低賃金と黄燐の危険を超えて。日本を「世界三大」にしたマッチの輸出戦略
- 2025/11/05
出かける亭主の背中に、無事を祈って女房が火打石で火花を散らす「切り火」を送る、心温まる光景。しかし、実際の着火道具としての火打石は、大変使いづらいものでした。火花を飛ばし、火口に火種を移し、さらに薪へ...。手間暇かかる作業は、人々の暮らしから火種を絶やさぬよう、大切に守られてきました。
そんな中、明治時代に「マッチ」が輸入され、人々の生活を一変させます。火打石の苦労を知る人々にとって、マッチはまさに「文明の利器」であり、画期的なありがたい存在として迎え入れられたのです。
火打石から「早付け木」へ、驚きと戸惑い
江戸時代まで、火をつける道具は「火打石」が主流でした。
火打石は鋼鉄製の火打金(ひうちがね)に硬い小石(石英や角岩など)を打ち付けて火花を出し、それをガマの穂や茅花(つばな)などの火口(ほくち)に移して火種を作るという、手間のかかる工程です。そのため、一度起こした火は灰などに埋めて消えないようにするのが常でした。
そこに明治時代、海外からマッチが持ち込まれます。現在のものより着火は悪かったものの、誰でも簡単に火をつけられる便利さに、人々は熱狂しました。
当初は「摺り付け木」や「早付け木」、あるいは「アメリカ付け木」と呼ばれましたが、そのあまりの便利さに、「妖術ではないか」と勘違いする人まで現れます。また、信心深い人々の中には、「マッチは牛馬(四つ足)の骨から煮出した燐(りん)を使っているから不浄である。神仏に供える灯明やろうそくに使ってはならない」と言い張る人も多くいました。
こうした人々の頑なな心を相手に商売を考えたのが、「神仏灯明用」「清浄請負」と銘打った特別製マッチを売り歩く行商人たちです。他のマッチと変わらない太めの軸木を使用していただけですが、これが農村では好評でした。
「この清浄マッチは本山の教えに従って作られたものです。清浄無垢はもちろん神仏の御祈念を頂いているのでこれで灯明をともせば間違いはありません」
こんな口上で田舎をまわって大いに売りさばきました。包み紙には有難そうな神仏の姿を描いていたとか。どこにでも商機を見出す人間の知恵は尽きません。
マッチの国産化と輸出の成功
輸入品だった初期のマッチは、小箱1個が米4升ほどの値段がする、大変な高価品でした。普段使いのものがこれでは堪りません。その頃、フランスへ留学していた金沢藩士の子息で清水誠という青年が、ホテルで宮内次官の吉井友実と話していました。吉井はテーブルに置いてあったマッチを取り上げて嘆きます。
「日本はこんなものまで輸入しなくてはならない、これでは金がいくらあっても足りない。マッチぐらいだれか作れないものか」
それを聞いて思うところがあった清水は、明治8年(1875)に帰国すると、東京三田にあった吉井の別邸の土地に『新燧(ひうち)社』と名付けたマッチ工場を設立。製造したマッチを輸入品より格段に安く販売し、2年後には上海に輸出するまでになり大成功を収めます。
その後、数年の間に瀧川辨三の『東洋燐寸』や直木政之介の『日本燐寸』など多数の会社が創業。マッチは瞬く間に日本の数少ない輸出品の一つとなり、外貨獲得の「花形商品」へと成長しました。
過酷なマッチの製造現場と労働力
明治32年(1899)といえば、マッチの輸出が最盛期だったころです。その頃、全国には10人以上の職工を雇う工場が180ヵ所、30人以上を雇う工場は104ヵ所ありました。男子工3489人に対し、女子工は1万1560人と圧倒的に女性が多数を占めていた記録が残っています。これらの工場では主に燐など燃えやすい化学物質を扱うマッチの軸木を生産し、箱詰めは主婦が働く内職に任されました。
マッチ製造は、軸木裁断など一部の作業を除けば、特別な力も技術も要しない細々した作業です。このため、10代前半から20代後半までの女性が多く歓迎されました。しかし実際には、10歳にも満たない少女たちが母親や姉に連れられて工場へやって来ては、1日あたり2銭か3銭の賃金で働かされるという児童労働も横行しました。
困窮家庭では子供たちが少しでも食い扶持を稼いでくれれば御の字、事業者も安い労働力が手に入るとして目をつむります。小学校に通っている子供も登校前の1~2時間、工場で働き、放課後も夕食の時間まで働いて家計を助けました。工場全体の稼働時間は日の出から日没までで、冬場は10時間ぐらい、日の長い夏場は14時間以上も稼働し、繁忙期には夜9時、10時までの夜業が行われます。
しかも、初期のマッチ製造は毒性が強く、自然発火の危険もある黄燐(おうりん)を頭薬に使う危険な作業でした。このため、かつては監獄内で囚人の刑務作業として行われたこともあります。政府は健康被害や危険性に対応するため、大正10年(1921)4月に黄燐燐寸製造禁止法を公布し、黄燐マッチの製造・販売・輸入などを禁止。その後、安全性の高い赤燐(せきりん)を使ったマッチが登場しました。
輸出競争力と宣伝媒体としての役割
職工らの賃金は日給、または月給でしたが、多くが出来高払いでした(例:レッテル貼り1万枚13銭、箱詰め180箱1銭五厘など)。男職工で1日の稼ぎが15、6銭~30銭、女職工は12、3銭~20銭程度と低賃金でした。賃金支払いの多くは15日と月末払いでしたが、女職工たちは日払いを望む者も多く、まさに今日の稼ぎで明日の米を買う生活です。この低賃金による低価格を武器に、日本のマッチ輸出は大きく売り上げを伸ばし、最盛期の1890年代から30年間は、スウェーデン・アメリカと並んで「世界三大生産国」にのし上がりました。
日本のマッチが安価であった要因は、職工の低賃金に加え、火山国である日本で主原料の一つである硫黄が大量に安価で手に入ったことも大きいと言えます。ちなみにスウェーデンは軸木に適した軟かいアスペン材が豊富に手に入りました。しかし、1917年に巨大なスウェーデン・マッチ・トラストが世界的な支配を確立すると、日本のマッチ産業はその勢いを失っていくことになります。
マッチは宣伝媒体としても大いに活躍しました。マッチ箱のラベルに社名や商品名を入れるのですが、小さな紙媒体ですから印刷費用も低く抑えられます。しかも普段使いのマッチは手元に置いて頻繁に使う物なので目に触れる機会が多く、高い宣伝効果が期待できました。洒落たラベルデザインも多く、マッチ箱のコレクションが流行した時代もあったのです。
【参考文献】
- 鳥越一朗『おもしろ文明開化百一話』(ユニプラン、2017年)
- 本田豊『絵が語る知らなかった幕末明治のくらし事典』(万来舎、2012年)
- 犬丸義一『職工事情 中』(岩波書店、1998年)
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