日本最初の本屋さん 江戸時代になり、新たに出現した出版事業
- 2025/06/05

2025年のNHK大河ドラマの主人公となり、脚光を浴びている蔦屋重三郎。吉原に本屋を開いたのを出発点に、お江戸のメディア王と呼ばれるまでに上り詰めた重三郎ですが、日本最初の本屋さんは彼が開いたのではありません。
本屋が商売として成立するには
紙・印刷術・火薬・羅針盤。これらは中国が誇る四大発明ですが、このうち印刷技術が日本に伝わったのは6世紀の中頃遣唐使を通じてです。宝亀3年(772)に印刷された法隆寺の『百万塔陀羅尼』が、制作年代のはっきりしている世界最古の印刷物とされます。初期の印刷物はほとんどが大寺院の工房で印刷された仏教書でした。やがて『源氏物語』や『竹取物語』など、その他の書物もこれらの印刷技術や写本により、何人もが読めるようになります。しかし本屋さんは出来ませんでした。なぜか?本屋が商売として成り立つには、もっともっと多くの人が文字を読めて、なおかつ読書を楽しみ、本を買うのにお金を払えるようになる必要があったためです。
日本で書物が代金を取って販売されたのは17世紀ごろになってからです。文禄5年(1596)に儒学者で医師・軍学者であった小瀬甫庵(おぜほあん)の中国の逸話集『蒙求(もうぎゅう)』の販売や、慶長8年(1603)の京都の医師である富春堂・五十川了庵(いそかわりょうあん)の『太平記』の出版を待たねばなりません。ただ、両者とも上層階級に属しており、商売としての販売ではありませんでした。
本屋新七
町人による商売としての本屋が店開きし、本の印刷・販売を手掛けたのは、慶長14年(1609)京都室町通に店開きした本屋新七(ほんやしんしち)が始まりとされます。最初に扱ったのは、漢代から宋代までの古詩や文辞を集めた『古文真宝(こぶんしんぽう)』でした。面白いのは新七が「本屋」を越後屋や淀屋と同じ “屋号” として使っていた事です。最初はこのように固有名詞であった「本屋」ですが、一目瞭然で何を扱っているかわかる便利な屋号として、新七以降、“本屋何某” を名乗る書店が続出します。やがて八百屋・魚屋と同じ普通名詞になって行きました。
新七の店は成功したようで元和・寛永年間にかけて新しい本屋が続々と開店し、寛永年間(1624~44)には、京都の本屋は40軒を超えます。日本最初の出版文化は都である京都の町衆の手で作られました。京都での本屋の成功は、おなじく文化・消費都市である大坂や江戸へ伝わり、寛文年間から大坂と江戸の出版活動も活発に動き出します。
元禄7年(1694)には京都で “本屋仲間(書店組合)” が結成され、享保6年(1721)には江戸で、享保8年には大坂で同様の組合が発足、三都の出版業者組合は幕府から公認されます。
当時の本屋の店先
『本屋安兵衛店引札』なるものが残っています。“引札”とは現代のチラシの事ですが、木版刷りの1枚もので、客や店の者で大賑わいの店先風景と宣伝文句が多色刷りで刷られたなかなか凝ったものです。文面はまず、
「大坂道頓堀日本橋南詰東江入南側 松栄堂本屋安兵衛」
と所在地と店名を丁寧に案内します。その次には次のように営業品目を書き出します。
「よろず本類・絵草紙類・錦絵類、その他色々卸しどころ」
さらに憚りながらと口上と宣伝文へ移ります。時候の挨拶を述べた後、
「商いいたしますのは諸本類・草紙、そのほか当時錦絵類・江戸歌類・新内本類・祭文の類、はやり歌の類、端唄の類にいたるまで残らず揃えてございます。何に依らず他所かたより商品は吟味し、値段も格別に働きますので(安くしますので)」
と続きます。
添えられた挿絵には和綴じで平積みにされた本が畳や板床に所狭しと並べられ、軒先には書名のビラや「大安売り」のビラが下がります。奥には帳場が見え、客は座敷に上がったり框に腰かけて書店員と話をしながら本を選びました。この本屋の “座売り” は地方では明治時代まで続き、
「あの本を見せておくれ」
「あの本はいささか難しゅうございます。こちらの方が読みやすいでしょう」
といった会話などが交わされました。かなり広い店構えで店員も丁寧に応対していたようです。
この引札を丁稚や小僧が市中の武家や商家・髪結い床などへ配って歩き、宣伝に努めました。
その頃の本屋の業務、本のお値段
現在、本屋さんといえば店先に本をずらりと並べての小売り専門店を思い浮かべますが、江戸時代の本屋は書籍さえ売っていれば良いと言うものではありませんでした。まずどのような本を作るのかを考えるところから始まり、書き手は誰にするか、版木を彫る職人の手配・摺師の手配・用紙の購入・製本と、現在の印刷工場が行う仕事も全てこなさねばなりません。他の本屋が出版した本も売れば、中国から輸入した唐本も扱います。時には貸本屋も兼ねたり古本も売り買いしたりと、およそ出版物に関する作業のすべてをこなすのが江戸の本屋でした。

ではこれらの本はいくらぐらいで売られたのか?一口に本と言ってもピンキリですが、庶民が良く手にした草草紙と言われる赤本・黒本・黄表紙の類は1冊六文です。一両が銀一匁3200円とすると、銅貨の一文はおよそ50円なので1冊300円ほどです。
“よみうり” 俗にいう “瓦版” は、1枚もので四文(200円)、錦絵も色数の多い上等の物は三十二文(1600円)、安いものだと十六文(800円)から売っていたそうです。当時、二八蕎麦と言われた掛蕎麦が十六文でしたので蕎麦一杯分です。案外安いと言ってよいでしょう。この手軽さが書物の大衆化の原動力となります。
なぜ安くできたかと言うと、初期の草双紙だと1冊は10ページほどしかなく、用紙も漉き返しと言われた再生紙を使っていたからです。これらの本は千部以上、多い場合は一万部以上も刷り、薄利多売を狙いました。もっとも“物之本”と言われるお堅い学術書などは数冊セットになっており、用紙も吟味、平均で銀七・五匁から八・五匁もして24000円から27200円ほど、と大工の稼ぎ1日半ぐらいに相当しました。
おわりに
出版業は江戸時代の初めに成立した業種です。生産・流通過程のまったく新しい事業で、それまで印刷という工程はあっても営利事業ではありませんでした。出版業はこれまで人手による写本で残されていた書物の目ぼしいものを、ほぼすべて印刷による書物に置き換えました。おかげで知的蓄積物の身分的・地域的・経済的な拡大が一気に進みます。【主な参考文献】
- 今田洋三『江戸の本屋さん 近世文化史の側面』(平凡社、2009年)
- 清水文吉『本は流れる 出版流通機構の成立史』(日本エディタースクール出版部、1991年)
- 川井良介/編『出版メディア入門』(日本評論社、2012年)
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