「平時子(二位尼)」安徳天皇と神器を抱いて壇ノ浦に身を投げた平清盛の正室

平時子(二位尼)の浮世絵(歌川芳艶画。wikipediaより)
平時子(二位尼)の浮世絵(歌川芳艶画。wikipediaより)
平時子(たいらのときこ。二位尼/にいのあま)は平清盛の正室で、高倉天皇の皇后となった平徳子の生母です。徳子が安徳天皇を生んだことで時子は天皇の外祖母となり、平家は一時期全国の半分近い知行国を手に入れて栄華を極めました。しかしその時も長くは続かず、清盛の死後平家は衰退し、一門は壇ノ浦に散りました。

時子といえば『平家物語』に描かれた最期が有名で、むしろそれ以外はあまり注目されてこなかった人物です。近年、時子の異母妹である建春門院(平滋子)の政治的役割が注目されています。後白河院最愛の人であったという建春門院は、姉の夫である清盛と後白河院の間をうまく取り持っただけでなく、院の不在時には政治の代行をも行っていたことがわかっています。建春門院がただ院に愛された人ではなかったように、時子もただ身勝手に幼帝と入水した人ではありませんでした。

堂上平氏出身

平時子は、大治元(1126)年に平時信の娘として生まれました。同じ「平氏」でも、武家の伊勢平氏であった清盛らの一族とは違い、忠信は桓武平氏高棟流の堂上平氏(清涼殿へ昇殿を許される)の家柄で、鳥羽院の近臣でした。この家は「日記(にき)の家」と呼ばれ、一族は代々の記録を伝えています。時信も『時信記(じしんき)』という日記を残していて、その役割は有職故実を記録し伝えることにありました。

『尊卑分脈』によれば時子は時信次男の親宗と同母(大膳大夫藤家範女)とありますが、時子が生きた同時代の史料『吉記(きっき)』(吉田経房の日記)は時子の弟・時忠と同母(二条大宮半物)としています。はっきりとはしませんが、ずいぶん後の時代(南北朝期)になって編纂された『尊卑分脈』よりは同時代の『吉記』のほうが信憑性は高いでしょう。「半物(はしたもの)」とは、特別賤しくもないものの、身分が高くもない女房(女官)のことです。時子の母は二条大宮(令子内親王。白河院の第三皇女で、鳥羽院の准母)のもとで働いていた召使いであったようです。

時子の異母妹の滋子(しげこ)の母は権中納言藤原顕頼の娘・祐子で、こちらは名前がわかっているくらい身分のある人物です。母の身分の差はあっても姉妹の関係は良好で、時子のほかの弟妹たちのほとんどがそうであったように、清盛とその一門を支える存在であり続けます。

清盛の継室として

清盛と時子の間に生まれたはじめての子・宗盛は久安3(1147)年に生まれています。時子がいつ清盛の妻となったかはっきりとした時期は不明ですが、宗盛の生まれた年から考えて久安元年、2年ごろであろうといわれています。

清盛にとって、時子は二人目の正室でした。最初の正室・高階基章女は重盛・基盛を生んで、早くに亡くなったと考えられています。つまり時子は先妻の子がいる相手と結婚したわけで、その状況は奇しくも清盛の義母・池禅尼(宗子)と共通していました。池禅尼もまた、清盛の父・忠盛が清盛の母を亡くしてから迎えた正室でした。

清盛は忠盛の長男ではありましたが、母の出自ははっきりせず(白河院寵妃の祇園女御の妹ともいわれる)、さらには忠盛の実子ではなく白河院の落胤とまことしやかにささやかれていたほどで、忠盛の後継者として平家の棟梁になると決まっていたわけではありませんでした。すぐ下の弟・家盛(池禅尼の子)が早世しなければ、もしかすると家盛が棟梁になっていたかもしれません。

池禅尼の子・頼盛は清盛とある程度距離をとる立場で、平家滅亡後も頼朝に厚遇されて生き延びましたが、平家滅亡の時まで完全に一門が分裂してしまうことがなかったのは、池禅尼の力が大きかったと思われます。

たとえば保元の乱の時、天皇家、摂関家、武家それぞれ親兄弟が敵味方に分かれて戦うことになり、後白河方として戦った清盛は崇徳方として戦った叔父の忠正を自ら処刑することになりました。この戦いでは、当初頼盛も崇徳方につくはずでした。母の池禅尼が崇徳院の子・重仁親王の乳母であった関係から、崇徳院に近い立場であったためです。しかし、僧侶慈円による歴史書『愚管抄』によれば、池禅尼は崇徳院が敗れると読んで「兄の清盛につくように」と命じたのです。これにより、兄弟対立による一門分裂の危機を回避しました。

池禅尼自身、出自も定かでない清盛を棟梁とすることに内心思うことはあったと想像しますが、それでも彼女が清盛を立てたからこそ、子の頼盛も兄と争うことなく、一門はまとまっていられたのだと思われます。

時子はこの義理の母の振る舞いを学んで参考にしたのかもしれません。清盛の嫡男として後継者になったのは先妻の子・重盛でした。時子は重盛を疎むようなこともなく、むしろ異母妹の坊門殿を重盛の側室として、清盛の跡を継ぐ次代の棟梁との結びつきを強めていました。

天皇の外祖母

時子と池禅尼には、親類の人脈が平家の躍進の一助となったという共通点もあります。池禅尼の場合、鳥羽院第一の寵臣といわれた藤原家成が従兄弟であったことから、鳥羽院やその寵妃・美福門院らとのつながりを持っていました。その人脈を生かして夫・忠盛は鳥羽院制下で昇進していったのです。

時子の場合は、異母妹の滋子が後白河院の寵妃となったことで院との太いパイプを得ました。上西門院(じょうさいもんいん。後白河院の妹)に仕えていた滋子はその美しさから後白河院に見染められて寵を得、憲仁親王(のちの高倉天皇)を生み、女御、皇太后へ、ついには上皇に準ずる女院・建春門院になりました。

時子と清盛の第一子・宗盛は建春門院の猶子となってスピード出世し、清盛と後白河院の関係も建春門院が潤滑油の役割を果たすことでうまくいっていました。

そして最たるものが、清盛と時子の娘・徳子の入内です。清盛はすでに太政大臣まで昇った立派な貴族であったものの、皇女でも藤原氏の娘でもない平氏の娘が入内して中宮になるというのは例がないことで、高倉天皇の生母である建春門院の協力がなければきっとなしえなかったでしょう。

建春門院のおかげもあって徳子は承安元(1171)年にまず後白河院の猶子となって女御宣下を受け入内。翌年に立后し、高倉天皇の中宮となりました。この時高倉天皇はまだ数え年11歳であったこともあって、徳子が懐妊したのは入内から7年目のことでした。治承2(1178)年11月12日、待望の皇子(言仁親王/ことひと)が生まれ、翌月には立太子、そして数え年3歳で即位し、安徳天皇となりました。

清盛の死と平家衰退

皇子の誕生から即位まで、この時は平家一門にとって最高の時でしたが、その陰ですでに綻びが生じていました。後白河院との調整役を担っていた建春門院が、安徳天皇誕生を前に亡くなっていたのです。建春門院を失うと清盛と後白河院はあっという間に関係を悪化させ、治承3(1179)年には清盛が後白河院政を停止、安徳天皇を即位させ、高倉院政が始まりました。

同じころ、同年7月に摂関家の近衛基実の正室として夫亡き後膨大な遺領を相続していた盛子(清盛の娘)が亡くなりました。清盛の同年のクーデターは、この膨大な遺領を後白河院に没収されたことも一因となりました。また、閏7月に清盛嫡男の重盛が病死。一門の中でも重要な人物が相次いで亡くなり、そして養和元(1181)年閏2月4日、清盛が熱病で亡くなってしまいました。

その後は源頼朝、木曾義仲、源義経といった源氏との戦いの末に平家は滅亡することになるのですが、どこかのタイミングで和平を結んでいればあのような終わり方にはならなかったのかもしれません。清盛の死後、宗盛を棟梁とした平家が意地でも源氏と戦い続けたのは、「墓前に頼朝の首を」という清盛の遺言のためであったとか。『平家物語』では、時子が「すこしもののおぼえさせ給ふ時、仰せおけ」と遺言はないかたずね、それに対して清盛が頼朝の首をはねて墓前に供えろ、それこそ供養になる、と言ったとあります。

この描かれ方について高松百香氏は注目し、遺言を受ける行為は遺言の内容を証明・代行する存在で、中世には夫の死後に「後家」が家政を取り仕切ったように、中世のはじまりである清盛の時代にも妻の時子が遺言代行者とみなされていたと述べられています(『「平家物語」の時代を生きた女性たち』第一章 平清盛をとりまく女性たち2 平時子――「平家」を作り上げ、終わらせた清盛の正室――)。後家として政に関わった人物といえば頼朝の正室・北条政子ですが、時子に関するこの描写は鎌倉時代以前の正室の役割を示すひとつの例になりました。

『平家物語』は軍記物語ですから、実際に時子が遺言を受けたどうかはわかりません。ただここで史実かどうかは関係なく、当時は正室が遺言代行者になるものであり、時子がそういう役割を持つ人として「書かれた」ことが重要です。

平家の最後、時子の意地

元暦2(1185)年の壇ノ浦で平家の敗北が決定的になると、平家の人々は次々と海に身を投げていきました。『平家物語』によれば、時子は「浪の下にも都のさぶらふぞ(波の下にも都はございますよ)」と腕に抱いた幼い安徳天皇を慰め、神璽と宝剣を持って入水したとされています。この後に女房や安徳生母の徳子が続きましたが、ろくな重石もなく飛び込んだ徳子は源氏方に引き上げられてしまい、生き延びました。

『平家物語』の最後は、出家してさびれた寺で暮らす徳子を後白河院が訪ね、院と対面した徳子が語る灌頂巻で締めくくられます。その中で徳子は、時子が「男のいきのこらむ事は、千万が一つもありがたし。設ひ又遠きゆかりは、おのづからいき残りたりといふとも、我等が後世をとぶらはん事もありがたし。昔より女はころさぬならひなれば、いかにもしてながらへて、主上の後世をもとぶらひ参らせ、我等が後生をもたすけ給へ(男が生き残ることは千万に一つも難しい。遠い親類縁者が生き残ったとしても、私たちを弔うこともないでしょう。昔から女は殺さないならいだから、あなたは生き延びて帝の後世の冥福をお弔い申し上げ、私たちの後生も助けてください)」(『平家物語』灌頂巻より)と言っていたと語ります。

時子の言うとおり敗れて生き残った女性が殺されることはありません。しかしそれを知っていながら、時子はなぜ入水したのか。もちろん、源氏はこの時は先帝となっていた安徳天皇を無事に京へ戻すつもりでいたので、安徳天皇が殺されるはずもありません。それでも安徳天皇、神器を抱いて身を投げた理由は何だったのか。

争いに巻き込んだ末に天皇の地位も失ってしまった幼い天皇に、みじめな人生を送らせたくはないという思いもあったでしょう。敗れた天皇というと安徳天皇の前には崇徳院、後には後鳥羽院、順徳天皇が思い浮かびますが、いずれも配流先でむなしく亡くなっています。

幼い孫の行く末を案じる思いとは別に、このまま帝と神器を返して後白河院や源氏の思うようにはさせたくないという意地もあったのではないかと想像します。都落ちした時点では、帝と神器をもつ平家に正当性がありました。しかし後白河院は神器がないまま後鳥羽天皇を即位させてしまった。時子は最後になけなしの意地で、神器を渡さないことを選んだのではないでしょうか。安徳天皇と神器と一緒に死ぬことで、正当な皇統をここで途絶えさせてやるという気持ちで。帝と神器があれば、どこであれそこが都です。「波の下にも都がある」というのもあながち間違いではないように思います。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
  • 『世界大百科事典』(平凡社)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 服藤早苗編著『「平家物語」の時代を生きた女性たち』(小径社、2013年)
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(45) 平家物語(1)』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。
  • 校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集(46) 平家物語(2)』(小学館、1994年)※本文中の引用はこれに拠る。

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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