文書館 『将軍のアーカイブス 浚明院殿御実紀』
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