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  • 室町幕府
 2018/12/13

信長に敗れた後の足利義昭の流浪のルートを追う!

元亀4年(1573年)、将軍足利義昭は二条御所を出て槙島城に移り、織田信長に対して挙兵しました。しかしおよそ7万の兵に囲まれ、あっという間に降伏開城。その後京都を追われてからも打倒信長を誓いながら各地を転々としていった義昭。

はたして将軍義昭は誰を頼り、どのようなルートを辿っていったのでしょうか?
今回は信長に敗れた後の義昭の流浪のルートについてお伝えしていきます。
(文=ろひもと 理穂)

京都より若狭へ

なぜ信長は義昭を滅ぼさなかったのか?

親子、兄弟同士であっても生き残るために殺し合うのが戦国時代の文化です。下剋上のために主君を裏切り、殺害することも決して珍しいことではありません。それは室町幕府の長である将軍といえども同様です。実際に、六代目将軍である足利義教や、十三代目将軍である足利義輝の二人は、臣下に命を取られています。

反信長連合の旗印のような存在である義昭が、信長に逆らい挙兵して降伏することになったにも関わらず、信長が義昭に切腹させなかったのはどのような理由があったからなのでしょうか?

信長は義昭の降伏の条件として、槙島城明け渡し、義昭の京都追放の他にもうひとつ、義昭の子である義尋を人質として引き渡すように要求しています。こうして明らかに義昭は負けを認めたことになり、それは全国に広まることになります。一般的にはここで室町幕府が滅亡したことになっているのです。

さらに信長は朝廷に改元を願い出て、1573年7月28日より「天正」と改元されました。信長にとってはそれで充分だったのでしょう。将軍である義昭を殺してしまうと世間の非難を浴びることになり、逆に連合側の結束を固める危険性もあります。むしろ戦略面に疎い義昭が生きて連合側をまとめようと必死になった方が、弱体化させられると考えたのかもしれません。

もはや将軍義昭は信長の脅威ではなくなっていたのです。

なぜ義昭は若狭へ向かったのか?

同年7月19日に降伏した義昭は、7月21日には若狭城に入ります。斡旋したのは、本願寺光佐(顕如)だったようです。義昭は槙島城を出た後、枇杷庄で一泊し、翌日は河内交野郡津田城に入ります。落ち武者狩りの危機に遭いながらも、命からがら若狭城に移ることになるのです。義昭は貧乏公方と嘲笑されたという記録も残されています。

なぜ義昭は若狭城に入ったのでしょうか?
城主は三好義継です。畿内に覇を唱えた三好長慶から家督を継いだ三好家当主になります。義継は、実は義昭の兄である将軍義輝を殺害した主要メンバーのひとりなのですが、信長と義昭が上洛してからは服従し、信長の仲介で義昭の妹を娶っていました。つまり義継は義昭の妹婿という関係にあったのです。

義昭が信長に反発するのに合わせて、義継もまた反信長連合に加担するようになります。義昭が京都を追放された後、若狭城の義継を頼ったのは当然の流れだったのではないでしょうか。

しかし、義昭を匿った義継は、信長の標的となっていきます。

若狭から堺へ

義昭が頼りにしていた毛利家の動向

同年7月、8月と、義昭は若狭城から頻繁に西の強国・毛利氏に御内書を遣わしています。武田信玄朝倉義景本願寺顕如浅井長政らと手を結び、上洛して信長を倒してほしいと依頼したのです。4月に信玄は死去していましたが、その情報を義昭が入手したのはかなり後のことだったようです。ちなみに8月には朝倉氏も浅井氏も信長に滅ぼされています。

毛利氏としては信長と全面的に争う姿勢はなかったようです。むしろ義昭が帰京できるようにと信長に頼んでいます。この交渉で活躍したのは朝山日乗でした。日乗は信長から義昭帰京の承諾を得ることに成功します。

ただ、それに納得しなかったのが当の義昭でした。義昭は信長の勢力が駆逐された京都に帰ることを望んでいたからです。信長が支配する京都に戻っても、将軍としての権威はまったく再興できないとわかっていたのでしょう。

義昭帰京の交渉の場となった堺

信長が許可をしても、義昭が納得しないので周囲はかなり困ったことになります。秀吉は堺で義昭を迎え、説得を試みます。この場には日乗の他、毛利氏の代表として安国時恵瓊もいましたが、説得は失敗に終わりました。

義昭が帰京する条件として、信長から人質を出すよう要求したためです。秀吉は呆れかえって大坂に帰ってしまいました。秀吉は「さっさとここから好きなところに行ってしまわれるがいい」と言い捨てて行ったといいます。しかし恵瓊としても義昭を毛利氏に迎え入れ、信長と敵対することは許されません。そこは恵瓊も正直に義昭に話をしたようです。

ちなみに、義昭が若狭城から堺に移ったのは11月5日のことです。義昭がいなくなった若狭城はすぐに信長に攻められ、義継は滅ぼされています。

堺から由良へ

一端は由良に落ち着く

恵瓊は西国に義昭を連れて帰るわけにもいかず、紀伊の由良へ義昭を誘導することになります。義昭は二十人ほどの供を従え、小舟に乗って紀伊に渡り、由良の興国寺に滞在することになりました。その頃には、若狭城主だった義弟の義継はすでに切腹して果てています。

義昭はここからおよそ二年間、興国寺で打倒信長を画策し続けました。その間、信長はもはや義昭など眼中に無かったようで、ほとんど話題にも出さず、放置しています。義昭は上杉謙信を中心として、武田氏、徳川氏、北条氏、島津氏などに御内書を遣わし、和睦や義昭上洛に協力するように依頼しています。

信長は一進一退を繰り返しながらも、着実に勢力を拡大し、伊勢長島の一向一揆を殲滅、さらに長篠の戦いで武田氏を叩きました。そして義昭の官位である従三位征夷大将軍兼権大納言に並び、従三位権大納言に叙任されることになります。

御内書がまったく書かれなくなった空白の期間

ただし、義昭は1574年(天正2年)4月を最後にして、御内書を書いていません。信長が官位で義昭に並ぶのは1575年(天正3年)11月のことですから、それ以前に、義昭は今の立場では御内書を方々に遣わしてもあまり効果がないことを悟ったのかもしれません。

だからといって打倒信長を諦めたわけではなく、毛利氏に対し下向したいという希望を何度も伝えていたようです。毛利氏の影響力を利用することで、自分の存在感を高めることができると考えたのでしょう。しかし毛利氏側は、信長の許可を得てからと返答し濁してきました。

1576年(天正4年)2月、義昭はついに強行策に出ます。毛利氏の勢力下にある備後に向かうことを決め、毛利氏の許可を得ずに勝手に由良を後にしてしまったのです。こうなると毛利氏としても受け入れざるを得ない状況となります。

同年4月、義昭はようやく備後の鞆に到着しました。ここが流浪のルートのゴールの地になります。

まとめ

どんどんと居場所を失っていく義昭と対称的に、信長は天下人の階段を着実に登っていっています。しかし、それでも義昭は諦めずになおも食い下がりました。毛利氏の後ろ盾を得ることができ、義昭は再び活性化するのです。

利用価値も無くなり、脅威でも無くなった義昭に対し、信長はまったく興味を示さなくなっています。それよりもはるか未来に信長の目は向けられていたからでしょう。

この期に及んで、義昭の上洛に協力しようと考えている人たちはどのくらいいたのでしょうか? もしかすると本気で考えていたのは義昭ただひとりだけだったのかもしれません。



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