信長の息子と婚約破棄!武田信玄の四女・松姫の逃避行

 戦国時代は女にとって受難の時代。政略結婚の道具にされるのは男も同じとはいえ、幼い頃から慕っていた元許婚に一族を滅ぼされ、逃亡生活を余儀なくされたうら若き姫君の流亡には胸が痛みます。

 お家の都合に翻弄された織田信忠(織田信長長男)と松姫(まつひめ。武田信玄四女)の悲恋は、戦国時代のロミオとジュリエットにたとえられ、ことさら人々の情に訴えかけてきました。

 今回は「甲斐の虎」と謳われた父・武田信玄の死後、幼き姪たちと戦火を逃れて落ち延びた、松姫の生涯を辿っていきたいと思います。

信長の嫡子・信忠の許嫁に選ばれる

 松姫は永禄4年(1561)、甲斐の大名・武田信玄の四女(五女・六女とも言われる)として生まれました。母親は側室・油川夫人。同腹の兄弟姉妹に、仁科盛信・葛山信貞・真理姫・菊姫らがいます。

 当時の武田家は尾張の織田家と甲尾同盟を組み、織田信長の養女・龍勝院(りゅうしょういん)を武田勝頼(信玄の子)の正室に迎えていました。ところが永禄10年(1567)、龍勝院が難産により死去。同盟の継続強化を求めた信長は、自身の嫡男である織田信忠(幼名・奇妙丸)と松姫の婚約を申し入れ、信玄もこれを認めました。

 信忠は当時11歳、松姫に至ってはわずか7歳でした。幼すぎる年齢を鑑み、正式な輿入れは数年後に先送りされます。体面上、武田家が信忠の正室を預かる形をとり、松姫は「新館御料人」と称されました。同盟存続が狙いの婚約とはいえ、幼少期の信忠と松姫は大変仲睦まじく、相思相愛の間柄だったと伝わっています。

 信長は「松姫に文や物を贈れ」と息子に助言し、松姫の方でも手紙を待ち侘び、数年越しの文通を経て恋心を育んでいきました。お互い面識のないまま、遠距離恋愛で想いを募らせていくなんて、ロマンチックですね。

 そして初々しい関係に終止符が打たれたのは元亀3年(1572)、松姫12歳にして信忠への輿入れを目前に控えた時でした。原因は信玄が遠江国三方ヶ原侵攻を開始したことです。行軍ルートには信長の盟友・徳川家康の領地である三河・駿河の両国が位置しており、両軍の激突は避けられません。

 信玄が強引な作戦に打って出た背景には、延暦寺の焼き討ちに反感を持ったことや、室町幕府の将軍・足利義昭が自分を軽んじる信長の言動に立腹し、諸大名に討伐を呼びかけた趨勢も影響しています。

 家康をとるか信玄をとるか…… 結果として信長は家康に援軍を送り、武田軍を撃破しました。この出来事がきっかけで甲尾同盟は消滅し、双方の子供たちの婚約は白紙に戻されてしまいます。嫁入り支度を整えていた松姫にはまさしく青天の霹靂。同情を禁じ得ません。

父兄の死後、幼い姪の手を引いて亡命

 松姫の運命が暗転するのは信玄の客死後です。勝頼が天正3年(1575)の長篠の戦いに惨敗したことで武田家の権勢が衰えたため、松姫は信濃の名門・仁科家を継いだ兄・仁科盛信の勧めに応じて、高遠城に身を寄せました。

 高遠城滞在中、若く美しい松姫のもとには引きも切らずに縁談が舞い込みました。しかし、彼女は頑として首を縦に振らず、敵味方に分かれた信忠を慕い続けます。

 天正10年(1582)、弱体化した武田家を滅ぼすべく、信長が決起。よりにもよって信忠を総大将に立て、甲州征伐に乗り出しました。

 信忠率いる軍勢が怒涛の勢いで迫るなか、仁科盛信は3歳になる娘・督姫を松姫に託して逃がします。命からがら城を脱した松姫は逃亡の途上で新府城に立ち寄り、勝頼の娘・貞姫(4歳)、人質として軟禁されていた小山田信茂の娘・香貴姫(4歳)を拾い、近在の寺に匿われながら武蔵の国まで落ち延びました。

 松姫の脱出を見届けた盛信は抵抗敢え無く討ち死に。勝頼も正室や息子を道連れに自害し、武田家は滅亡に追い込まれてしまうのです。

 高遠城を包囲した信忠は松姫を戦に巻き込むのを憂い、籠城する盛信に降伏を促しました。してみると総大将の任に就いたのは、松姫の保護が目的だったのでしょうか。既に側室と子をもうけてはいたものの、正室は娶らずにいた心情を忖度するに、不本意な別れ方をした許嫁に未練があったのかもしれません。

 片や勝頼の正室・北条夫人の生家を頼り、寺から寺へ渡り歩いていた松姫は、武田家滅亡によって行き場を失います。その後の一行は安住の地を求めて艱難辛苦を乗り越え、武蔵国横山宿(現在の八王子)の恩方村に辿り着き、「金照庵」と呼ばれる庵で慎ましく暮らし始めました。

信松院の門前に建つ、逃避行時の様子を表した「武田松姫さま東下之像」(東京都八王子市)
信松院の門前に建つ、逃避行時の様子を表した「武田松姫さま東下之像」(東京都八王子市)

千人同心の始まりは武田家の旧臣だった

 高遠城を攻め落とした信忠は、行方知れずとなった松姫の捜索に躍起になります。一方、松姫は金照庵に仮住まいしていた間に持ち込まれた縁談を全て断り、孤児となった姫君たちの面倒を甲斐甲斐しく見ていました。

 そして、ようやく松姫を探し当てた信忠。ただちに使者を送り、「貴女を正室に迎えたい」と求婚します。信忠は武田の仇であると同時に忘れられない初恋の人……悩んだ末に「はい」と答え、今度こそ彼に嫁ぐべく旅立った松姫ですが、夫と相まみえることは叶いませんでした。

 天正10年(1582)、本能寺の変で信長が死に、信忠も自害してしまったのです。

 長年の想い人との死別が、俗世への未練を絶ち切る契機になったのは想像に難くありません。恩方村に戻った松姫はその足で曹洞宗の名刹・心源院を訪ね、8年の厳しい修行に耐えたのちに剃髪。信松尼(しんしょうに)と名を改め、若い身空で仏門に入ります。まだ22歳でした。

 天正18年(1590)には水源に恵まれた上野原宿に移り住み、「信松院」と命名した庵を結びます。そこで信忠や一族の菩提を弔い、近隣の子供たちに読み書きを教えました。信松尼が養っていた姫の中には信玄を裏切った賊臣の娘もいましたが、分け隔てなく愛情を注いでいます。

 地元の人々は聡明な信松尼を心から慕いました。北条氏照の正室・比左の相談役を務めた逸話も残っています。

 遺臣の援助に甘えるのをよしとせず、繭から紡いだ絹で機を織り、反物を売って生計を立てた在り方からは、心優しく気丈な女性の姿が浮かび上がってきました。

 信松尼が養蚕から広めた絹織物は八王子の代表的物産となり、後世の桑都の発展に大きく貢献します。徳川幕府を樹立した家康が八王子千人同心(家康の御家人として八王子に配置された1000人の武士団)を置いた際、武田家遺臣の中から同心を選んだ理由は、八王子が松姫の終の棲家だから。

 千人同心総代官に抜擢された武田家遺臣・大久保長安は、特に信松尼の暮らしぶりを気にかけ、主君の娘を見守ることに生涯を捧げました。

おわりに

 以上、信玄の娘・松姫の数奇な生涯でした。信松尼の「信」の字は信忠の妻を意味するとされ、戦乱の世に引き裂かれた恋人たちの運命が涙を誘います。晩年は多くの弟子や友人を得て、56歳で眠るように息を引き取った松姫。若き日の苦労が報われ、穏やかな余生を過ごせたことを願ってやみません。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
まさみ さん
読書好きな都内在住webライター。

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