江戸時代のジビエは薬?…将軍も虜だった江戸の禁断グルメ「薬食い」の全貌
- 2025/12/19
皆さんはジビエがお好きですか?野生の獣肉にはやや癖があるので、食べ慣れないうちは好き嫌いが分かれるかもしれません。
ジビエはフランス語で「狩猟で得た野生鳥獣の食肉」を指します。シカ肉・イノシシ肉・カモ肉などが代表的であり、近年は高タンパク・低脂質な健康食として注目されています。しかし、かつての日本では仏教の影響で肉食が禁じられ、家畜を育てる習慣もありませんでした。
そうした時代、人々は「これは薬なのだ」という言い訳を盾に、密かに野生の肉を味わっていました。それが「薬食(くすりぐい)」です。今回は将軍・徳川吉宗もハマった薬食いの魅力や、知られざる日本のジビエ史を掘り下げていこうと思います。
ジビエはフランス語で「狩猟で得た野生鳥獣の食肉」を指します。シカ肉・イノシシ肉・カモ肉などが代表的であり、近年は高タンパク・低脂質な健康食として注目されています。しかし、かつての日本では仏教の影響で肉食が禁じられ、家畜を育てる習慣もありませんでした。
そうした時代、人々は「これは薬なのだ」という言い訳を盾に、密かに野生の肉を味わっていました。それが「薬食(くすりぐい)」です。今回は将軍・徳川吉宗もハマった薬食いの魅力や、知られざる日本のジビエ史を掘り下げていこうと思います。
鹿児島の島津氏が将軍に充てたお歳暮の中身とは
日本では大前提として長い間、肉食が禁じられてきました。これは飛鳥時代に仏教が伝来し、殺生を罪と見なす価値観が広まった為です。おおやけに禁じられたのは奈良時代以降で、天武4年(675)には既に弓矢や槍を用いた狩猟が規制されています。『日本書紀』の原文には次のようにはっきりと書かれています。
「且莫食 牛馬犬猿鶏之宍 以外不在禁令 若有犯者罪之」…(中略)…「牛・馬・犬・猿・鳥は食べるなかれ」
また、平安時代に編纂された『延喜式』では、死や出産に並ぶ穢れの一種として食肉が挙げられていました。
素行不良な僧を「生臭坊主」と蔑むのは、彼等がしばしば獣の腥膻(肉や肝)を貪っていたからです。漢学者・三善清行は『意見十二箇条』にて、「形は沙門に似て心は屠児の如し」とその有り様を説いています。とはいえ、庶民の間ではほそぼそと流通しており、市場で猪肉を買っていた者もいたそうです。
鎌倉時代には一時的に肉食の習慣が盛り返すものの、江戸時代に入るや再び逆風が吹き、将軍以下、大名・旗本などの支配層は肉を避けるようになりました。
室町時代の料理書『大草家料理書』には、蒸し焼きにしたタヌキを鍋で煮る「むじな汁」のレシピが記されていますが、江戸時代の人々はごぼうやコンニャク、大根や豆腐で代用し、ヘルシーな精進料理に生まれ変わらせています。
しかし、これには例外があります。それが琉球文化の影響を色濃く受けた薩摩地方です。徳川幕府の鎖国令によって外国船の寄港が禁じられた後も、薩摩藩領の琉球は依然として中国や東南アジア諸地域と交流を続け、海外の多彩な食文化を取り入れてきました。それゆえに薩摩地方の郷土料理には東南アジア原産の食材や調味料が豊富に使われ、独自の発展を遂げてきたのです。
歴代の島津藩主は将軍へのお歳暮として「ある薬」を贈っていました。8代将軍・徳川吉宗は毎年のお歳暮をとても楽しみにし、勢いに任せて食べ切ってしまうと、「もっと欲しい」とねだったそうです。お歳暮の中身は島津藩名物・豚肉の味噌漬け。味噌が薬として用いられた平安時代を振り返れば、あながち間違ってるとも言えません。
徳川最後の将軍・徳川慶喜も吉宗に負けず劣らず「豚肉」好きだったようで、豚が好きで好きでたまらない一橋の殿様を略し、裏では「豚一殿」と皮肉られていました。慶喜のおねだり攻撃には薩摩藩家老・小松帯刀もほとほと困り果て、嘆いています。
小松帯刀:「1度ならず3度まで求められ 私のぶんまですべて差し上げてしまいました。ところがまたもや使いをよこされ、豚肉を所望してこられました。」
小林一茶も俳句に詠んだ冬の季語
当時の人々にとって「薬食い」は肉食の抜け道。彼らは薬代わりに味噌をなめた平安貴族にならい、寒い時期には滋養と保温のため、と口実をつけて獣肉を食べたのでした。薬は獣肉の隠語です。お酒を「般若湯」、猪鍋を「牡丹汁」、馬肉を「桜肉」と言い換え、うさぎを「一羽二羽」と数えるのと同じ理屈です。肉を食べると精が付くのは共通認識でした。一汁三菜、毎日2食の手本を世に示していた倹約家の吉宗にとって、年に一度食べれる豚の味噌漬けが大変なご馳走だったことは想像に難くありません。
薬食いは俳句や和歌に詠まれる冬の季語でもありました。
「行く人を 皿でまねくや 薬喰ひ」(小林一茶)
「客僧の 狸寝入りや くすり喰ひ」(与謝蕪村)
前者(小林一茶)は「薬食いでもいかがですか」と客を引き止める様を、後者(与謝蕪村)は旅の僧が狸寝入り……仮病を使ってまで肉を食べようとする様を茶化したものです。
どちらもユーモアに”くすり”としますね。「薬喰 隣の亭主 箸持参」も蕪村の句。下町の生き生きした暮らしぶりが伝わってきませんか?
体力を付ける為に、寒中に肉を食べる習慣は庶民にも浸透していました。
特に好まれたのが「牡丹(猪)」、「紅葉(鹿)」、「桜(馬)」、「柏(鶏)」、「月夜(ウサギ)」。随分風流な隠語ですね。由来は肉の断面の色にちなむそうで、猪肉は「山鯨」とも言い換えられました。本物の鯨肉と色合いが似ているのでしょうか?江戸のしりとり唄や花札の「牡丹に唐獅子」がルーツとする説もあります。
また「月夜」は月にウサギが住む伝説から。鹿児島地方は例外として、牛や豚があんまり食べられていなかったのが意外です。
牛肉を食べると穢れる?大名行列が避けて通ったももんじ屋
犬公方こと5代将軍・徳川綱吉が江戸後期に発した生類憐みの令は、こっそり肉を売っていた商人や、それを買っていた客たちに甚大なダメージを与えました。とりわけ、仏教における五畜(鶏・羊・牛・馬・豚)の食肉がタブー視され、人々は獣肉を隠語で呼び習わすようになります。江戸中期の事典『和漢三才図会』の牛肉の項目には「日用は駄目だが禁止するほどではない」と書かれているので、綱吉の政策がいかに極端だったかわかります。
江戸近郊の農村に複数存在した「ももんじ屋」は、百姓が鉄砲で獲った鳥獣を利根川を経由して江戸に運び、客に獣肉を提供しました。ももんじ屋に並ぶ肉の種類は多岐に亘り、比較的メジャーな猪や鹿はもとより、犬・狼・狐・猿・鶏・牛・馬が捌かれていたとか。お上にバレたら大変です。故に元肉屋は薬問屋に成り代わり、薬食いの建前で肉を売り買いしたのでした。
漢字では「百獣屋」と表記されるものの、関東地方の妖怪を意味する「モモンジイ」が語源ともされ、正確な由来はわかっていません。嘗て麹町平河町で営業していたももんじ屋には、大名行列がわざわざ迂回していった逸話が語り継がれています。
おわりに
以上、薬食いの裏側を掘り下げてみました。ももんじ屋の存在もさることながら、猿や狼の肉まで売られていたのは衝撃的ですね。一体どんな味がするのでしょうか?彦根藩藩主・井伊直澄が特産の養生薬と偽り、反本丸(へいほんがん)の名で全国に出回った牛肉の味噌漬けも、大変美味しそうで気になりました。
【参考文献】
- 田中康弘『ニッポンの肉食』(筑摩書房 2017年)
- 奥田昌子『日本人の病気と食の歴史』(ベストセラーズ 2019年)
- 石毛直道『日本の食文化史 旧石器時代から現代まで』(岩波書店 2015年)
- 宮崎正勝『知っておきたい「食」の日本史』(角川学芸出版 2009年)
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この記事を書いた人
読書好きな都内在住webライター。
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