明軍が日本刀を装備した?大陸製大太刀「倭刀」とは

 「切れ味」と「美しさ」を兼ね備えた日本刀。武士たちによって命を預ける武器として求められたと同時に、褒賞や贈答、あるいは社会的なステータスとしても珍重されました。

 戦乱の世にあって、これほどまでに特別な位置づけがなされたのには、美しさだけではなくやはり武器としての優れた性能があったからなのでしょう。その力は、当時の日本国内だけではなく、実は遠く中国大陸にまで知れ渡っていたのです。

 本コラムでは、大陸を震撼させた日本刀と、その影響についてズームしてみたいと思います。

海外でも高く評価された日本刀

 室町時代、足利三代将軍・義満の頃に中国大陸との国家間貿易が正式に推進されました。いわゆる「日明貿易」ですが、日本からの輸出品目のひとつとして「日本刀」がたいへんな人気を博していたといいます。

 日本刀の存在は宋代よりすでに知られており、詩人の「欧陽脩(おうようしゅう)」は『日本刀歌』という作品を発表しています。

欧陽脩(『晩笑堂竹荘畫傳』より)
欧陽脩(『晩笑堂竹荘畫傳』より)

 『日本刀歌』は日本についての詩ですが、その中で日本刀を称賛しており「魚皮(鮫皮)にて装貼」「香木の鞘」など、その造りを細かく描写しています。また、「身に着けることで悪いものを払う力がある」とし、当時の中国大陸で日本刀が特別な目で見られていたことをうかがわせます。

「倭寇」に悩まされた、明軍の将兵たち

 当時の中国大陸と日本との関係は、決して平和的なものばかりではありませんでした。その代表的な例が「倭寇」と呼ばれる海賊、あるいは密貿易集団です。

 朝鮮半島や中国大陸沿岸にまで出没した倭寇は、やがて明の正規軍も太刀打ちできないほどの勢力を誇るようになります。16世紀当時の倭寇を「後期倭寇」という呼び方をし、この時には日本人だけではなく様々な国出身の構成員からなる、多国籍武装集団となっていました。

 倭寇の強さ、恐れられたその秘密こそ「日本刀」だったといいます。それも長寸の大太刀や長巻(大太刀の刃の半ばまでを柄巻きした武器)などのことで、その切断力と機動性には明軍も大いに手を焼いたといいます。

 長さの割には動きが軽快で、剣などの短柄武器ではリーチが届かず、また槍などの長柄武器を用いても柄ごと両断される、という記述が残っています。このことから、倭寇とともに武器としての日本刀が非常に恐れられたことがうかがえます。

対倭寇戦の名将「戚継光」

 倭寇による攻撃に歯止めをかけたのが、16世紀の明軍武将「戚継光(せきけいこう)」です。

 異なる武器を持った小隊のフォーメーションで倭寇に対したり、大太刀を封じる長柄の特殊武器を開発したりといった戦法で、多大な戦果をあげました。

倭寇との戦いで戦果をあげた「戚継光」
倭寇との戦いで戦果をあげた「戚継光」

 継光は嘉靖40年(1561)、倭寇との戦いの場において『影流目録』という日本剣術伝書の一部を入手します。これは「陰流」の剣術技法書であると考えられており、この書を手掛かりとして倭寇の遣う日本剣術を研究、継光は『辛酉刀法』という自著にこれを掲載します。

 また、有名な明代の兵法書である『武備志』にも同じく掲載されていることが知られています。これはつまり、倭寇の大太刀と日本剣術に、同様の武器と技術で応戦することを意味しています。

 ここに、日本刀を装備した対倭寇戦部隊が誕生したのです。

日本刀を原型とした「倭刀」を明軍が装備

 かねてより中国大陸に知られていた日本刀は、明代初期には朝廷によってその製作が試みられていました。

 「倭刀」とも呼ばれるそれは、長さの違いでバリエーションはあるものの、日本でいう大太刀を意識している点が目につきます。日本刀の完全な復元は不可能だったとされていますが、長大な太刀は対倭寇戦で大きな効果を発揮したようです。

 無論、チームによる火器を含む複数武器の組み合わせを中心とした波状攻撃など、戦術の工夫も大きかったことでしょう。しかし、敵と同等のリーチと攻撃力を担保とした白兵戦では、「倭刀」がいかに頼りにされたか想像に難くありません。

 倭刀を取り入れた小隊編成は南方の対倭寇戦のみならず、北方の脅威であった対モンゴル戦でも取り入れられました。同様に火器や射撃兵装を組み合わせたフォーメーションで対抗し、騎馬兵力への足止めに倭刀が力を発揮したことが伝わっています。

 やがて長大な倭刀は廃れていきますが、日本刀が中国大陸の歴史に大きな影響を及ぼしたという事実に、驚きを禁じえません。

おわりに

 倭刀を扱う技が研究され、明代の兵法書『単刀法選』は倭刀術の解説書として、絵図入りで様々な技法が収録されています。

 刀身の長さを生かした使い方や、緊急時に二人一組になってお互いの長刀を抜刀しあう方法、または日本の陰流にも存在する短刀を投げつける技など、バリエーション豊かな技法となっています。

 また、日本刀の影響を受けた「苗刀(みょうとう)」という武器もあり、これは刀身・外装とも中国大陸製のものとなっています。通常の刀術は片手で扱うものの、この苗刀は日本剣術同様に両手で振ることが特徴となっています。

 明軍がおそれ、あえて取り込むことで脅威を克服した武器・日本刀。知られざる歴史の一幕でした。


【主な参考文献】
  • 『対談 秘伝剣術極意刀術―日本剣術と中国刀剣術 その興亡と流伝の秘密を探る』笠尾恭二・平上信行 1999 BABジャパン

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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