牛乳と日本人 明治文明開化、飲んでみりゃ美味いが臭いがなぁ
- 2024/11/14
牛が家畜として日本列島に持ち込まれたのは古墳時代のようです。そのころは仏教の禁忌などありませんから、腹の足しになる物として牛乳も飲んでいたのでしょうね。その後も日本では一部の人間が牛乳を飲み続けましたが、この習慣が一般にも広まったのは明治時代、しかし最初はやはり敬遠されたようです。
実は王朝時代には貴族が愛飲していた
研究者によっては聖徳太子も牛乳を飲んでいたと言う人も居ますが、史料によると日本人で最初に牛乳を飲んだのは7世紀中頃の孝徳天皇とされます。渡来人の善那使主(ぜんなのおみ)と言う者が薬として献上しました。常温で遠くへは運べませんから、都の近くで飼われていた牝牛から搾ったものでしょう。その後も王朝貴族たちが酪や蘇・醍醐などの乳製品と共に味わい、諸国からの貢納品として生産体制や朝廷の受け入れ態勢も整えられましたが、貴族政治の終わりと共にこの習慣も消えて行きます。
鎌倉・室町・戦国・江戸時代にも飲む人は飲んでいたようですが、一般的になるには明治の文明開化を待たねばなりませんでした。
異人さんの必需品牛乳
幕末・明治になり、多くの外国人が日本にやって来るようになると、彼らは食事の必需品として牛乳を求めるようになります。搾乳用の牛が居ない当時の日本、外国人は農耕用の牝牛を連れてこさせ、乳の搾り方を教えて牛乳にありつきました。安政4年(1857)、捕鯨船アンテリヨー号に乗って箱館にやって来たアメリカ人・ライスも、この方法でようやく牛乳が飲めました。
伊豆の下田にやって来たアメリカ総領事ハリスは病に倒れた時、身の回りの世話をしているお吉の献身的な看護を受けます。牛乳を求めるハリスのために、お吉は近くの馬込村の百姓に頼み込み、ようやく手に入れた牛乳をハリスに飲ませます。ハリスは非常に喜び、病気も良くなりました。
お吉の話ははっきりしませんが、ハリスが牛乳を飲んで回復したのは確かなようです。その後、横浜の寺に泊まるようになった外国領事たちのため、寺では牛を飼って搾乳夫も置き、牛乳を提供するようになります。これに先立ってやって来た黒船ペリーは牛乳にはありつけませんでしたが。
牛乳は良いものらしい
日本で暮らす外国人が増えるにつれ、牛乳の需要も高まってきます。オランダ人を名乗るスネル兄弟は、目聡く横浜居留地の前田橋のたもとで牛を飼い、牛乳の販売を始めます。そこにやって来たのが仕事を求めて千葉から出て来た百姓の前田留吉です。彼は外国人が好む牛乳はいずれ日本人にも広がると考え、スネルの店に入り込み、牛の飼育法と搾乳法を学びます。
慶応2年(1866)には横浜大田町に牧場を造り、和牛6頭を飼って搾乳と牛乳販売を始めました。この店もご多分に漏れず、最初は日本人の拒否反応に会います。
「四つ足の乳なぞ飲めば角が生えてくる」
「留吉は外国の回し者で牛乳には毒が入れてある」
などですが、留吉は乳を貰えない赤ん坊や病人に「良いものだから」と売って廻り、毒など無い事を証明し3年でようやく商売になりました。
著名人も搾乳業に参戦
明治になると、新政府は外国人と渡り合えるよう日本人の体格向上が急務だと考え、畜産業を奨励し牛乳や乳製品を増産しようとします。榎本武揚・山県有朋・大久保利通・副島種臣など有名処も率先して搾乳業に参入。禄を失った武士が搾乳業を始めることが多かったので、彼らを応援しようとしたようです。当時の牛乳は加熱殺菌処理もされていない搾ったままの生乳ですが、日本人の体格向上を願って明治天皇が模範を示そうと牛乳を飲まれます。明治4年(1871)11月から天皇が日に2回牛乳を飲まれるとの新聞報道がされると、世間の見方も変わって来ます。供される牛乳は天皇が飲まれるのですから間違いがあってはなりません。千代田区雉子橋の御厩跡に出来た勧農役邸で飼育された牛から搾られた牛乳でした。
徐々に広がる牛乳を飲む習慣
政府の旗振りもあり、牛乳は次第に一般にも受け入れられていきます。「牛乳は毎日1合ばかり飲むべし。倹約に努めるにしても7日間に1度は飲むべし」
この頃、評判の料理書『西洋料理指南』にも上記のようにあり、明治5年(1872)には京都府が「牛乳は内を養い、石鹸は外を潔くする。大いに養生に功あるもの」との牛乳愛飲の勧誘文をわざわざ出しています。
やがて家庭向けの各戸配達も始まり、明治11年(1878)には牛乳の配達にはブリキ缶を使用することが定められます。薄い鉄板に錫を被覆したブリキは江戸時代にオランダ人によって伝えられていましたが、高価なのであまり普及しませんでした。明治に入ると耐久性にすぐれたブリキは、缶詰缶や玩具・バケツなどあらゆる用途に使われます。
このころの牛乳配達人は襟に「牛乳」と染め出された紺色の半纏(はんてん)を着て、大きなブリキ缶をぶら下げ、とっくりのような小型のブリキ缶に小分けして各家に配達して回りました。若い男が配達することが多く、紺色の半纏に股引姿が時代の最先端の職業として粋だと評判を取ったとか。家庭では牛乳の匂い消しにコーヒーを混ぜて飲むことが多かったようです。
おわりに
やがて牛乳や軽食を提供する「ミルクホール」なるものが繁華街に店を開きます。明治30年(1897)に東京神田に出来たのが最初で、エプロン姿の女給のサービスも相まって今風の洒落た店として大いにはやります。また、官報や新聞・雑誌などを置き、それらが自由に読める新聞縦覧所としても重宝されました。【主な参考文献】
- 上野川修一/編集「ミルクの事典」朝倉書店/2009年
- 鳥越一朗「おもしろ文明開化百一話」ユニプラン/2018年
- 江原絢子「近代日本の乳食文化」中央法規出版/2019年
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