「藤堂平助」新選組八番隊長…彼はなぜ新選組を離脱したのか
- 2023/05/10
藤堂平助は新選組の結成メンバーとして、さまざまな活躍をしながら、のちに新選組を抜けた人物だ。江戸試衛館で同じ釜の飯を食っていた仲間たちを残して、彼は新選組を離れた。藤堂の生きようとした道が、いつの頃からか新選組とたがえてしまっていた。それはなぜなのか。
藤堂は何を目指していたのだろうか。そして、彼が最期に見た景色は? 新選組の魁先生とも呼ばれた藤堂平助の生涯を追いながら、その人物像に迫ってみた。
藤堂は何を目指していたのだろうか。そして、彼が最期に見た景色は? 新選組の魁先生とも呼ばれた藤堂平助の生涯を追いながら、その人物像に迫ってみた。
平助は御落胤?
藤堂平助は弘化元・天保15年(1844)、武蔵の国で生まれ、のち江戸へ移ったとされている。正式な姓名は、藤堂平助宜虎(よしとら・のぶとら)。出自については、諸説あるが、どうやら藤堂家の御落胤(ごらくいん)らしい。永倉新八が残した『同志連名記』に「藤堂和泉守落胤」と記されているほか、薩摩島津家の家臣が残した『京師騒動見聞雑記録』にも「和泉守妾腹の末子とやらの噂のものに御座候由・・・」と書かれている。
藤堂和泉守は、伊勢国津藩第十一代藩主・藤堂高猷(たかゆき)という人物のことだ。『京師騒動見聞雑記』には「至って美男士の由御座候」と続いていることからも、藤堂平助の姿かたちは、おそらく藤堂家のDNAを受け継いでいるかのような清々しい美丈夫だったのだろう。
また、『維新階梯雑誌』では「平之丞妾腹 惣領ノ由 藤堂平助 十九」と記載されている。平之丞とは、湯島三丁目に住んでいた5000石の旗本・藤堂秉之丞のことで、藤堂平助は秉之丞の妾の子だったという。
どの藤堂の御落胤なのかは、定かではないが、とにかく藤堂平助は、御落胤だったことには間違いなさそうだ。
平助、剣術を始める
藤堂は、北辰一刀流開祖・千葉周作の道場である玄武館の門弟となり、十代半ばで目録を取得したとされている。その後、のちの新選組参謀である伊東甲子太郎の道場へも出入りしている。近藤勇の試衛館道場へ入門したのは、この後のことだ。
近藤勇との出会い
試衛館には、なぜか剣客が集まってくる。道場主である近藤勇の人柄がさせたことなのか、よほど居心地が良かったのか。この当時の試衛館には、内弟子の沖田総司、井上源三郎以外にも、近藤と同じ多摩出身の土方歳三や、永倉新八、山南敬助、原田左之助らがいた。どのような経緯かはわからないが、藤堂は試衛館道場に入門した。ほかの仲間とともに衣食を共にするようになり、やがて代稽古を任されるまでとなっている。激しい稽古のかたわら、若い彼らは時勢についても話し合っていたのだろうか。
新選組結成へ
文久3年(1863)2月。藤堂は、試衛館の仲間と共に幕府による浪士組に参加する。浪士組とは、清河八郎が幕府に建白し、上洛する第十四代将軍・徳川家茂を警護するために募集されたものだ。しかし、清河に家茂の警護などさらさらする気はなかった。京へ到着するや否や、清河は天皇のもとで攘夷決行するために動き出す。朝廷へ建白書を出し、江戸での攘夷を決行するために、浪士組は江戸へ戻ることになった。
だが、あくまで家茂警護の役目を全うするとして京に残った浪士がいた。近藤勇以下試衛館の面々と、水戸脱藩浪士・芹沢鴨一派だった。
彼らは京都守護職会津藩主・松平容保へ嘆願書を送り、会津お預かり・壬生浪士組となる。のちの新選組である。もちろん藤堂もこの中にいる。
会津容保公上覧試合
文久3年(1863)4月16日。壬生浪士組は黒谷金戒光明寺の会津藩邸にいた。松平容保公の御前において、武術の披露をするためだ。藤堂は土方歳三とともに、一番手として剣術の試合を行っている。勝敗は記録に残っていないが、美男で知られた土方歳三と、若き御落胤である藤堂の姿は、まさに一幅の絵画のようだったろうと妄想・・・いや想像できる。
以後、藤堂は壬生浪士組、のち新選組の八番隊長として市中取り締まりの隊務に励んでいたはずだが、記録としてはほとんど残っていない。
ただ、藤堂には「魁(さきがけ)先生」というあだ名があった。戦闘の時は、いつも先頭で斬り込んでいたことから名づけられたらしい。これは新選組の隊務を命がけで遂行しようとする覚悟があったからではないかと考える。
池田屋事件
元治元年(1864)6月5日。祇園祭宵山の京において、一大事件が起こる。新選組の名を一躍有名にした池田屋事件だ。6月5日未明、四条縄手にあった炭商・枡谷喜右衛門(ますやきえもん)こと古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)という浪士が捕縛される。新選組屯所へ連行された古高は、激しい拷問を受け、過激浪士のとんでもない計画を自白した。
「6月20日前後の、風の強い日を狙い、御所に火を放つ。混乱に紛れて帝(孝明天皇)を長州へ連れ帰り、会津藩主松平容保を誅殺する」
新選組は、すぐに会津藩へ連絡をしたうえで、大規模な浪士探索を開始する。そして・・・夜10時過ぎ。近藤勇、沖田総司、永倉新八とともに、20数名の浪士たちが会合をしていた池田屋へ突入した藤堂は、死闘を繰り広げていた。
永倉新八によると、藤堂は永倉とともに、池田屋の表座敷、縁側に控えていたという。奮闘を続ける藤堂だったが、あまりの蒸し暑さに鉢金を外したところを、斬りつけられた。
永倉は、
「垣根の側から飛び出してきた長州人と思しき浪士に、眉間を斬られ、目に血が入って非常に難儀し、その上刀も刃こぼれしていたため、藤堂の加勢をした」
と残している。
藤堂は、大変な重傷を負い、一時は生死の境をさまよったようだが、無事回復した。
伊東甲子太郎と平助
池田屋での傷が癒えた頃、藤堂は江戸へ向かっている。新選組隊士の補充をするためだ。近藤は「兵は東国に限る」と言って、藤堂に江戸での隊士募集の前触れを任せた。藤堂が江戸へ下ったひと月後の元治元年(1864)9月には、近藤、永倉らが江戸へやってきた。近藤は、試衛館で伊東甲子太郎と面談をしている。平助は、剣術の師匠である伊東甲子太郎を勧誘していたのだ。
『新撰組顛末記』では、藤堂は伊東甲子太郎に近藤暗殺という考えを打ち明けている。曰く
「近藤とともに京において勤王の志を遂げようと考えていたが、近藤は幕府の爪牙(手足)となり下がった。これでは勤王の志を遂げることなどできない。そこで近藤が江戸へ戻ってきたところで、彼を暗殺し、勤王の心熱き先生(伊東)に新選組の隊長となっていただきたい。そして、新選組を勤皇党に改めたいと考えている」
伊東は、藤堂の考えに驚きながらも同意したという。
しかし、この時点で永倉が藤堂から近藤暗殺という言葉を聞いたとは考えにくい。そもそも永倉は、伊東と藤堂との話し合いの席にはいない。それにまだ新選組に入隊を決めていない伊東に、そこまで突っ込んだ話をすることは、さすがにないだろう。実際には、藤堂が伊東に新選組の改革を依頼したという程度だったのではないか。
こうして伊東甲子太郎と彼の門人たちは、新選組に入隊するが、平助は、引き続き江戸で隊士募集の任に当たっていた。
高台寺党
藤堂平助が、京へ戻ってきた時期については、明確な資料はなく、次に彼の名が出てくるのは、慶応3年(1867)年3月、伊東甲子太郎一派が新選組から離脱するときである。藤堂は、試衛館以来の仲間と別れ、伊東たちとともに御陵衛士(ごりょうえじ)となる。御陵衛士とは、前年に崩御した孝明天皇の御陵を守る役目を担った組織のことで、屯所を高台寺塔頭月真院に置いたことから「高台寺党」とも呼ばれている。
御陵衛士での藤堂の主な仕事として残っているのは、
- 美濃の侠客・水野弥太郎から、農兵数百人を組織化して軍隊にするという計画と金銭的な援助を受けるという約束を取り付けたこと
- 伊東・斎藤一・鈴木三樹三郎らとの連名で、長州の処分への寛大な沙汰を求める建白書を幕府に提出したこと
などである。
藤堂は、勤王の志士として自らの道を進み始めていた。彼は己の新しい出発に心を躍らせながら走っていた。
ちなみに、ここで登場している斎藤一は、新選組側のスパイとして潜入していた新選組隊士で、会津戦争まで土方と行動を共にし、明治を生き延び、大正4年(1915)に亡くなっている。
油小路の惨劇
慶応3年(1867)年11月18日夜。油小路七条付近で伊東甲子太郎が暗殺される。近藤勇の妾宅からの帰路だった。新選組最後の内部抗争、いわゆる「油小路事件」である。一報を聞いた御陵衛士は、伊東の遺体を取り返すべく、油小路へ駆けつけた。藤堂は、ほかの御陵衛士とともに伊東の遺体を籠に乗せた。その瞬間、藤堂は背中に熱い衝撃を受ける。
永倉によると、藤堂に斬りつけたのは三浦常三郎という隊士だった。藤堂は振り向いたところを、顔面を真っ向切りにされ、ほぼ即死状態だったらしい。
『新撰組顛末記』では、永倉が藤堂を逃がそうとしたところで、三浦が背後から藤堂を斬ったとある。しかし、この話はあまりにもできすぎなのでおそらくは、永倉の記憶違いか、編者の介入があったのではないかと考えられる。ただ永倉は、近藤から藤堂がいたら命を助けてやるようにと言われていたことは本当のようだ。
だが藤堂は助かることはなかった。享年23歳。あまりにも若い、早すぎる死だった。
藤堂平助は、京都東山の御寺泉涌寺塔頭・戒光寺に眠っている。油小路で共に凶刃に倒れた伊東甲子太郎・服部武雄、毛利有之助らとともに、同寺院内にある御月輪陵の孝明天皇を守り続けている。
あとがき
剣術の流派というものは、とても強いつながりを作るらしい。藤堂平助は、元々は北辰一刀流だ。藤堂が新選組を離れる前に、隊を脱走して切腹した山南敬助(試衛館同志)も北辰一刀流である。新選組局長だった芹沢鴨を暗殺するメンバーに、新選組随一の剣の使い手である永倉新八が入っていなかったのも、芹沢と同じ神道無念流だったからだという説もあるほどだ。同じ試衛館の仲間でも、剣の流派の違いは、目に見えない溝を作っていたのかもしれない。
新選組が有名になっていくにつれ、近藤が増長していったことも、藤堂が近藤から離れた大きな原因だったと考えられる。浪士組として京へやってきたとき、藤堂は、「近藤さんとなら共に志を遂げられる」と思っていたはずだ。しかし、新選組の進む道は、藤堂が考えていた道とは大きく離れていった。
信頼していた近藤も、ただの幕府の犬と変貌してしまう。ここに至って、試衛館天然理心流と北辰一刀流藤堂平助との溝は、もう修復できないほど深くなったのかもしれない。彼は同じ北辰一刀流の師匠である伊東甲子太郎のもとへ行った。
魁先生・藤堂平助は、おのれの生きる道へまっすぐに突っ込み、その真っすぐさゆえに、早すぎる死を迎えたのだと、私は考える。
【主な参考文献】
- 永倉新八『新撰組顛末記』(中経出版、2009年)
- 木村幸比古『新選組日記』(PHP研究所、2003年)
- 前田政記『新選組全隊士徹底ガイド』(河出書房新社、2004年)
- 伊東成郎・菊池明・結喜しはや『土方歳三と新選組10人の組長』(新人物往来社、2012年)
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