越中富山の薬売りはいつ頃から始まった? 「売薬と言えば富山」のワケ
- 2025/06/25

「越中富山の反魂丹 鼻くそ丸めて万金丹 それを飲む奴ぁあんぽんたん」
こんな戯れ歌がありますが、ここに歌われたのは富山の薬売り”売薬さん” 。彼らの実態はどのようなものだったのでしょうか。
こんな戯れ歌がありますが、ここに歌われたのは富山の薬売り”売薬さん” 。彼らの実態はどのようなものだったのでしょうか。
始まりは藩主が取り出した霊薬
薬を専門に扱う商売自体は室町時代には存在したようですが、富山の薬売りはいつごろ始まったのでしょうか。これには1つのお話があります。富山藩二代藩主・前田正甫(まえだ まさとし、1649~1706年)、この人は本藩加賀藩の前田利常の孫ですが、元禄3年(1690)に江戸城へ参勤していた時、三春の城主・秋田河内守が突然の腹痛に脂汗を流して苦しみ出します。
折よく居合わせた正甫が印籠より薬を取り出して飲ませたところ、たちまち回復。その様子を見ていた大名たちは霊験あらたかな霊薬と驚き、何を飲ませたのかを尋ねます。
正甫:「この薬は死者の魂も甦るという反魂丹。我が藩では備前の名医より調合を伝授してもらい、今では多くの薬種商が調合しています」
と答えました。居合わせた大名たちは是非自分の国でも売ってくれるよう頼み込み、正甫は承知したと伝わります。
お話の真偽はともかく、正甫は本草学に興味を持ち、自らも薬の調合を研究していました。16世紀中頃に富山では、中国渡来人を中心に薬の材料を扱う組合ができており、藩の財政改革を目指して産業振興を奨励していた正甫は製薬業を1つの柱にしようと考えます。

富山の薬売りの誕生
富山に戻った正甫はさっそく薬種商の松井屋源右衛門らを呼び出し、薬の諸国販売を話します。これを聞いた源右衛門たちは反魂丹だけではなく、食当たりに効く熊胆丸(ゆうたんがん)や腹痛を治める奇応丸など、6種類の薬を用意して、まず正甫が頼まれた大名の国へ売りに行くことにしました。売人の元締めには元武士の八重崎屋源六を命じます。最初売り歩いたのは数えるほどの藩でしたが、薬売りたちはこの商機を見逃しません。売り先の藩の周りの土地にも売って回りましたし、途中の道筋でも商いに励みます。薬というのはこのような行商に持って来いの品物でした。
少量でも高価、持ち運びも簡単で時間が経ってもそれほど品質は変わりません。道中に危険は付き物ですが、体力勝負の仕事でもありません。正甫が頼まれた藩は秋田の久保田藩や鹿児島の薩摩藩、宮崎の延岡藩など全国に散らばっていましたが、富山が日本のほぼ中心に位置しているのも助かりました。
扱う薬も最初は胃腸薬でしたが、売り先に頭痛薬や傷薬・目薬などを求められ、その要望を国許へ持ち帰り、薬種商に伝えて調合させます。こうして薬種も徐々に増やしていきました。
このように最初は細々とはじまった富山の売薬さんですが、日本海からの北風に晒され、厳しい富山の風土になんとか産業を興したいとの代々の藩主の努力で、他の競合地域を押さえ「売薬と言えば富山」と言われるまでになったのです。
最盛期は戦前
このお話のように富山の薬売りが誕生したのは江戸時代ですが、一番活躍したのは昭和戦前のころです。昭和17年(1942)には富山の薬売りは14160人もおり、日本中の家庭数百万戸に薬を置いていたようです。このころには奈良や滋賀・佐賀などの売人と「新懸け配置(あらがけはいち)」、つまり新しい得意先の開拓競争も厳しくなっており、ここなら良いだろうと訪れた家にも5袋・10袋の薬袋がすでに吊るしてあったとか。
販売の方法は良く知られている置き薬方式です。まず得意先に薬を届けて次に回って来た時に使った分だけの代金を頂戴し、新しい薬と入れ替える。この方式を「先用後利(せんようこうり)」と言うそうです。
そのころは同じ一家が同じ場所に住み続けることが多く、売薬さんは同じ家に何十年も通い詰めました。祖父から父親・子供と販売先を引き継ぎ、販売先も五代目・六代目と家主が変わっても同じように売薬さんを迎え入れます。逆に言えば、しょっちゅう住人が入れ替わっては成り立たない商売です。
売薬さんは販売先への売掛帳「懸場帳(かけばちょう)」を持つと、帳主となり、一人前となります。懸場帳の範囲が広く、一人では回り切れないときは、売り子の若い衆を5~6人、多い時は20~30人と雇います。
売薬さんの出で立ち
薬売りと聞いて、どんな出で立ちを思い浮かべるでしょうか? 一般に街を流しながら商品を売り歩く者は、人目を引くような派手な服装をします。江戸時代には南蛮人の格好をして唐人飴を売った者、明治・大正年間に軍帽をかぶり、軍服姿で手風琴などを奏でながら「オイチニ…オイチニ…」と号令をかけたオイチニ売薬、明治中頃には「女ながらも国のため」と歌いながら看護婦の衣装を着て薬を売り歩いた者など様々です。
それに比べて富山の売薬さんは、昭和初期まで角帯に股引・手甲・脚絆、色は紺色が基本といたって地味なものでした。しかしこれが逆に商品に自信を持っている富山の売薬さんのステータスだったのです。

売薬さんは薬箱の他、旅の携行品として、まず大切な得意先の帳面、それに算盤や矢立てを柳行李(やなぎごうり)に入れて持って歩きました。算盤はケースの端に縦横10個、計100個の穴が拵えてあり、丸薬をバラで売る時にこの穴に流し入れて数えました。
また、矢立は管の部分が60cmほどあるものを作らせ、護身用の脇差代わりに帯に挿して歩いたりします。他にも燭台までついた大箱のマッチ箱ぐらいのお厨子や、得意先に薬臭いと言われないように、紙に包んだ麝香を持って行く人もいました。

昔の旅には危険がつき物です。売薬さんの旅立ちには親戚・近所へあいさつ回りをし、前日には「立ち振る舞い」と言って赤飯を炊き、尾頭付きの鯛で祝って旅の無事を祈ります。逆に帰宅時には、妻の里から鯛が届けられ、帰宅すると草鞋履きのまま近所へ無事の挨拶に回ります。その後、親戚なども招いて「脚絆抜き(はばきぬき)」の改まった祝宴を開き、無事の帰宅を喜びました。
1度出かければ4~5ヶ月はかかる薬売りの旅はそれほどのものでした。
おわりに
草深い山里まで足を運んでくれる売薬さんは、村人にとって他の地域の話を聞かせてくれる大切な情報源です。また、子供たちには土産物を持ってきてくれる楽しい人です。代表的な土産物は、紙風船や千代紙など、嵩張らず軽いもの。大人向きには針や塗り箸・盃で、針は昔は富山の氷見で日本の針の70%を生産していました。この針を5本ほど紙に包んだものを渡すと「売薬さんの針は丈夫で良い」と喜ばれたとか。
【主な参考文献】
- 林屋辰三郎『日本人の知恵』(中央公論新社、1973年)
- 玉川信明『反魂丹の文化史 越中富山の薬売り』(社会評論社、2005年)
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