戦国時代の人々の生と死とは 武士から農民まで

 「戦国時代」と聞いて私たちがイメージするものは、なんでしょうか?

 たとえば合戦、領地の奪取・奪還、謀略など……。権力を手にした名将であっても、部下から裏切られたり。低い身分の出自であっても、成りあがることができたり。今よりも時勢が安定しない時代であったことがうかがえます。

 そんな時代の人々にとって、「生と死」とはどのようなものだったのでしょう。武士や農民たちはどのように生き、死と向き合っていたのか、気になります。

 今回は、戦国時代の生と死への考え方について、歴史をひもといてみたいと思います。

戦国時代の人口

 戦国時代といえば、下剋上と富国強兵。また、度重なる飢饉や水害、疫病などにも悩まされる時代でもありました。こうした印象から、戦国時代は人口が大幅に減少したのではないかと考える人もいるでしょう。

 当時は検地によって石高の記録は行われていたものの、書式や範囲が統一されておらず、当時の全国人口がどのように推移していたかを正確に知ることはできません。

 16世紀末の全国人口は、当時の石高から人口を推計する方式では1800万人、石高によらない人口増加パターンによる推計では1000~1200万人とされます。

 平安時代の全国人口が700万人よりも下回っていたことを考えると、人口は明らかに増えていますね。これは、本来はそれよりもっと増大していたはずの人口が、飢饉や災害などにより大幅に減少したとも考えられるかもしれません。

 人口増大の理由としては、戦国大名による領地支配が強化されたこと、朝廷の力が失われたことによる市場経済の始まりなど、複数の要因が考えられます。

 また、当時は戦乱も多く、不安定な時代だったことから、新しい宗教が各地で発展し、人々の心の支えとなったことにも注目しておきましょう。

農民の生と死

 戦国時代は小氷期とされ、天候が不安定であったことから、前項で述べたように飢饉や災害が頻繁に起こりました。こうした事態は、当時の農民たちの目にどのように映っていたのでしょうか。

災害や合戦に翻弄される農民の生

 応永27年(1420)には大旱魃(かんばつ/長期にわたる水不足)が起きて農作物に被害を与え、応永の飢饉を引き起こし、餓死者が続出しています。また、天文4年(1535)には日照りの日が10ヶ月も続くなど、毎年のように旱魃が起きていました。

 その上、治水対策が万全ではなかった時期には洪水も多く記録されており、応永34年(1427)には京都で5回もの洪水が起きたとされます。

 この頃には飢饉や災害が起きた年には年貢を減らすことが一般的になっていましたが、それでも農民たちの要求が通らない時は、自ら領主に訴えることも多々ありました。また農民が田畑を捨てて、他の領地や山林などに逃げ込むという逃散(ちょうさん)をしたり、各国の農民たちが一揆をおこして都市部へ侵入したことも…。

 当時、奈良時代から続いた荘園制度が崩壊したことで、農民たちは自治や自衛を行うようになり、それが結果的に農民としての力を強めていったとも考えられますね。

 天正16年(1588)に豊臣秀吉が刀狩りをした背景には、このように武装した農民たちの強固な団結力や行動力が、守護大名にとって脅威となっていたという理由があります。生きるのに厳しい時代であっても、農民たちは自らを奮い立たせて権力に立ち向かっていたのでした。

 武力での解決は決して正しいことではないと個人的には思いますが、そこまでしなければ親類縁者や村もろとも餓死してしまうという時代に、こうした農民たちの戦いがあったことを忘れてはいけないように思います。

 次は、農民たちの死に対する観念について見てみましょう。

農民たちと死の距離感

 農民たちのお葬式は、簡素なものだったと考えられています。

 戦国時代のあと、江戸幕府において檀家制度が始まってからは庶民でもお葬式が広まるようになりましたが、そもそもそれ以前は葬式を行っておらず、風葬や火葬、水葬などによって自然のままに放置していたとする説もあります。豪華なお葬式ができなかったとしても、親しい人や家族との別れは悲しいものです。

 兼好法師(卜部兼好/吉田兼好)が鎌倉時代末期に著した『徒然草』は、その先進的ともいえる死生観に大きな特徴があります。

 『徒然草』第百三十七段においては

「京都には多くの人が住んでいるが、誰も死なない日はあるはずがなく、(中略)葬送する死者の数が多い日はあるけれど、死者がいない日はない」

と書かれており、この時代にも亡くなる人は多かったということが示されています。そしてこの段の最後には、

「死というものは、人間がどこに暮らしていようと、確実に襲いかかってくるのであって、山奥の草庵暮らしといえども、死に直面している点では、武士が戦場を突き進んでゆくのと同じであって、変わることはないのだ」

と説かれています。

 これは兼好法師の鋭い観察眼と想像力から生まれた名文と感じられますが、同時に、戦国時代では今よりも死が日常にまとわりついていたことがうかがえますね。

武士の生き方に沿う仏教

 農民たちが死と隣り合わせの日常を送っていた戦国時代、武士や大名にとってもそれは同じでした。

 武士の死に対する心構えは、以下の記事にも語られているとおり、命をかけた美学によるもの。


 しかも、いくさで人の命を奪う大名や武士たちは、仏教の教えによると地獄へ行くことが決まっています。

 その最も軽いものが、八大地獄の第一、等活地獄(とうかつじごく)です。殺生を犯した者が落ちるとされ、ここに落ちた人は鉄の爪で殺し合い、鬼によって肉体を切り刻まれても涼風が吹くと生き返るという責め苦を受けます。

等活地獄の様子(『往生要集』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
等活地獄の様子(『往生要集』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 これは平安時代に比叡山の僧侶だった恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が『往生要集(おうじょうようしゅう)』によって説いた地獄の姿ですが、恵心は同じ書において極楽浄土の素晴らしさを説き、念仏によって来世は極楽浄土へ生まれ変わるとしました。

寿命を迎えた際、阿弥陀如来などの聖衆が来迎する姿(『往生要集 』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
寿命を迎えた際、阿弥陀如来などの聖衆が来迎する姿(『往生要集 』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
極楽浄土において蓮華の花から生まれ変わる姿(『往生要集 』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
極楽浄土において蓮華の花から生まれ変わる姿(『往生要集 』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 このような仏教的思想は鎌倉時代において浄土宗・浄土真宗・禅宗・日蓮宗・時宗といった新宗教の興りにともない、戦国時代には広く信じられていました。

 加えて、真言宗・高野山(こうやさん/和歌山県)を拠点として説法してまわった高野聖(こうやひじり)、熊野三山(和歌山県)の信仰を広めた熊野比丘尼(くまのびくに)など、各地において活動する宗教者たちが多く存在しています。

 また、鎌倉時代から戦国時代にかけては、武士たちの入道(にゅうどう/仏門に入ること)が多く行われました。有名な武将で言うと、武田信玄や上杉謙信、島津義久などが挙げられますね。

 それは単なる引退の意思表示か、はたまた地獄への恐れか、浄土往生を願う心のあらわれだったのでしょうか。もしくは仏の加護を受けることで、更なる力を求めたのでしょうか。

 入道の理由が判然としない武将もおり、もちろん千差万別ですが、生前に戒名を得ることによって、新たな生き方を模索するという意味合いもあるように思われます。

多くの武士の魂が眠る聖地・高野山

 戦乱の時代を生きた武士たち。そのお墓がずらりと並ぶ不思議な場所が、高野山の奥之院にあります。

 高野山の奥之院とは、真言宗の開祖である弘法大師空海が入定(にゅうじょう/永遠の瞑想に入ること)している御廟を中心とした聖地で、「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として平成16年(2004)にユネスコの世界遺産へ登録されました。

 ここには20万基をこえる墓石群とともに、110家にもおよぶ大名家のお墓があり、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、石田三成、明智光秀、豊臣一族、織田信長など、そうそうたるメンバーが集っています。

 しかし、武将たちのお墓は高野山だけでなく、各地の菩提寺などにもありますよね。なぜ、高野山にはこんなに多くのお墓が集まっているのでしょう。

 高野山への納骨や建墓という流れが始まったのは、平安時代末期とされています。その背景には高野聖などによって説かれた高野山信仰があり、弘法大師が入定する際に「弥勒慈尊の御前に仕え、五十億余年ののち、必ず慈尊とともに下生(げしょう/この世に出現して人々を救うこと)せん」と伝えたことにあると考えられています。

 高野山の膨大な数のお墓に眠る人々は、今も弘法大師とともに弥勒菩薩の出現を待っているのかもしれません。


おわりに

 天候が乱れ、人の心も大いに乱れた戦乱の世。徳川家康が江戸幕府を開く直前、慶長5年(1600)頃の寿命は、30歳程度だったと推定されます。

 平均寿命が男女ともに80歳を超えている現代(厚生労働省『簡易生命表』令和4年)からすると、はるかに短い寿命と言わざるをえません。ですが、そこには確かに、日本人の礎である精神世界が存在していました。当時書かれた『徒然草』にも、400年以上後の現代に通じるところが多くあります。

 弥勒菩薩の出現には、まだまだ気の遠くなるような年月が必要ですが、何十億年という長さから見ると、数百年は一瞬のようなものかもしれませんね。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

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