大河ドラマ「べらぼう」 将軍・徳川家治の嫡男・徳川家基と松平武元の死の真相とは?

 大河ドラマ「べらぼう」第15話は「手袋が握る真相」。10代将軍・徳川家治の嫡男・家基と、老中首座・松平武元の死が描かれていました。

 家基は宝暦12年(1762)、家治とその側室・知保(蓮光院)との間に産まれます。家基は家治の長男でしたので、将来は将軍となる事が期待されていました。ところがその事が叶わなかったので、家基は「幻の11代将軍」とも呼ばれています。安永8年(1779)2月21日、家基は鷹狩りを行います。その帰りに品川の東海寺に立ち寄るのですが、そこで俄かに病となってしまうのです。江戸城に急ぎ運ばれた家基ですが、2月24日に死去してしまいます。18歳という若さでした。

 家基はよく鷹狩りを行なっており、病弱ではありませんでしたので、その死には黒い噂が立ちます。田沼意次が毒殺したのではないかとの説もありますが、意次に家基を殺害するメリットはなく、単なる風説と考えられます。ちなみにドイツの医師・博物学者で江戸時代後期に来日したフォン・シーボルトは、家基の死について異説をその著書(『日本交通貿易史』)に載せています。それによると家基は献上されたペルシャ馬に乗っている時、馬が暴れたため落馬。不幸にも亡くなったということがシーボルトの著書に記述されているのです。

 シーボルトは1823年に長崎に到着、その3年後(1826年)に江戸に参府します。家基の死から47年が経過しており、シーボルトがどのようにして家基の死因(この場合は落馬)を知ることができたかは不明です。もしかしたら、家基は落馬して亡くなったとする話が江戸で流れていたのかもしれません。

 今回の「べらぼう」では松平武元の死も描かれましたが、その死は暗殺されたように描かれました。武元は老中を約30年も勤めた大ベテランでした。武元は安永8年(1779)3月や7月にも解職を願い出ていますが、却下されています。そして同年7月25日に67歳で死去しています。状況から見て、ドラマのように暗殺された訳ではなく、病死したのでしょう。もし老中退任が許されていたら、寿命が延びていたかもしれません。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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