「葛西大崎一揆(1590~91年)」伊達政宗が裏で糸を引いていた!?東北最大規模の一揆と大名の明暗

 豊臣秀吉の天下統一事業の総仕上げともいえる、天正18年(1590)の「奥州仕置」。東北地方の諸勢力を支配下に組み込むうえでの領土配分措置ともいえますが、恭順を示した領主ばかりではありませんでした。いわゆる「太閤検地」を中心とした新たな土地管理政策に大きく反発した勢力が、各地で大規模な一揆を起こすという事態をも招いたのです。

 なかでも東北最大規模といわれる「葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)」は天正18年(1590)から翌年まで続き、そこには伊達政宗の関与も疑われるという緊迫した事態が生じました。今回はそんな葛西大崎一揆についてみてみることにしましょう。

合戦の背景

葛西氏・大崎氏旧領の新領主・木村義清への反発

 天正18年(1590)に行われた「奥州仕置」では、同年の小田原参陣命令に応じなかった東北勢力が改易されるという処分を受けました。

 現在の宮城県北部から岩手県南部にかけての国人領主・大名であった「葛西晴信」と「大崎義隆」もその例で、両氏の旧領であった13群には豊臣家家臣「木村吉清」が新領主として配されました。しかし苛烈な徴税や葛西・大崎旧臣への冷遇、そして木村家家臣による領民への乱暴狼藉等が相次ぎ、当地では新領主への反発が高まりました。

 同年10月初旬には、大崎旧臣や年寄百姓が伝馬役を賦課されるというトラブルから100名規模の抵抗運動が起こり、一揆へと発展する予兆をはらむ事態となりました。

戦に至る経緯

 奥州仕置軍のおおむねが東北より撤収したのちの同年10月16日、現在の宮城県大崎市にあたる旧大崎領・岩手沢城(岩出山城)を旧城主「氏家吉継」の旧臣と領民が占拠するという事件が勃発しました。

 木村吉清統治体制、ひいては豊臣支配への事実上の反攻戦開始であり、これを皮切りに領内全域に一揆が拡大しました。対応を協議していた吉清嫡子「木村清久」は、移動途中の佐沼城(現在の宮城県登米市)において一揆勢に包囲され、救援に駆け付けた吉清とともに当城に閉鎖されるという状況に陥ります。

 一揆勢は領内の寺地城(木村清久が新城主)および名生城を奪還、『伊達家文書』の記述によると一時一揆勢が旧領の統治権を回復したとしています。

 奥州仕置軍解散後、筆頭の「浅野長政」は京への帰還途中に滞在していた奥州「白河城」でこの報に接しました。ただちに「二本松城」へと移動、「蒲生氏郷」および「伊達政宗」に木村吉清・清久父子の救出作戦を命じます。

 同年10月26日、氏郷と政宗は伊達領「下草城」で作戦行動を協議。11月16日より両軍による一揆勢鎮圧作戦を開始する旨を決定しました。

政宗の一揆扇動疑惑

 ところが作戦開始前日の11月15日、政宗家臣「須田伯耆」が氏郷の陣に来訪し、今回の一揆を扇動したのが政宗であるという密告を行いました。

 政宗の書記官ともいえる祐筆の「曾根四郎助」も、証拠となる政宗の密書を持参して同様の訴えを行いました。政宗軍の戦闘行動は空砲を使用した虚偽のものであるなどの情報も錯綜し、当初予定の16日に氏郷軍単独で名生城を攻略。秀吉に宛てて政宗に対する疑惑を含む状況報告を行い、名生城の防備を固めて一揆勢の攻撃および、政宗陣営との不測の事態に備える構えを示しました。

 氏郷からの報告を受けた秀吉はただちに「石田三成」を現地へと派遣。一方で、一揆扇動疑惑の当事者である政宗も独自に作戦行動を実施します。領内の高清水城・宮沢城を奪還、同月24日には佐沼城を包囲する一揆勢を撃退し、籠城していた木村父子を救出するという働きをみせます。

 政宗は氏郷が守る名生城へと木村父子を送り届けますが、依然として氏郷の警戒心が解かれることはありませんでした。その証拠のひとつとして、帰還途次の安全保証として政宗に人質を差し出すよう要求しています。

 政宗はこれに応じ、重臣の「伊達成実」および叔父にあたる「国分盛重」の2人を差し向けましたが、氏郷は名生城での籠城を続け、そのまま越年することになりました。

葛西大崎一揆の要所マップ。色塗部分は陸奥国。青マーカーは仕置軍、赤は一揆軍の城

合戦の経過・結果

政宗の弁明と再派遣

 翌天正19年(1591)正月、政宗からの人質を受領した氏郷は名生城を進発し会津へと帰還します。同10日、相馬領に到着した石田三成がもたらした秀吉からの上洛命令に従い、氏郷・政宗・木村父子は京へと向かいます。

2月4日には一揆扇動の事実関係について政宗への聴取・査問が行われますが、密書は偽造されたものであるという証拠を提示し、秀吉がこれを承認。

 政宗は再び一揆鎮圧の任務を授けられ、同6月14日に出陣します。6月25日には加美郡・宮崎城を、7月3日には佐沼城を再攻略、翌4日には寺池城を落としますがその間にも一揆勢との激戦により、幾人もの重臣を含む大きな損害を出しています。

 政宗は翌5日に登米城攻略を計画していましたが、その直前に一揆勢は降伏を表明。ここに葛西大崎一揆はようやくの終息を迎えました。

 戦後には一揆首謀者である20名が処刑されるという厳しい処断がなされましたが、これらは秀吉朱印状で検地に反対するものは「なで切り」、すなわち皆殺しにするようにという強硬姿勢も影響していると考えられます。

 ただし仙台藩の伝承ではこれを豊臣秀次の命令としている一方、蒲生氏郷への人質となった伊達成実の『伊達成実記』では「一揆勢はだまし討ちにされた」という旨の記述がなされ、真相は定かではありません。

 その後も当地の有力者層への粛清が続き、同年12月には葛西氏親族で伊達氏ともつながりの深かった小野城主・長江勝景が殺害されています。

 当該地域の前領主であった「大崎義隆」は、実はこの前年に秀吉に対して小田原参陣命令無視を謝罪し、減封のうえ旧領の3分の1を回復されるという処遇を受けていました。しかし一連の一揆の責任を問われ、朱印状は白紙撤回、大名への復帰は実現しませんでした。一説にはその後上杉の家臣になったといい、会津で亡くなったとされています。


戦後

 葛西大崎一揆の直接の原因を誘発した木村吉清はその責任を追及されて改易。以降は蒲生氏郷のもとに身を寄せたとされています。

 葛西・大崎の領地を代わりに拝領したのが伊達政宗でしたが、結果としては加増ではなく減転封という処分となります。前年の奥州仕置で減封された分よりさらにペナルティを加えられ、その差分の旧領は蒲生氏郷に与えられました。

 この処分は政宗による一揆扇動の疑いが表面的に晴らされたものの、実際には直接関与していたものと考えられたため、とされています。奥州仕置での減封分の補填のため、自演的に一揆を起こさせて木村吉清の失脚を企図し、その領地を入手しようとしたというのが大まかな筋書きです。

 一揆首謀者らの徹底粛清は証拠隠滅のためという説まであり、政宗への厳しい処断を鑑みると秀吉側も一揆扇動を事実と認識していた節がうかがえます。

 葛西大崎一揆はこのように不透明な謀略の臭いと、大きな傷跡を残した凄惨な戦いとなったのでした。

おわりに

 国人領主層ばかりでなく「民」の大きな反発を招き、多大な犠牲を強いながら遂行された秀吉の天下統一事業。この葛西大崎一揆を含む、度重なる抵抗運動の発生がその証拠のひとつですが、一方では長きにわたる戦乱に終止符を打ったという評価も同時代人がくだしていました。

 出羽国北部の大名で常陸宍戸藩初代藩主「安東(秋田)実季」は、群雄割拠して対立状態が長期間続いていた東北地方に秀吉が平和をもたらしたと後に回顧したといいます。

 現代的な意味において事の是非そのものの評価は難しいとしても、最終的な戦国終焉のためにいくつもの苦渋の決断を繰り返したことは、歴史が伝えるとおりなのでしょうね。




【主な参考文献】
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 小和田 哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』 2006 吉川弘文館
  • 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』 1996 学習研究社

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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