「私は家康公の分身である…」なぜ徳川家光はそこまで家康を求めたのか?
- 2026/05/20
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幕藩体制が確立しつつあった江戸時代前期、徳川の世を盤石にすべく3代将軍に就任したのが徳川家光です。家光は祖父・家康、父・秀忠の政治方針を継承し、大名統制や禁教政策を強化することで、長きにわたる幕政の安定期をもたらしました。
しかし家光の内面を見ると、父・秀忠に対しては複雑な感情を抱く一方、祖父の家康を神の如く敬愛していたことが伺えます。その崇敬ぶりは、自らの死後、遺骸を日光山に埋葬せよと遺言するほどでした。なぜなら日光東照宮には、東照大権現として神格化された家康が眠っているからです。
なぜ家光は生涯、これほどまでに「家康愛」を貫いたのでしょうか。彼の孤独な生い立ちと、その心のうちに秘められた真相を探ってみたいと思います。
しかし家光の内面を見ると、父・秀忠に対しては複雑な感情を抱く一方、祖父の家康を神の如く敬愛していたことが伺えます。その崇敬ぶりは、自らの死後、遺骸を日光山に埋葬せよと遺言するほどでした。なぜなら日光東照宮には、東照大権現として神格化された家康が眠っているからです。
なぜ家光は生涯、これほどまでに「家康愛」を貫いたのでしょうか。彼の孤独な生い立ちと、その心のうちに秘められた真相を探ってみたいと思います。
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両親から憎まれた竹千代…救ってくれたのは家康だった
幼少期の家光について、その様子を詳しく伝えているのが『東照大権現祝詞』と呼ばれる史料です。これによれば、家光は幼名を「竹千代」といい、誕生に合わせて稲葉ふく(のちの春日局)が乳母となり、徳川譜代の中から数名の小姓が付けられました。ところが、竹千代の幼少期は苦難に満ちたものだったようです。『東照大権現祝詞』の一節を引用してみましょう。
「そうげんいんさま、君をにくませられ、あしくおぼしめすにつき、たいとくいんさまもおなじ御事に。二しんともににくませられ、すでにそしそうりゃうをつがせられべきていになり申すところに…」
つまり、実の両親である秀忠と江は、ことさらに竹千代を憎み、後から生まれた国松(のちの徳川忠長)を将軍後継者に据えようと考えたのです。
さらに『寛永諸家系図伝』には、周囲の家臣までもが弟を優先する、陰湿な構図が記されています。
秀忠から「竹千代と国松を呼んでまいれ」と命じられた小姓が、あえて先に国松へ知らせ、竹千代には時間を置いてから知らせることが日常茶飯事だったようです。その結果、秀忠の御前へ出るのは常に国松が先となり、遅れてやってくる竹千代は、父からの心証をますます悪くしていきました。
後年、家光が自らの幼少期を振り返った際、涙がとめどなく溢れたと伝わっています。露骨な差別を受けた経験は、幼い竹千代の心に深い傷を残しました。
おそらく、こんなことがしょっちゅうだったはずで、のちに家光が自らの幼少期を語った時、涙がとめどなく溢れたそうです。普段から露骨で陰湿なイジメを受けたことで、幼い竹千代の心はひどく傷ついたのでしょう。そんな竹千代の境遇を救ったのが祖父・家康でした。
国松を次期将軍に据えるという秀忠と江の意向を知った家康は、竹千代を駿府へ呼び寄せ、自ら養育する旨を表明しています。また、亡くなる直前には「秀忠が程々の年齢になったら、竹千代に将軍職を譲るように」という遺言を残しました。
そんな家康の鶴の一声によって、ようやく竹千代が次期将軍を継ぐことになります。これまで多くの御家騒動を見てきた家康は、跡目争いを防ぐには長幼の序を重んじることが大事だと考えたのでしょう。家光は後年に次のように述べています。
「幼い頃は色々と苦労したが、東照大権現のことを深く信仰してきたから、天下も思いのままに統治できたのだ。跡目を継ぐことができたのは祖父のおかげであり、天下は祖父から拝領したようなものである」
家光にとって家康は敬愛すべき存在となり、そして終生、その思いを持ち続けたのです。
江戸城天守を建て替えた本当の理由とは
次に「城郭」という観点から、家光の家康愛について焦点を当ててみましょう。慶長11年(1606)、家康は壮大な規模の江戸城天守を創建しました(慶長度天守)。壁は漆喰で純白に仕上げられ、屋根瓦には銀の鉛瓦が用いられました。まるで雪を頂く富士山のような佇まいだったようです。ところが元和2年(1616)に家康が死去すると、2代将軍・秀忠は天守を取り壊すという不可解な行動に出ました。そして本丸御殿を拡張し、北側に設けた天守台に新たな天守を築いたのです。城郭のスクラップアンドビルドは決して珍しいことではありませんが、創建からわずか16年での建て替えは、極めて異例といえます。
おそらく過去の関ヶ原の戦い(1600)での遅参事件など、家康と秀忠の間には少なからず軋轢があったのでしょう。秀忠にとって毎日のように見る家康の天守は、きっと煙たい存在だったに違いありません。家康時代を払拭し、自らの威光を知らしめるには、新しい天守を築く必要がありました。そして秀忠の天守は元和9年(1623)に完成。こちらは元和度天守と呼ばれています。
やがて家光が3代将軍となり、秀忠が世を去ると、家光は再び江戸城天守を解体します。秀忠の建てた天守もまた、14年という短命に終わったのです。家光にとって、敬愛する家康の天守を壊されたことは、許しがたいものだったのかもしれません。家光は父の影を塗り替えるように、寛永15年(1638)、史上最大規模となる「寛永度天守」を完成させました。
その高さは石垣を含めて20階建てビルに相当し、過去の江戸城天守を凌ぐ大きさとなっています。巨大な天守を築くことで、父・秀忠の存在を否定し、敬愛する祖父・家康すら超えたいと考えたのかも知れません。
祖父の恩徳を偲んで、日光東照宮を造営する
先に述べた通り、家光にとって家康は最大の支援者でした。その恩徳に報いるため、家光は東照大権現への信仰をますます深めていきます。家康が亡くなった日と、家光の誕生日がともに17日だったことから、「自分は大権現(家康)の分身である」とすら公言しました。病弱だった家光は、何度か重い病気に罹ったのですが、奥医師の治療や投薬が功を奏さない中、家康の夢を見た時に限って必ず平癒したそうです。これを大権現の神徳であると捉えた家光は、いよいよ家康が眠る日光東照宮の大造営に乗り出します。
寛永11年(1634)に始まった造営工事には、延べ453万人もの人々が動員され、現在の価値で数百億円に相当する金56万両、米1千石もの莫大なコストが費やされました。こうして寛永13年(1636)にようやく日光東照宮が完成し、さっそく正遷宮の儀が執り行われています。また、家光自身も祭礼を執行するために日光へ社参しました。この時に用いられた舞楽の装束や楽器などが、現在も大切に保管されているそうです。
日光東照宮の造営は、家康の恩徳に報いるだけではなく、高度な政治的意図もありました。
この時期、対馬藩主・宗義成と、家老・柳川調興との訴訟騒ぎが起こり、もし騒動が大きくなれば、朝鮮との国交が断絶してしまうかも知れません。そこで家光は朝鮮通信使を謁見した上で、日光東照宮への社参を求めました。
家光の威光のみならず、大権現の神徳を知らしめることで、「日本は神国である」という安心感を植え付けたかったのでしょう。これ以降、定期的に外国人使節が社参したり、珍奇な品々を献上していることから、家光は日光東照宮を一種の外交的ツールとして利用していたのかも知れません。
終わりに
鎌倉時代の北条得宗家、室町幕府、そして江戸幕府を見てみると、不思議なことに3代目が重要なキーパーソンとなっていることがわかるでしょう。なぜならどの政権も3代目で安定期を迎えており、そこから長期政権へ繋がっているからです。もちろん家光も、敷かれたレールの上で安穏と過ごしていたわけではありません。不遇な幼少期があったにもかかわらず、自らの意思で国づくりを推し進めていきました。きっと父・秀忠を凌駕し、祖父・家康を超えたいという強い思いがあったからでしょう。
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