「見性院(千代)」大河ドラマの主人公で一躍有名に! 内助の功で夫・山内一豊を盛り立てた良妻賢母
- 2024/12/24
千代の出自 2つの説
山内一豊の妻と言えば、「千代」と答える人は割と多いだろう。ところが、この千代の出自となると諸説あり、定まっていない。有力な説は2つ存在するが、未だ白黒ついていない状態なのである。若宮友興の娘
『寛政重修諸家譜』の山内氏系図によると、浅井氏の家臣・若宮友興(わかみや ともおき)の娘だとされ、近江国飯村で生まれたということになっている。幼名は「まつ」だったという。ところが、若宮友興が永禄9年(1566)に討死してしまう。さらに、程なくして母も亡くなり、まだ子供だったまつは、若宮家の親族の養子になったと伝わる。この辺りの記述は、若宮友興の主君・浅井長政がまつに送った「安堵状」が残されていることから信用できると考えてよいであろう。
安堵状は、「今度御親父御討ち死に中々申すばかりも御入候はずに御心中をしはかり参らせ候」という書き出して始まり、父・若宮友興の遺領のうち17条のうちの1町と椿堂、そして蓮華寺を継がせるという内容となっている。
同じ頃、山内一豊の母・法秀院は近江宇賀野の長野氏のもとに身を寄せていたとされ、近所の娘たちに裁縫を教えていたという。あるとき、法秀院は1人の娘に目が留まった。それが千代だったというのだ。おそらくは、賢く気立てがよい上に、万事そつがない娘だったのだろう。「ぜひ、一豊の妻に」と2人を引き合わせたという流れであろうか。
遠藤盛数の娘
さて、『寛政重修諸家譜』には千代のもう一つの出自が存在する。それは美濃豪族遠藤氏系図で、遠藤盛数の嫡男・慶隆の妹について以下のように記されている。「女子 母は上に同じ。 山内対馬守一豊が室。」
かつては近江若宮説が有力であったが、近年新たな史料が見つかるなどして遠藤説も評価されつつあるという。やはり、1992年に滋賀県近江町飯の牛尾田家で土佐からの書状、所謂『牛尾田文書』が発見されたことが大きいと思われる。
この文書には
「其元より左馬之助様、御息女様、五藤内蔵助(五藤為重)殿御縁組、相済み」
とあり、先の浅井長政安堵状と併せて読むと、若宮左馬之助友興のご息女まつが五藤内蔵助為重に嫁いだことがわかる。因みに五藤為重は山内一豊の家臣であった。一豊の戦のほとんどに従軍したというからかなりの信頼を寄せられていたのだろう。
というわけで、近年注目の遠藤説であるが、『寛政重修諸家譜』以外にも同様の系図が存在しているという。郡上の長滝寺経聞坊や慈恩寺が所蔵しているもの等がそれであるが、いずれも遠藤盛数の嫡男・慶隆の妹が山内一豊の正室だと記されている。そして、もう一つ重要な系図が高知に残されていた。それが、江戸後期の土佐藩家臣・遠藤三作の差出系図である。
差出系図とは新たに家臣となるとき、もしくは代替わりのときに藩に提出するもので、自らの出自を示す重要なものであった。この系図によると、三作は遠藤慶隆の弟・慶胤の末子・亮胤の子孫と記されている。しかも、その系図が郡上の系図と一致していたというから驚く。
この三作の差出系図には次の重要な記述が残されている。
「遠藤安右衛門亮胤忠義公御代元和四午年於江戸御由緒を以御前被召仕」
上記から遠藤慶隆の弟・慶胤の末子・亮胤が元和4年(1618)、江戸において二代土佐藩主山内忠豊に「御由緒」によって召し抱えられたということがわかる。「御由緒」とは山内一豊の正室で、出家した千代(見性院)が郡上遠藤家の出であったことを示すものとされる。
遠藤盛数
┏━━┳━━┫
千代 慶胤 慶隆
┃
亮胤
さらに重要なのは、差出系図は藩の祐筆によって誤りがないかチェックされたという事実だ。遠藤三作の差出系図には、自分の祖先が藩祖・山内一豊の正室であったとはっきり記されていながら、祐筆による訂正箇所が全くないそうである。藩祖の正室に関する記述であるから、誤りであれば受理されなかったのではないかと八幡町文化財審議委員を務められた佐藤とき子氏は述べている。
私もそうだろうと思う。これだけ状況証拠が揃うと、郡上遠藤氏説がにわかに真実味を帯びてくる。しかし、美濃の郡上八幡と近江の距離は100kmほどあり、山内家と遠藤家の接点はどこにあったのだろうという疑問が残りはしないか。この辺りを調べてみると、興味深いことがわかった。
父・遠藤盛数が永禄5年(1562)に病死した際、千代は3歳、嫡男・慶隆は13歳だったという。子供達を守るために、母は美濃関の安桜城主・永井隼人のもとに再嫁することとなる。ところが、隼人は一貫して反信長の姿勢を崩さなかったため、美濃を離れざるを得ず、浅井長政を頼って近江に身を寄せていたというのだ。これに母・慶隆・千代らも同行したとされ、少なくとも永禄9年(1566)以降は近江にいた可能性が高いという。
となると、先に触れた法秀院の目に留まった少女は、郡上遠藤家出身の千代でも問題ないということになる。というわけで、以降は見性院=郡上遠藤家の千代として筆を進めよう。
内助の功
千代が一豊と結婚したのは元亀元年(1570)から天正元年(1573)の間であるというのが有力視されてきた。一方で、娘の與禰姫が天正13年(1585)の長浜大地震により、6歳で亡くなったことが『一豊公紀』に記されているので、與禰姫の生年は天正8年(1580)頃であることがわかる。となると、結婚してから7年から10年間は子ができなかったことになり、少々不自然ではないか。そんな訳で、2人が結婚したのは天正8年(1580)の数年前であろうという説もある。
千代は永禄5年(1562)時点で3歳位だったとされているので、16歳位で結婚したというところか。千代は賢妻であり、内助の功で一豊を盛り立てたと言われている。最も有名な逸話は「名馬購入」であろう。
『藩翰譜』によると、織田に仕えてしばらく経った頃、一豊は安土の馬市で名馬を見かけるも、金が無く、その場で買う事が出来なかった。その名馬、現在の価格で言うと150万円位だったそうだ。泣く泣く家に戻り、千代にその話をすると鏡箱の底から黄金10両を取り出し、これで名馬を買うように言ったという。一豊はその名馬に乗って信長の馬揃えに参加し、信長の目にとまり、出世の足がかりとなったのだとか。
歴史学者の小和田哲男氏によると、信長の馬揃えは天正9年(1581)2月28日で、その頃の一豊の石高は2000石ほどであったらしい。
1石は現在の価値で約8万円とのことで、一豊の年収は現代の1億6000万円位に相当するというから驚く。2000石だと60人程の家臣を抱えていたと思われるが、名馬が買えないほどの台所事情ではなかったようなのだ。となると、もっと貧しかった頃の話ではないだろうか。
一豊は天正元年(1573)に近江唐国で400石を拝領している。400石ぐらいだと黄金10両の馬を買うのは厳しかったろう。ただ、400石取りの時期に安土の馬市はまだ開かれていない。
小和田哲男氏によると、安土以外で馬市が開かれているところはないかと思い、調べて見たところ近江木之本に室町時代から馬市が立っていたことがわかったという。しかも、木之本は唐国から9㎞ほどのところにあり、話の筋としても無理がないであろう。
一豊は天正4年(1576)に播磨の有年で700石を拝領しているので、名馬購入は天正元年(1573)から天正4年(1576)の間ではないかと思われる。娘の没年から逆算すると播磨への異動直前に購入した線も濃厚ではないか。
この名馬購入の逸話を後世の作り話とする説もあるようだが、私個人としては、このような逸話は実際にあった話を元にしていると考えている。完全に話を捏造するよりは、実際にあった話を誇張して書く方がはるかに楽だし、罪悪感もさほど無かろうと思うからだ。名馬購入の逸話では、信長の馬揃えで披露したところはおそらく盛りすぎなのだろう。いずれにしても、金の遣いどころをしっかり見極めている辺りは、さすが賢妻というべきか。
関ヶ原の戦い(1600)の際も、大坂にいた千代は石田三成が挙兵に動いていると知るや、家康に従い上杉討伐に出陣していた一豊に密書を送り、事の次第を伝えたという。その手紙には石田方の人質となってしまったら自害する覚悟であり、家康に忠節を尽くすようにとも記されていたというから物凄い。
武士の妻の鑑のような千代であったが、子供に恵まれなかったのは気の毒であった。長浜大地震で娘を亡くしてからは子宝を授からなかったようだ。娘の死に気落ちしていた一豊夫妻は與禰姫の供養の門前で捨て子を見つけ、「拾」と名付けて実の息子同様に育てたという。
ところが、文禄4年(1595)頃、一豊の命により出家することとなる。当初、一豊は拾に家督を継がせようと考えていたらしいのだが、血筋でないものが家督を継ぐと家中の火種となることを危惧するようになったと思われる。拾は京都で修行を積み、高僧・湘南宗化となり、京都妙心寺の住職となった。
晩年
慶長10年(1605)、一豊が死去する。千代は出家して見性院となり、半年後には土佐を離れ、京都に移住したという。湘南宗化のいる妙心寺の近くに屋敷を構え、悠々自適な余生を過ごしたと伝わる。見性院は古今集や徒然草などの古典に造詣が深く、晩年はこれらの古典を熱心に読んでいたそうである。元和3年(1617)12月4日見性院は京で没する。享年61。その死を看取ったのは湘南宗化であったという。
あとがき
武士の妻の鑑と言えば見性院こと千代があげられることが多いのにも関わらず、その出自がはっきりしないのは非常に残念なことである。今回、近江若宮家説と郡上遠藤家説を取り上げて検証してみた結果、郡上遠藤家説が有力であることがわかった。ここでふと思ったのだが、土佐山内家はどうして近江若宮家説の系図を幕府に提出したのだろうか。
『寛政重修諸家譜』にその系図が載っているということは、その前の『寛永諸家系図伝』でも同様の系図が提出されたということだろう。『寛永諸家系図伝』の編纂は寛永18年(1641)に開始されているから、遠藤慶隆の弟・慶胤の末子・亮胤は既に2代藩主山内忠義に仕えていたはずだ。問題は亮胤が差出系図を提出させられたか否かではないかと考え始めている。
【主な参考文献】
- 小和田哲男、榛村純一『山内一豊と千代夫人にみる戦国武将夫妻のパートナーシップ』(清文社、2000年)
- 小和田哲男『山内一豊 負け組からの立身出世学』(PHP研究所、2005年)
- 渡部淳『検証・山内一豊伝説』(講談社、2005年)
- 田端泰子『山内一豊と千代 ―戦国武士の家族像―』(岩波書店、2005年)
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