【べらぼう】「おもしろうて やがて悲しき」幕府の弾圧に抗い、表現の自由を貫いた蔦屋重三郎の最期
- 2025/12/08
江戸の出版界にセンセーションをもたらした蔦屋重三郎。喜多川歌麿、東洲斎写楽、山東京伝など、多くの異才を見出し、世に送り出して一世を風靡しました。しかし、その奔放で機知に富んだ活動は、当時の幕府(御公儀)の快く思わないところとなり、厳しい弾圧の対象となっていきます。
NHK大河「べらぼう」もまもなく最終回を迎えます。あらためて重三郎の波乱に満ちた生涯とその最期を「おもしろうて やがて悲しき」という言葉を借りて、本稿で辿ります。
NHK大河「べらぼう」もまもなく最終回を迎えます。あらためて重三郎の波乱に満ちた生涯とその最期を「おもしろうて やがて悲しき」という言葉を借りて、本稿で辿ります。
意次時代は去り、寛政の改革へ
老中・田沼意次が権勢を振るった宝暦・天明年間(1751〜89年頃)、比較的自由な空気の中で江戸の出版業界は黄金期を迎えます。耕書堂(こうしょどう)を営む蔦屋重三郎を筆頭に、鶴屋喜右衛門、西村屋与八、和泉屋市兵衛などの有力版元が、人気絵師や戯作者を抱え、風刺の効いた読み本、洒落本(アダルトジャンル)、そして学術書まで、多岐にわたる出版物で江戸っ子の支持を集めました。しかし、この「楽しい時代」は長く続きませんでした。度重なる凶作や飢饉によって民衆は重税にあえぎ、江戸や大坂をはじめ全国30ヵ所で打ち壊しが発生。この混乱の中で田沼意次は失脚します。
天明7年(1787)、新たに老中となった松平定信は、田沼派の残存勢力を一掃し、寛政の改革を始めます。定信が目指したのは、武士は清貧を旨として自らを律し、町人は勤勉に働き、厳格な社会秩序が守られる世の中でした。
質素倹約を旗印とする定信の下、寛政2年(1790)には出版統制令が発令されます。その主な内容は以下の通りです。
- 黄表紙や洒落本など、好色な内容の書籍の絶版、売買・貸出の禁止。
- 時事問題を風刺した「一枚絵」の発売禁止。
- 幕府の政策を批判・揶揄する出版物の禁止。
- 新刊本の奥付に作者と版元の実名を明記することの義務化。
これは、当時「緩んでいた」と見なされた社会秩序を、強権的に元に戻そうとする強い締め付けでした。
弾圧の開始:手鎖五十日と身代半減
当初、重三郎はこの厳しい締め付けにも屈しない態度を見せます。彼は、天明6年(1786)に明誠堂喜三二作の『文武二道万石通』を発売。これは舞台を鎌倉時代に設定しながらも、実質的には松平定信の改革を遠回しに揶揄する内容でした。さらに寛政元年(1789)には、恋川春町作の続編とされる『鸚鵡返文武二道』を出版し、定信批判の姿勢を崩しませんでした。この重三郎の姿勢は、戯作者の山東京伝の弟・京山(きょうざん)が記した『山東京伝一代記』にも記されています。
「版元の蔦屋重三郎は肝の据わった男で、幕府のお咎めなどさほど感じていないようだった」
しかし、重三郎の「お上を気にしない」態度は、幕府の神経を逆撫でしました。
寛政3年(1791)、ついに幕府は重い処分を下します。京伝の洒落本『錦之裏』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』『仕懸文庫』の3冊が発禁となり、作者の京伝には「手鎖五十日」の刑が処せられます。これは両手を手錠で繋がれて自宅で謹慎させる刑罰で、重罪ではないものの、見せしめ的な意味合いが強い措置でした。期間は30日・50日・または100日と罪の軽重によって異なります。
京伝は執筆に嫌気が差しますが、重三郎の懸命な励ましにより、再び筆を執ることになります。が、処分は京伝に留まりません。幕府官僚だった戯作者の太田南畝は執筆を自粛。秋田佐竹藩の江戸留守居役だった明誠堂喜三二も、主家から注意を受けて執筆活動を停止します。駿河小島藩士だった恋川春町は、幕府の呼び出しを拒否した末、自害とも取れる謎の死を遂げました。
そして、事態の元凶と見なされた版元の重三郎には、「身代半減」という重い過料が科せられます。これは、財産の半分を没収されるという、経営に致命的な打撃を与える厳罰でした。
重三郎の知恵と挑戦:弾圧への対応
洒落本や黄表紙など、耕書堂の収益の柱であった出版物が発禁となり、このままでは商売はじり貧です。ここで重三郎が考え出したのが、喜多川歌麿に描かせた「美人大首絵(おおくびえ)」です。日本の歴史上、江戸時代は最も平均身長が低かった時代と言われ、女性は150cmに満たない背丈でした。ところが当時、美人画の人気を独占していたのは、すらりとした八頭身の美人を描く鳥居清長でした。清長がどこからこのスタイルのヒントを得たのかわかりませんが、その人気絶頂の最中に鳥居派の流派を継ぐことになり、歌舞伎の看板絵や芝居絵専門に活動を移して専念することとなったため、美人画の世界に空白が生まれます。
この需要に応えたのが、歌麿の「大首絵」でした。上半身を大きくクローズアップして描くこの斬新な画法は、たちまち庶民の心をつかみますが、遊女が人気を集めることを嫌った幕府が、絵にモデルの名前を入れることを禁止します。しかし、重三郎は絵の中に判じ物(なぞなぞ)を仕込み、それを解けば名前がわかるように工夫しました。この「粋な仕掛け」が、かえって評判を呼びます。
これも気に食わない幕府は、ついに遊女自体を描くことを禁じます。重三郎は、遊女が駄目ならと評判の水茶屋娘をモデルに変更するなど対抗しますが、いつまでも追いかけっこをしていてもきりがありません。そこで次に重三郎が目を付けたのが「役者絵」であり、ここに突如として登場したのが東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)でした。
写楽の正体は未だに定説がありませんが、そのデビュー作は破格の扱いで世に出されました。大首で描かれた人物を際立たせるため、背景には黒雲母摺(くろきらずり)と呼ばれる高価な光沢のある絵具が使われ、初版として一気に28枚が同時発売されました。これは、通常3枚程度で売り出す新人絵師としては異例の特別扱いです。
しかし、写楽の描く、人物の個性を極端に強調した絵は、当時の江戸っ子にはインパクトが強すぎました。「もっと美しく描け」「まずい絵だ」等の声が上がり、当の役者からもクレームが出たため、売り上げは伸び悩みました。写楽は、わずか10ヵ月の間に145点の作品を残しただけで、忽然と姿を消してしまいます。
臨終
写楽が姿を消した2年後の寛政9年(1797)、重三郎は48歳という若さでこの世を去ります。食欲不振、足のだるさ、顔のむくみなどの症状から、死因は脚気(かっけ)とされています。脚気は現代でも食事に偏りがあったり、大量に酒を飲む人がかかりやすい病気ですが、江戸時代では、毎食白米を腹いっぱい食べられる裕福な人間しかならない病として、「江戸患い」あるいは「贅沢病」と呼ばれていました。
前年の秋ごろから体調を崩し、臥せっていた重三郎は、亡くなる日の朝、「今日自分は午の刻(正午)に死ぬだろう」と言い出します。彼は妻や弟子たちに、死後の店や家のことを細々と指示しましたが、正午になっても息を引き取りません。
「おい、もう芝居は終わっているのに拍子木が鳴らないぞ。遅いじゃないか」
この、どこか洒落を効かせた言葉を最後に、重三郎は同日の夕方、享年48歳で息を引き取りました。
おわりに
重三郎の墓碑は、台東区東浅草の正法寺にあります(元の墓石は戦災で失われました)。その墓碑には次のように書かれています。「この人物は意欲的で叡智に富み気配りができ信用できる」
この墓碑を立てたのは、重三郎の狂歌の師匠であり、太田南畝の弟子でもある宿屋飯盛(やどやのめしもり)こと石川雅望(いしかわまさもち)です。雅望は重三郎とわずか3歳違いで、本業は「公事宿(くじやど)」(訴訟関係者を泊める宿)の経営者でした。
奇しくも、この雅望自身も幕府の取り締まりに遭い、「宿で不当な商売をしている」という言いがかりをつけられ、家財没収の上で江戸所払いの処分を受けていました。重三郎が亡くなったのは、雅望がまさに所払いを受けて江戸を離れている最中の出来事でした。
幕府の弾圧に抗い、江戸文化の華を開かせようと奮闘した蔦屋重三郎。その死は、一つの時代の終わりを象徴するかのように、「おもしろうて やがて悲しき」人生の幕引きとなりました。
【参考文献】
- 鈴木俊幸『本の江戸文化講義』(KADOKAWA、2025年)
- 松嶋雅人『蔦屋重三郎と浮世絵』(NHK出版、2024年)
- 河合敦『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新聞出版、2024年)
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この記事を書いた人
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。
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