激動の幕末維新を撮影? 知られざる写真家大名、尾張藩主・徳川慶勝の素顔
- 2024/12/26
激動の幕末・維新を生き抜いた知られざる写真家大名、尾張徳川家14代藩主・徳川慶勝(よしかつ、1824~83)。彼は御三家の筆頭でありながら、幕府ではなく、朝廷側についた大名であり、多くの貴重な写真を残しています。また、会津藩主松平容保公とも兄弟であり、戊辰戦争をきっかけに兄弟同士で敵対関係にも。
「激動の幕末維新を生きた大名」と「写真家」としての2つの姿に注目します。
「激動の幕末維新を生きた大名」と「写真家」としての2つの姿に注目します。
※徳川慶勝はその生涯で何度か改名していますが、本コラムでは混乱を避けるため「慶勝」で統一します。
尾張徳川家当主、尾張藩主に就任
徳川慶勝の系譜
慶勝は、文政7年(1824)に尾張徳川家の分家・高須松平家の10代当主・松平義建(よしたつ/1799~1862)の次男として生まれました。幼名は秀之助(ひでのすけ)です。母は水戸徳川家7代当主・徳川治記(はるとし)の五女・規姫(のりひめ/1797~1851)で、兄が早逝したため、嫡男として育てられました。母方の水戸徳川家にゆかりから、母の弟である水戸藩主・徳川斉昭(なりあきら)から大きな影響を受けます。
なお、弟に松平武成(たけなり/浜田藩主)、徳川茂徳(もちなが/高須藩主/尾張藩主)のほか、松平容保(かたもり/京都守護職/会津藩主)、松平定敬(さだあき/京都所司代/桑名藩主)、松平義勇(よしたけ/高須藩主)などがいます。
松平義建
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義勇 定敬 容保 茂徳 武成 慶勝
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義恕 義宜
尾張藩主へ
天保12年(1841)、従四位下侍従・中務大夫(なかつかさだゆう)に叙任され元服し、諱を義恕(よしくみ)と名乗りました。正室として二本丹波家9代長富(ながとみ)の娘・矩姫(かねひめ/1831~1902)を迎え、嘉永2年(1849)に結婚します。同年、尾張徳川家の14代当主を相続し、12代将軍徳川家慶から一字を賜り、慶恕(よしとも)と改名。藩主としては、従三位左近衛権中将・参議を経て権中納言にまで昇進しました。安政の大獄により、一時は隠居謹慎
藩主になった慶勝は、尾張藩の改革を推し進めます。自分を推す家臣団である金鉄党(きんてっとう)を中心に財政改革等を行い、軍備の強化にも着手しました。当時、幕府では13代将軍・徳川家定の後継者問題で、一橋派(徳川慶喜支持)と南紀派(徳川家茂支持)の間で分裂。慶勝は、一橋派の立場を明確にし、徳川斉昭や島津斉彬らと共に徳川慶喜を推しました。しかし安政5年(1858)、南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、家茂を後継に決定します。 井伊は日米修好通商条約の締結を強行。これに反発した慶勝は徳川斉彬らと共にその責任を追及しましたが、安政の大獄(1858~59)によって、隠居・謹慎を命じられました。万延元年(1860)に井伊が桜田門外の変で暗殺されると、慶勝は謹慎を解かれ、幕政に復帰。この時、名前を慶勝(よしかつ)に改めています。
復権後は、幕府と朝廷の間の仲介役を果たすことに努め、文久3年(1863)には京都後に将軍補翼(しょうぐんほよ/将軍補佐)に任命されました。しかし、尾張藩内では次第に権力闘争が激化し、慶勝の弟である第15代藩主・徳川茂徳が、慶勝の嫡男・元千代(もとちよ。のちの徳川義宜)に譲ります。慶勝は後見役として実権を握りました。
元治元年(1864)には、第一次長州征伐の総督に任命され、広島まで出征します。しかし、内乱の長期化を恐れた慶勝は軍事行動を回避し、長州藩の降伏を勝ち取ります。この判断により、徳川慶喜や実弟の松平容保から「弱腰」と批判され、これを機に政治の表舞台から身を引きました。
明治維新後の慶勝
慶応3年(1867)、王政復古の大号令が発せられると、慶勝は新政府に設けられた三職のひとつ「議定」に就任しました。しかし、翌年の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し、徳川慶喜が江戸に敗走します。慶勝は徳川家一門として幕府に忠誠を尽くすか、新政府に協力するかの決断を迫られましたが、新政府側につくことに表明。幕府側の家臣を粛清して藩内を勤王派に統一します。その後、家臣を東海道や中山道の諸藩・旗本・寺社に派遣し、新政府軍に味方するよう働きかけました。これにより新政府軍の江戸進撃が可能となり、結果として幕府側に立った松平容保、松平定敬の2人の実弟と敵対関係に陥りました。
慶勝はさらに、弟・茂徳と共に容保と定敬の助命歎願を行いますが、会津若松城の籠城戦などの悲劇を避けることはできませんでした。明治維新における功績が認められて、慶勝は明治2年(1869)に従一位を授与されます。
16代尾張藩主の義宜が辞職し、廃藩置県まで藩知事を務めて東京へ移住します。明治10年(1877)には有力華族が出資して設立した第十五国立銀行の発起人に名を連ねました。困窮に苦しむ旧藩士たちのために北海道八雲町へ移住を促し、開拓事業を進めさせたほか、名古屋職工場(しょこうじょう)に資金提供を行い、士族の婦女子の就業支援も行なっています。
こうした活動を通じ、士族の困窮から救うべく支援に尽力。同13年(1880)養子の義礼(よしあきら)に家督を譲って隠居し、同16年(1883)8月1日に60年の生涯を閉じました。
写真技術への関心と貢献
当時の日本における写真技術は嘉永元年(1848)に長崎に銀板写真(ダゲレオタイプ)が伝来し、安政年間(1855~1860)には湿板写真が主流となりました。慶勝は西欧の最新技術に強い関心を示し、写真技術の研究にも積極的に取り組んだようです。彼は自身で撮影実験を行い、御小姓や学者、医者を動員して洋書の翻訳や必要な化学や物理の研究を進め、写真技術に精力的に向き合いました。また、水戸徳川家や越前松平家、薩摩藩島津家などと協力し、長崎や横浜から写真技術の情報を収集し、情報網を形成しました。
実験記録には、薬品の調合法や分量、薬品製造法、焼き付け技術のほか、撮影に必要なレンズの原寸図など詳細な情報が含まれ、写真撮影技術に関する豊富な記述が残されています。研究の費用は自身の「御手許金(おてもときん)」から拠出し、写真技術の向上に努めました。
撮影した写真には、自身や家族の肖像、名古屋城や江戸屋敷の風景、幕末期の様々な場所が収められており、今も多くのガラス原版と写真が現存しています。
あとがき
明治維新の偉人として徳川慶勝があまり知られてないことが、地元民にとってとても残念です。平成25年(2013)7月~9月に徳川美術館で開催された「徳川慶勝~知られざる写真家大名の生涯」をきっかけに知りました。 印象のある写真は「名古屋若宮祭祭礼山車行列」、「会津若松城天守」、「高須四兄弟」です。特に明治11年(1878)に慶勝、徳川茂徳、松平容保、松平定敬定の兄弟4人で撮影された「高須四兄弟」の写真です。この写真は、なにを記念して撮影されたのか…はっきりとわかっていません。この時期に正装で写真撮影をおこなった理由は、4人のみが知るところです。私は、敵と味方に別れた兄弟が立場を気にせずに、4人で再会を果たしのではないかと思います。動乱の幕末の苦労を労ったのではないでしょうか?
あの世でも兄弟4人で会談をしているかもしれませんね。日本の歴史では、よく薩長が取り上げられますが、薩長以外の功績者を再評価して取り上げてほしいと思います。
【主な参考文献】
- 原史彦『徳川慶勝~知られざる写真家大名の生涯』(徳川美術館、2013年)
- NHKプラネット中部 (編)『写真家大名・徳川慶勝の幕末維新 尾張藩主の知られざる決断』(日本放送出版協会、2010年)
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