「どうする家康」『徳川実紀』『三河物語』が記す関ヶ原合戦…西軍はなぜ東軍に敗れたのか

関ケ原古戦場 開戦地
関ケ原古戦場 開戦地

 大河ドラマ「どうする家康」第43話は「関ヶ原の戦い」。「どうする家康」最大の見せ場であろう、関ヶ原の戦いが描かれました。

 慶長5年(1600)9月1日、徳川家康は、上方で挙兵した石田三成ら西軍を打ち破るべく、江戸を出立します。その直前、徳川家臣の石川家成(石川数正の叔父)は家康を諌めたようです(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書『徳川実紀』)。

石川家成:「今日は、西塞であり、兵書(兵法書)によると、出陣は重い禁忌。出立を延期すべきです」

 ところが家康は

家康:「西が塞がれている故、私は東より行きて、これを開くのだ」

と反論し、軍馬を進めたとのこと。9月11日には、熱田に到着した家康軍。そこに参上したのが、先発していた藤堂高虎でした。高虎は小山(栃木県小山市)にある時、家康に

藤堂高虎:「この度、先陣を承った諸将は、皆、豊臣恩顧の者たち。一時の義により(家康に)味方したとも考えられる。心中は測りがたし。私が報せるまでは、江戸を御出馬あるべからず」

と言上したといいます。しかし、豊臣系諸将が西軍の織田秀信(信長の孫)が籠る岐阜城を早々に陥落(8月23日)させたことから、高虎は「早々に御出馬あるべし」と家康に申し上げたとのこと(『徳川実紀』)。

 9月11日、清須城に到着した家康は、同月14日には美濃国赤坂(岐阜県大垣市)に着陣。そして、同日には岡山(大垣市)に本陣を置きます。

 一方、石田三成らは大垣城にありましたが、突如、家康の大軍が姿を現したことに驚き「城中狼狽」したとされます。「味方」である南宮山の毛利秀元、松尾山の小早川秀秋らを支えるべく、夜中、三成らは大垣城から関ヶ原に向かうのでした。

 そして、9月15日。「敵味方二十万に近き」大軍が関ヶ原に陣取り、合戦となるのです(関ヶ原の合戦)。しかし、ご存知のように、戦いは、徳川方(東軍)の勝利に終わります。

  • 「上方の勢(西軍)は、軍将の指揮も思い思いで、はかばかしくない」
  • 「剛なる徳川方の将卒にきり立てられたこと」
  • 「味方のはずの小早川秀秋らが裏切ったこと」
『徳川実紀』

 『徳川実紀』は上述のように、西軍の敗因を分析しています。石田三成は戦場より逃亡するも、捕縛され、10月1日、刑場の露と消えました。

 『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)は、三成方が家康軍が到着するまでに合戦を仕掛けていたならば、西軍は勝利していたのではないかと推測しています。西軍は、時を逸したというのです。そして、小早川秀秋の裏切りで、西軍は壊滅したと記されています。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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