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「九戸政実の乱(1591年)」秀吉、天下統一への最終段階。奥州再仕置と北の精鋭・九戸軍大攻囲

帯刀コロク
 2015/08/10

豊臣秀吉の天下統一事業では、その最終段階として東北地方の統治問題への処断が行われました。 天正18(1590)年の小田原攻めで後北条氏を滅ぼし、関東の脅威を排除した秀吉は、同年「奥州仕置」あるいは「奥羽仕置」と呼ばれる東北統治体制の構築措置を行いました。

それは豊臣政権参入にあたる諸勢力の再編、そして「太閤検地」による新たな土地管理システムの施行などを伴うものでした。 しかしこれに従った勢力ばかりではなく、その過程では幾多の抵抗運動が発生しました。

「一揆」と名の付く、領民兵力を中心とした在地領主層の抗戦が多発しましたが、その最後ともいわれるのが天正19(1591)年3月に起きた「九戸政実(くのへまさざね)の乱」です。

今回はそんな、秀吉にとって天下統一を目前とした戦いについてみてみることにしましょう。

合戦の背景

「九戸政実」とは

まず、「九戸政実」とはどういった武将だったかを概観しておきましょう。

陸奥三戸(現在の青森県三戸郡)の大名「南部氏」は、拠点とした土地名から宗家を「三戸南部氏」とも呼ばれています。 南部氏にはいくつかの支族があり、「九戸氏」はそのひとつでした。

奥州仕置当時の南部氏当主は中興の祖ともいわれる「南部信直」で、九戸政実はその一族として九戸城主という立場にありました。 信直は秀吉の小田原参陣命令に従い、早い段階で旧領を安堵された東北勢力の一角でした。 しかし九戸政実はこれに反抗、南部宗家と袂を分かつことを選択しました。

戦に至る経緯

元来、南部氏は宗家・支族の連合体制のような紐帯でしたが、相続問題等での内紛を抱えていました。

奥州仕置における南部信直への秀吉朱印状は、信直の宗家としてのポジションを強化するものでもあったため、これに反発して天正18(1590)年段階ですでに南部宗家と九戸氏との間で戦闘が行われていました。

それは南部信直が奥州仕置軍の先鋒として「浅野長政」とともに従軍していた隙を狙ってのことで、亀裂が決定的となった両者の間には以後緊張関係が続くことになります。

明けて天正19(1591)年、九戸政実は恒例である宗家・三戸城への新年参賀を拒否。ここに南部氏との決別を明確にし、反攻戦に向けて動き出します。

すでに前年より東北各地では激しい一揆が頻発しており、秀吉統治体制そのものへの抵抗運動がひとつの潮流となっていました。

九戸政実の乱の要所。色塗部分は陸奥国

合戦の経過・結果

九戸政実・櫛引清長の挙兵

南部氏氏族のひとつ「四戸氏」の櫛引城主だった「櫛引清長」が政実に同調、同年3月に決起しました。

政実は5,000の兵力を動員したとされ、周辺の城館を続々攻略。同3月17日付の浅野長政代官による書状でも、九戸陣営の挙兵に強い警戒感を示す内容が報告されています。

折しも領内での一揆が重なり、南部宗家は単独での防戦継続を困難と判断。上洛して同6月9日に秀吉に謁見、援軍要請を含む東北情勢の報告を行いました。

奥州再仕置軍の派遣

南部信直の報告と東北各地の一揆頻発を重く見た秀吉は、再び奥州仕置軍を派兵することを決定します。

白河方面軍として総大将の「豊臣秀次」麾下3万および「徳川家康」の軍、仙北方面軍には前年に当地の検地を実行した「上杉景勝」と「大谷吉継」の軍が差し向けられました。

津軽方面軍には「前田利家」「前田利長」父子、相馬方面軍には「石田三成」「佐竹義重」「宇都宮国綱」らがそれぞれ配置されました。

豊臣側についた東北勢力は各将の指揮下に置かれ、「伊達政宗」「最上義光」「秋田(安東)実季」「戸沢光盛」「小野寺義道」「津軽為信」らも参陣しています。

その他の諸将を含む関東以北の豊臣兵力を大量動員した大規模部隊の編成であり、一揆勢を鎮圧しつつ北上を続け会津の「蒲生氏郷」軍や第一次仕置軍筆頭の「浅野長政」軍と合流。東北の抵抗勢力にプレッシャーをかけつつ、8月下旬には南部領至近まで進軍しました。

九戸軍との開戦は同8月23日、政実配下の「小鳥谷摂津守」が50名の少数精鋭を率い、美濃木沢(現在の岩手県二戸郡あたり)にて再仕置軍を急襲。狭隘地を利用した巧みな戦法で、500名弱に打撃を与えたといいます。

しかし兵力ではるかに勝る再仕置軍は進撃の手を緩めず、同9月1日には九戸軍の前線基地であった「姉帯城」「根反城」を攻略。 翌2日には政実が籠もる「九戸城」を、6万の兵力で包囲しました。

九戸城の戦い

政実が籠もる九戸氏の拠点「九戸城」は、現在の岩手県二戸市福岡城ノ内に所在した平山城です。 北側を白鳥川、東側を猫渕川、西側を馬淵川と、三方を河川に囲まれた堅城として知られていました。

本丸は東北地方では最古ともいわれる石垣づくりで、二の丸・三の丸に加えて空堀で区画されたいくつもの曲輪群をもつ強力な防御機構を備えたものでした。

しかし城内5,000の兵力ともいわれる九戸軍に対し、北側は「南部信直」「松前慶弘」、南側には「蒲生氏郷」「堀尾吉晴」、東側は「浅野長政」「井伊直政」、西側は東北諸将の部隊に布陣されるという四方完全攻囲の状況に追い詰められます。

この陣容からも分かるとおり、九戸城攻略の再仕置軍は豊臣方の最精鋭を過剰に投入したといっても過言ではなく、九戸軍殲滅への強硬な姿勢は他の抵抗勢力への見せしめとしての意図が含まれていたとも考えられるでしょう。

騙し討ちによる九戸軍殲滅

九戸城の守備兵のうち約半数が戦死したともされる激戦の末、再仕置軍は九戸氏菩提寺である長興寺の僧を使者に立て、全員の助命を保証したうえでの降伏勧告を行いました。

奮戦した九戸軍でしたが政実はこれを受諾、自身以下主だった将らとともに白装束という出家の姿で投降・開城の運びとなりました。しかしこの助命の約束は虚偽のものであり、農民らへの帰還命令など戦後の手続きを行った後、九戸城内の者は残らず虐殺されたといいます。

政実以下の反抗戦首謀者らも、護送途中に栗原郡三迫(現在の宮城県栗原市)でことごとく処刑されました。 圧倒的な兵力差がありながらも、騙し討ちという手段を使ってまで九戸軍を殲滅した奥州再仕置軍。 ここに、秀吉による天下統一に向けての最後の内戦が終わったと言えるのかもしれません。

戦後

この九戸政実の乱が鎮圧されて以降、大規模な反秀吉の運動が起こされることはなかったといいます。

しかし精強で知られた九戸軍の残存勢力には引き続き警戒を解かず、九戸城は蒲生氏郷の手によって城下とともに改修。南部信直がその城主となり「福岡城」と名を改めました。

信直はやがて氏郷や浅野長政らの勧めもありさらに南方に拠点を構築、これが「盛岡城」であり現在の岩手県県庁所在地の礎となりました。

まとめ

前年の奥州仕置の段階から一貫して、秀吉は抵抗勢力については「なで切り」、つまり殲滅を辞さない強硬姿勢で事にあたっています。 これは東北統治以前にも九州平定時の「肥後国人一揆」等で、兵と化した「民」の恐ろしさを熟知していたことにも起因していると考えられます。

歴史をひもとくと陰惨極まりない事実が次々と現れますが、被害拡大の阻止と戦乱の早期終結を優先した苦渋の決断であった部分も大きいのかもしれません。

善悪の評価は保留しておくとして、戦国の世が終焉を迎えるためには、このように幾多の戦いがあったことを書き留めておかなくてはなりませんね。


【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 「豊臣政権の関東・奥羽仕置 続論」『九州文化史研究所紀要 58』 中野等 2015 九州大学附属図書館付設記録資料館九州文化史資料部門
  • 「奥州仕置と東北の大名たち」『白い国の詩 569』 長谷川成一 2004 東北電力株式会社広報・地域交流部
  • 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』 1996 学習研究社
  • 二戸市ホームページ 九戸城跡

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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