謎多き豊臣秀吉の父母…その正体を探る

日吉丸(秀吉の幼名)誕生の場面(『絵本太閤記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
日吉丸(秀吉の幼名)誕生の場面(『絵本太閤記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 豊臣秀吉は農民を出自とするが、織田信長に仕えるまでの動静については謎が多い。しかも、父母についても不明な点が多く、神秘のベールに包まれている。秀吉の父母とは、どういう人物だったのか考えることにしよう。

秀吉の父「弥右衛門」

 秀吉の実父は弥右衛門で、中々村(名古屋市)の出身だった。『太閤素生記』は、父弥右衛門を「木下弥右衛門」とし、職業を「鉄砲足軽」とする。しかし、木下という姓は、秀吉の姓「木下」を先入観として用いた可能性が高く、織田家に仕えた「鉄砲足軽」という説も疑わしい。

 一説によると、弥右衛門は相当の百姓で、そのかたわらで織田家に仕える半ば武士の家だったという指摘がある。秀吉の由緒には、貧しかったことを記す史料が多いものの、実際にはそうでなかったということになろう。

 しかし、この見解には実に疑問点が多く、たしかな史料で裏付けられたわけではない。以下、そうした疑問点について、もう少し掘り下げて検討することにしよう。

貧農だった弥右衛門

 弥右衛門は、貧農だったと考えるのが自然である。何よりも、秀吉自身が貧しかったことは、さまざまな書物に書かれている。たとえば、フロイス『日本史』第12章には、次のように記されている。

関白(秀吉)は高貴の血筋をひくどころか、下賤の家柄であり、彼もその親族も、あるいは農業、あるいは漁業、もしくはそれに類したことを生業としていた。

 また、秀吉が幼少期から貧しく、生活の糧を得るため、各地を放浪したことが、小瀬甫庵『太閤記』の次のような記述から窺える。

父の家がもともと貧しかったので、秀吉は10歳の頃から他人の奴婢にならざるを得ず、方々を流浪する身となった。遠江・三河・尾張・美濃の4ヵ国を放浪し、1ヵ所に留まることはなかった。

 秀吉が貧しい生活を送っていたことは、のちに安国寺恵瓊(毛利氏の政僧)が書状に書いているし、島津氏の家臣だった上井覚兼も自身の日記の中で、秀吉の出自が賤しかったことを罵倒している。秀吉が貧農の子だったことは、疑いないだろう。

秀吉の2人目の父となった「竹阿弥」

 病気で伏しがちであった父・弥右衛門は、天文12年(1543)に病没した。死因や没年齢は不明である。その後、母の「なか」が再婚したのは、竹阿弥という人物である。

 竹阿弥については、『太閤素生記』に次のように書かれている。

(織田)信秀の家に竹(筑)阿弥という同朋衆がいた。中々村の生まれである。病気を理由にして中々村に引っ込んでいたが、村の者がこれを幸いとして、木下弥右衛門の後家(秀吉の母)と結婚させた。

 同朋衆は将軍や大名などに近侍して、身辺の雑務や特殊な芸能諸事を務めた職に従事する者である。僧体で「某阿弥」「某阿」のように阿弥号を名乗っていた。書画・調度品など唐物の鑑定管理を行う者、猿楽・田楽・立花などの特殊技能者として勤仕する者、書信の使者や対面取次などの雑事に従う者など、職務が分かれていた。

 問題なのは、ただでさえ秀吉の家は貧しかったのに、病気になった竹阿弥を夫として迎えたので、いっそう生活が苦しくなったと考えられることだ。『太閤素生記』は、その辺りの説明が十分ではなく、結婚に至る経過がわかりづらい。

 竹阿弥は弥右衛門と同じく中々村の出身だったようだが、ほかの史料で動静を探ることもできず、生没年すらも明らかではない。信秀の同朋衆だったという説も、史料的に裏付けられないので、疑ってかかる必要があるのかもしれない。

 日常の生活が苦しかったので、竹阿弥と秀吉の間で争いごとが絶えなかったことも十分に想定される。秀吉は父の遺産から1貫文(現在の貨幣価値で約10万円)を与えられ、15歳となった天文20年(1551)に家を出たといわれている。

秀吉の母「なか」

 秀吉の母「なか」に関しても、実に謎が多いといえる。『太閤素生記』には、母「なか」の出自について、次のように記している。

秀吉の母公も同(尾張)国ゴキソ(御器所)村というところに生まれて、木下弥右衛門へ嫁ぎ、秀吉と瑞龍院(とも)を授かった。弥右衛門が亡くなったあとは後家となって、二人の子を中村で育てた。

 尾張国御器所とは、現在の名古屋市昭和区御器所の辺りのことである。平安期には土器が作られていたといわれ、木地師との関係も指摘されている。職人が集住する地であったことは、間違いないようである。弥右衛門の住む中々村とも、さほど距離が離れているわけではない。

 母「なか」以前の出自については、不明である(諸説あり)。『関白任官記』においては、秀吉の出生を皇胤説にリンクさせた説を載せているが、荒唐無稽で成り立たないことは明らかである。とはいえ、「なか」は長生きしたので、少ないとはいえ2人の父よりは、まだ史料が残っている。

 『太閤素生記』には秀吉の兄弟姉妹について、「(竹阿弥となかの再婚後)男子1人と女子1人を秀吉との種替わり(腹違い)の子として持った」との記述がある。秀吉の弟の秀長と妹の旭が該当する。

 しかし、秀長も旭も弥右衛門生存中に誕生しているので、これは明白な誤りである。2人とも、弥右衛門と「なか」との間に誕生した子である。

おわりに

 秀吉の父については経歴に謎が多く、弥右衛門も竹阿弥も織田家に仕えたとは考えにくい。秀吉が織田信長に仕えたので、織田家と縁があったかのように創作したのだろう。いずれにしても、秀吉の父は高貴な身分ではなく、貧農だった。

 秀吉の母も出自に謎が多く、後年になってあたかも朝廷に仕えたかのように創作された。それも秀吉の賤しい出自を隠すための創作で、とても事実とはいえない。

 秀吉は自ら貧しかったことを公言する一方で、賤しい出自を覆い隠すための工作を行っていた。秀吉は関白になり、天下人に上り詰めたが、自身の出自には強いコンプレックスがあったようだ。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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