一橋治済(徳川治済) ”天下の楽に先んじて楽しむ”黒幕の実態はサイコパス?

一橋治済の肖像(出典:wikipedia)
一橋治済の肖像(出典:wikipedia)
 一橋治済(ひとつばし はるさだ、1751~1827)は御三卿の一つである一橋家の当主であり、第11代将軍・徳川家斉の実父です。江戸幕府の黒幕として君臨したという一橋治済。彼は具体的にどんなことをしたのでしょうか?その実態と巷間に流れる噂を描いてみましょう。

将軍の実父となる

 10代将軍・徳川家治の時代、次期将軍として期待されていた家治の長男・徳川家基(いえもと)は数え18歳という若さで急逝、将軍家の跡継ぎがいなくなってしまいます。

 かつて8代徳川吉宗は、将軍家と徳川御三家(紀伊・尾張・水戸)に世継ぎがいなくなった場合に備え、世継ぎ人材をプールしておく制度として、御三卿(田安・一橋・清水の三家)を作っていました。それがさっそく役に立つことになります。

 家基の急逝時、ちょうど年齢的に元服前の男子がいたのは一橋家と田安家でした。一橋治済は、息子の豊千代を将軍家の世継ぎにするべく、田沼意次とともに活動を開始。西の丸御殿に入った豊千代は元服して「徳川家斉」と称し、名実ともに将軍職後継者としての地位を獲得することになります。

 この後継者指名は決して的外れではありません。一橋治済は徳川吉宗の直系の孫にあたりますから、むしろ正当性の高いものでした。

    徳川吉宗(8代)
┏━━┳━━┫
宗尹 宗武 家重(9代)
┃  ┏━━┫
治済 重好 家治(10代)
┃     ┃
家斉(11代) 家基

家慶(12代)

家定(13代)

※参考:一橋治済と徳川将軍家の略系図

 そして家治が天明7年(1787)に死去すると、家斉が11代将軍の座に付きます。つまり、一橋治済は「将軍の実父」ということになり、まだ15歳という幼年だった第11代将軍・徳川家斉の補佐をするという名目で、黒幕として影で幕政を支配するようになるのです。

巷間に流れる噂

 一橋治済について、よく言われるのが「天下の楽に先んじて楽しむ」という豪奢な生活を送っていたということです。

 それはそうでしょう。実質的に幕政を支配しているのですから怖いものなしです。しかも幕府の倹約や増収を図っていた田沼意次を家斉擁立の時には手を組みながら、家斉が将軍になった際には、権力を利用して幕政から排除しています。田沼時代の終焉は一橋治済によってもたらされたのです。

 幸い、田沼意次の打った政策は次世代にも継続されたので、幕府経済としてはとりあえず安泰でした。しかし一橋治済は田沼の後釜として松平定信を据えます。ご存じのように、松平定信は「寛政の改革」という新しい改革を進めますが、途中で一橋治済によって解任されてしまい、改革は頓挫しました。その理由は、一橋治済が「大御所になりたい」というのを松平定信が拒否したから、と言われています。

 かように好き勝手なことをしていたと思われる一橋治済ですが、人物像に関する正確な記録はなく、巷間には色々な人物像が流布されています。その1つにサイコパス説があります。

 よく知られていますが、徳川家斉は歴代将軍の中で最も子だくさんで、実に53人の子女(男子26人・女子27人)をもうけています。この中で成人したのは約半数の28人ですが、一部の子女は治済によって毒殺されたという説があります。あまりにも多すぎるので少し間引きをしたというのです。

 実際に調べてみると、成人できなかった25人の子女の死亡年齢はほぼ2歳~3歳。当時の「7つまでは神のうち」と呼ばれた幼児死亡率の高かった時代としては、あり得る範囲内ですから不自然な感じはしません。しかし徳川将軍家に「毒殺」という噂が流れ始めるのは11代家斉からなのです。

 12代将軍・徳川家慶には14男13女の子女がいましたが、成人したのは四男で身体に障害があった家定、ただ一人でした。その家定は、家斉の家に招かれても食事には一切手を付けず、江戸城内でも自分の手作りのおやつ以外は口にしなかったと伝わります。これは家定が世継ぎ争いから兄弟間の毒殺合戦になってしまったことを知っていたと推察されるのです。また、14代将軍・徳川家茂の死因は、現在でも毒殺説が囁かれています。

 つまり、家治の代までは影も形もなかった「毒殺」という言葉が、家斉の時代以降にやたらと出てくるようになるのですが、その方法を持ち込んだのが一橋治済では?と疑われている訳です。なんの確証もないですが、正確な人物像を伝える資料が何もない以上、逆にこういった噂が出ても否定もできません。

 確かに、幕政を支配しながら好き勝手な豪奢な生活をしていた点から見て、相当に自分勝手な人物だとは言えそうです。ただ、サイコパスの毒殺魔であったかどうかはわからないのが実情です。

 徳川家基の急逝も、一橋治済がもし本当にサイコパスの毒殺魔だとしたら、我が子を次期将軍にしたいがためにやったという見方もできなくはありません。しかし家斉の子達の中で、徳川家基の年齢に近い年で亡くなったという例は一つもありません。また、家基の死の状況を見ると、発症してから3日後に死亡しており、よほどうまい具合の遅効性の毒物でも使用しない限り、この死亡経過は再現できないので、これらを勘案すると、家基暗殺説はさすがに考えすぎではないかと思われます。

一橋治済の治世

 一橋治済が黒幕として権力を握っていた時代は、田沼時代に頻発した人災や天災が一段落して、比較的落ち着いた時代でもありました。幕末の動乱もまだまだ先の話です。特別な対処を迫られるわけでもなく、田沼意次の政策を持続していればよかったので、一橋治済の業績で特筆すべきことはありません。ただ単に幕府中枢の人事権を握っていたというだけの事でした。

 しかし当時は、天然痘(てんねんとう)という恐ろしい感染症の猛威が江戸を襲いました。現在では根絶された病気ですが、当時の天然痘の致死率は20%~50%と高く、江戸では普通に誰もがかかっておかしくない感染症でした。

 また、江戸城内にはもう1つ、「女性達がおしろいに使っていた鉛製品による鉛中毒」という問題もありました。江戸城内では一般の市中よりも乳幼児の致死率が高かったのは、これも原因ではないかと考えられています。徳川家慶の14男13女の子女も大部分は天然痘と鉛中毒で命を落としたのではないかとも考えられるのです。

 天然痘と鉛中毒。江戸城内で幼子が2~3歳で死んでしまうのは普通のことだったかもしれません。とはいえ、それにしても27人中、26人が成人前に死去というのはさすがに異常な感じがすることは事実です。一橋治済が疑いの目で見られても仕方なかったでしょう。

おわりに

 歴史の必然として、何もしなかった人物は何も残らない…一橋治済はそんな人物でありました。 なので巷間で色々と脚色もされてしまっているのです。

 歴史に埋もれた一橋治済は、ただの自分勝手な人物であったのか?それとも本当にサイコパスの毒殺魔であったのか? 今となっては杳として分からないのです。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

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