江戸は徳川家康が来る前から繁栄?「寂れた寒村」のイメージを覆す中世江戸の真実
- 2026/06/22
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江戸時代の江戸は、徳川将軍のお膝元として世界有数の大都市へと発展しました。その契機が「江戸開府」であったことは言うまでもありません。
現在の東京へと繋がる江戸ですが、通説では「徳川家康の関東入部以前は、寂れた寒村だった」と語られてきました。江戸城は玄関すら満足にない有様だったとされ、家康の入国によって都市開発が始まった、と語られることが多いです。
しかし近年の研究により、この通説は見直されつつあります。家康以前の江戸は決して寂れた寒村ではなく、すでに「都市」として成立していたという指摘です。だとすれば、世界的な大都市へ発展する下地は、江戸時代以前から築かれていたと言えます。
今回は、そんな知られざる「中世の江戸」の姿に迫ります。
現在の東京へと繋がる江戸ですが、通説では「徳川家康の関東入部以前は、寂れた寒村だった」と語られてきました。江戸城は玄関すら満足にない有様だったとされ、家康の入国によって都市開発が始まった、と語られることが多いです。
しかし近年の研究により、この通説は見直されつつあります。家康以前の江戸は決して寂れた寒村ではなく、すでに「都市」として成立していたという指摘です。だとすれば、世界的な大都市へ発展する下地は、江戸時代以前から築かれていたと言えます。
今回は、そんな知られざる「中世の江戸」の姿に迫ります。
江戸氏の登場と江戸
平安時代から室町時代にかけてこの地を治めた「江戸氏」は、その名の通り、武蔵国豊島郡江戸郷を基盤に活動していました。彼らは現在の埼玉県北部をルーツとする秩父平氏の一族とされています。秩父平氏からは江戸氏のほか、畠山氏・河越氏・葛西氏・豊島氏などが輩出され、いずれも鎌倉時代には幕府の御家人として名を連ねています。江戸氏もまたいくつかの一族に分かれ、現在の千代田区とその周辺に所領を広げました。江戸氏の惣領家(本家)は現在の千代田区平河町を拠点にしていたとみられ、他の江戸一族は現在の港区・文京区・荒川区・台東区・墨田区・杉並区・新宿区・大田区などに所領を有していたことが室町時代の記録から分かっています。
彼等の所領の特徴の一つとして、隅田川沿岸の周辺地域に一族を置いていたことがあげられます。隅田川沿岸は東京湾に面し、太平洋に至る海運の要地であり、海上・河川・陸上交通における物資の積み替え地点になっていました。くわえて、浅草の浅草寺は古代から信仰の一大拠点となっており、浅草につながる交通も発展していたと考えられています。
江戸一族は、こうした交通・宗教の要所を巧みに押さえていたのです。
ちなみに、当時の隅田川は武蔵国と下総国の「国境」でした。現在の大相撲で有名な墨田区「両国」という地名は、まさに武蔵と下総の「両方の国」の境目であった歴史的名残です。
ところで「江戸」という地名の語源について、皆さんはご存知でしょうか。「江」は河川を意味し、「戸」は「湊(みなと)」や「渡(わたし)」に由来すると指摘されています。つまり地名そのものが、水上交通の結節点であることを示しているのです。
同じように「戸」が付く地名には、青戸(葛飾区)・今戸(台東区)・亀戸(江東区)・「松戸」(千葉県松戸市)などがありますが、いずれも河川に面する地域であり、水上交通の要地であったと考えられています。
江戸氏の没落と太田道灌の登場
鎌倉幕府が倒れた後、南北朝の動乱が続くなかで、京都に室町幕府が設立されます。初代将軍・足利尊氏は嫡男の義詮(後の2代将軍)を鎌倉に置き、関東を任せていました。その後、貞和5年(1349年)に義詮が京都に戻ると、尊氏は代わりに基氏(義詮の弟)を鎌倉に下向させます。以降、基氏を頂点とした政治機関「鎌倉府」によって関東は統治されました。この頃の江戸氏の詳しい動向はあまり知られていませんが、鎌倉府の支配下にあったとみられます。鎌倉府の長官である「鎌倉公方」は基氏の子孫が代々継承。また、鎌倉公方の補佐役として「関東管領」が置かれ、当初は斯波氏や畠山氏も就任しましたが、最終的に上杉氏が世襲するようになりました。
初期の鎌倉公方は、京都の室町将軍と協調路線をとっていましたが、徐々に対立するようになります。その対立は第4代鎌倉公方・足利持氏と、6代将軍・足利義教のときに頂点に達し、永享10年(1438)に軍事衝突(永享の乱)が勃発。持氏は敗れて自害に至りました。その後、下総の結城氏が持氏の遺児を擁立して幕府軍に対抗しますが、これも幕府軍に滅ぼされます(結城合戦)。
これら一連の戦乱において、江戸氏は鎌倉公方に従っていたようで、結城合戦によって江戸氏は没落し、先祖伝来の江戸の地も離れたとされています。
こうして空いた江戸の地に入ったのが、扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家宰(重臣)を務める太田氏であり、のちに名城・江戸城を築く太田道灌(どうかん)です。
当時、上杉一族内では「山内上杉家」と「扇谷上杉家」の二大勢力が覇権を競っており、太田氏は扇谷上杉家を支える中心人物でした。ちなみに上杉一族は関東管領でしたが、永享の乱の際に鎌倉公方を見限って幕府方に付いています。
太田道灌と江戸城
長禄元年(1457)、太田道灌は江戸城を築城したとされています。この江戸城築城の背景には、復活した鎌倉公方(足利成氏)と関東管領(上杉氏)の激しい対立がありました。幕府は、自害した持氏の遺児・成氏を新たな鎌倉公方に、山内上杉家の憲忠を関東管領にそれぞれ任命し、鎌倉府を再興させます。しかし、両者の折り合いは悪く、享徳3年(1454)に成氏は憲忠を暗殺。これを謀反とみなした8代将軍・足利義政は、成氏討伐令を発しました。しかし、関東の大名・国衆の間で成氏を支持する勢力が多く、京都の政情も不安定だったため、事態は膠着状態となります(享徳の乱)。
戦線は北関東に移り、おおよそ利根川を境に東西に分かれ、成氏方と反成氏方による断続的な戦いが展開されていました。このような状況で成氏は下総国古河(茨城県古河市)に本拠を移し、「古河公方」と呼ばれるようになります。
これに対し、山内上杉家は武蔵国五十子(埼玉県本庄市)を拠点に、扇谷上杉家は川越と江戸を拠点にして、それぞれ成氏方(古河公方)に相対しました。川越には当主の上杉持朝が入り、江戸には太田道灌が入ります。
ここで道灌は江戸に城を築きました。つまり、初代江戸城は宿敵である古河公方との合戦に備えるための、軍事拠点として誕生したのです。
小田原北条氏と江戸
道灌の活躍によって扇谷上杉家は全盛期を迎えますが、当主・上杉定正は次第に道灌の力を恐れて(諸説あり)、暗殺してしまいます。道灌を失ったものの、江戸自体は衰退することはなく、江戸城は川越城と並び、扇谷上杉家の主要拠点として位置付けられていたとされています。やがて時代が進むと、伊豆から台頭した伊勢宗瑞(北条早雲)の勢力が関東へ進出してきます。2代目の北条氏綱は、大永4年(1524年)に扇谷上杉家から江戸城を奪取。これ以降、江戸は北条氏の領国となりました。
北条領国下における江戸城は、遠山氏が城代として赴任している期間が多く、江戸は北条氏当主の直接管理する地(直轄領)であったとみられます。また、氏綱は出陣した際に江戸城に滞在して、各地の情勢を見極めていたことが指摘されています。これは江戸の地が陸運・水運の要地であったことから情報収集に適したためであったと考えられます。4代目の北条氏政も、江戸城に入り、領国運営にあたろうとしていたのではないと言われています。
また、当時の記録からは、江戸に「大橋宿」という宿場町が存在したことも確認されています。交通の要地であることからも、戦国時代の江戸城下は、既にそれなりの町場を形成していたとみられます。
ここで、戦国時代の「江戸」がどのくらいの広さだったのかを見てみましょう。現在の東京23区=江戸 と思われがちですが、北条氏の検地帳(『小田原衆所領役帳』)によると、当時の範囲はおおよそ以下の通りでした。
●北限:荒川南岸地域
広沢(埼玉県和光市周辺)・赤塚(板橋区)・志村(板橋区)・岩淵(北区)
●南限:多摩川以北
川崎(神奈川県川崎市川崎区)
●東限:牛島(墨田区)以西
千束(台東区)、浅草(台東区)などは江戸に含まれますが、亀戸(江東区)・葛西(江戸川区)などは含まれない。江戸時代に入ってから江戸に編入。
●西限:南沢(東京都東久留米市)、田無(東京都西東京市)、石原(東京都調布市)
現在の調布市付近の無運(現在の東京都三鷹市牟礼)、高井戸(杉並区)、深大寺(東京都調布市)などは江戸に属すか不明。
広沢(埼玉県和光市周辺)・赤塚(板橋区)・志村(板橋区)・岩淵(北区)
●南限:多摩川以北
川崎(神奈川県川崎市川崎区)
●東限:牛島(墨田区)以西
千束(台東区)、浅草(台東区)などは江戸に含まれますが、亀戸(江東区)・葛西(江戸川区)などは含まれない。江戸時代に入ってから江戸に編入。
●西限:南沢(東京都東久留米市)、田無(東京都西東京市)、石原(東京都調布市)
現在の調布市付近の無運(現在の東京都三鷹市牟礼)、高井戸(杉並区)、深大寺(東京都調布市)などは江戸に属すか不明。
「江戸」といっても、戦国時代の「江戸」は、現在の東京23区の行政区画とは違いますし、江戸時代の「江戸」とも違っています。
おわりに
江戸時代以前の江戸について取り上げてきました。徳川家康がやってくる遥か昔から、江戸はすでに水運・陸運の要地として、機能していたことがうかがえると思います。従来の「寂れた寒村」のイメージとは異なる性格を有していたのです。世界的な大都市に発展した江戸の基礎は、中世の段階で十分に養われていたと言えるでしょう。このポテンシャルを見抜き、さらなる巨大都市へとプロデュースしたのが、徳川家康であり江戸幕府でした。家康の関東移封や、豊臣秀吉が家康に求めた真の狙いについては、以前の別記事で詳しく解説しています。
ぜひ、本記事とあわせてお楽しみください。


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