徳川家治側室「お知保の方(蓮光院)」は、まさに江戸時代のシンデレラガール!

 「お知保(ちほ)の方」は江戸幕府10代将軍・徳川家治の側室で、徳川家基を生んだ女性です。

 彼女は120石取りの旗本、津田信成の三女で比較的、平均的な中流家庭の出身者でした。しかし御台所の倫子様が男の子を生まなかったので、急遽、田沼意次の計らいで徳川家治の側室に上がることになったのです。そして見事に男児を授かりました。

 そもそも大奥の究極の目的は将軍の世継ぎを設けることです。その大奥の究極の目的を達成したお知保の方は急速に大奥での地位があがりました。何しろ次期将軍のお母さんなのですから。側室の身分が上がれば、その家族の身分も一緒にあがります。お知保の方には弟がおり、津田家の家督を継いでいたのですが、最終的には6000石取りの旗本にまで出世します。

 すべてはお知保の方がお世継ぎを産んだからでしたが、この出世はどれくらい凄いものだったのでしょうか?現代の価値に換算しながら見てみましょう。


側室の身分や家柄は?

 江戸時代は現代とは違い、一夫多妻制です。ですから「側室」というのは正式な婚姻をした妻のことを差します。単なる「お妾さん」ではありません。

 そして沢山いる妻の中でも序列があり、最高位は御台所で、これが正妻です。側室は2番目以降の妻を差しました。側室といえど、正式な妻ですので徳川家康の時代には家柄にこだわったりしたようです。実際、家康の側室は大名家、貴族の姫君ばかりです。

 そうした風潮が変わったのは3代将軍・徳川家光の時です。家光が男色に凝ってしまったため、困った春日局は家光の好みに会いそうな女性を探しまくって側室にしました。これは仕方なかったといえるでしょう。それ以来、将軍の側室は、あまり身分にこだわらなくなりました。

 それでもお知保の方は120石取りの旗本の娘ですから、決して出自は悪くありません。家光の3人の側室のうち、4代将軍・家綱を生んだお楽の方は、下野の農家の娘で、おまけに父親は罪人でしたし、5代綱吉を生んだお玉の方は京都の八百屋の娘でした。

 それに比べたらお知保の方は並みとはいえ、旗本の家柄出身なのですから大奥に入るのに、なんの不足もなかったでしょう。彼女は先代将軍・徳川家重の時代に大奥に入っていますが、彼女を家治の側室に選んだのは田沼意次です。多分、容姿、健康に優れていたのではないかと想像されます。

弟の年収は2億超え!?

 江戸時代の大名、旗本の規模は「石高」という単位に表されました。江戸時代の武士の報酬は米で支給されたのは、よく知られています。

 「一石」というのは現代の単位に換算すると約150kgとなります。米俵一つでだいたい60kgですので、米俵2.5俵で一石という訳です。この米を札差という仲介業者を通じて金銭にしたのですが、当時でも米相場というものがあり、米1kgの価格は流動的でした。このため絶対的な数値換算はできないのですが、現代の感覚で換算をしてみましょう。

 米殻機構発表の2023年の米1kgの平均価格だと、米1kgは約255円ということです。一石を金額換算してみると、3万8250円(150kg×255円)です。

 さらに、ここからお知保の方の実家である120石取りの旗本、津田家の年収を算出してみると、459万円(3万8250円×120石)となります。

 まぁ現在の平均所得に近いので並みのサラリーマンといったところでしょうか。お知保の方が中流階級出身だということがよく分かります。

 そして、お知保の方が世継ぎを生むとお知保の方は「老女上座」に格上げとなり、弟の津田信之は800石を加増され、1000石取の旗本となります。この段階でなんと!3825万円(3万8250円×1000石)ですから、一挙に高額所得者に仲間入りした訳です。

 そしてお知保の方の生んだ男の子が成長して「徳川家基」を名乗るようになると、さらに加増されて津田信之は最終的に6000石取りの旗本になります。その額、2億2950万円(3万8250万円×6000石)という驚愕の年収です。

 平均的なサラリーマン世帯から一挙に年収2億円あまりにまで出世したのですから、凄いものです。世継ぎを生むというのが、いかに偉業とみなされたかということでもあります。

家基の逝去後は?

 世継ぎの徳川家基は残念ながら満年齢16歳で死んでしまいます。その後はどうだったのでしょうか?

 実は世継ぎを生んだという実績がそれで消えることはありませんでした。御台所である倫子様が生きている間は、やはりナンバー2の位置でしたが、倫子様が逝去した後は、お知保の方は「御部屋様」と呼ばれ、大奥の最高権力者としての地位を誇ることになります。

 当然ながら津田信之の6000石もそのままでした。まさに津田家はお知保の方のおかげで超高額所得者となったわけです。もし他家に普通にお嫁入りし奥方となっていたら、津田家はいつまでも120石取りの下っ端旗本だったでしょうし、お知保の方も平凡な一生をどこかで過ごすことになっていたでしょう。

 江戸時代は平和な時代で、武士にとっては「腕の見せ場がない時代」です。戦場で功績を上げるということはできなくなっていたため、非常に出世が難しい時代でした。そのため、日々の行事のあらゆる場面で少しでも目立とうとするあまり、将軍の鷹狩りにおける拍子木の打ち役になるための争いが起きたりもしていました。そんな時代に一挙に5880石もの加増というのは、まさに未曽有の大出世といえます。

 徳川家基は「家」の諱をもらいながら将軍になれなかった、唯一の人物です。ただし元服は済ませていたので、お知保の方の実績は損なわれずに済んだと言えます。お知保の方は寛政3年(1791)に55歳で死去しますが、死後、従三位を追贈されました。通常、死後に官位が追贈されるのは御台所、および将軍生母だけなので、お知保の方は残念ながら将軍にはなれなかったものの、将軍生母と同じ扱いを受けたということになるのです。

おわりに

 家という概念が現代より遥かに重要だった時代、女性にとって世継ぎを生むことは「義務」として求められたことと言えます。しかし、意図的に男の子を生むことなど誰にもできませんから、無理難題をふっかけられていたということになります。

 いつの時代でも無理なものは無理なのです。しかしそんな無理難題を乗り越えた実績がこんなにも大きな報酬を受けることになるとは、お知保の方はまさに江戸時代のシンデレラガールといっても過言ではありません。

「とにかく幸運だった…」

 彼女の人生はその一言に尽きると言っても良いのではないでしょうか。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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