【べらぼう】吉原遊廓の強力な敵とは誰か?徳川幕府も当初は全面禁止できなかった風呂屋の正体
- 2025/11/10
大河ドラマ「べらぼう」第43回は「裏切りの恋歌」。
吉原は傾城(遊女)町として徳川幕府の公認するところでしたが、その吉原には敵がいました。その敵とは何か?いわゆる私娼(公の許可を得ていない売春婦)です。品川や新宿・板橋・千住の「江戸四宿」には飯盛女(宿々で給仕や雑用に従事、更には売春をもおこなった女性)と呼ばれた私娼がいましたが、これは吉原の敵としては弱い方だったとされます。吉原の敵として強力だったのが、私娼の風呂屋女でした。銭湯で垢すりなどのサービスを提供した女性ですが、こちらも次第に売春を行うようになり強勢を誇ったのです。
寛永13年(1636)頃より江戸の町々に「風呂屋」というものが現れ、売春婦(遊女)を抱え昼夜の商売をするようになったと言われています。風呂屋の登場により、賑わいを誇っていた吉原は「衰微」したのでした。風呂屋が人気となったのは、吉原と比べて安価に手軽に利用できるからでした。風呂屋女らは暮れどきともなると、風呂の上がり場に使っていた「格子の間」を座敷にしてそこに金屏風を引き廻し、三味線などを鳴らして客集めをするのでした。「夜の仕事」が始まる訳ですが、風呂屋女らは昼は風呂に入ってくる客の垢をかいていました。手軽に利用できる風呂屋・私娼の跋扈を幕府は見逃しません。と言っても全面禁止にした訳ではなく、寛永年間に発した禁令では「江戸中風呂屋女三人限り」としています。1軒の風呂屋につき3人の風呂屋女を置くことは認めているのです。
その後も幕府は度々、禁令を出していますが、それは吉原からの訴えによるものでした。吉原としては私娼が跋扈しては商売上がったりになってしまうからです。が幕府は前に見たように風呂屋を当初、全面禁止とはしていません。それはなぜだったのか。江戸は急激に人口が増えていたので、私娼が蔓延ることもある程度は仕方なしと幕府は見ていたのではないかとされます。
【参考文献】
- 東京都台東区役所『新吉原史考』( 東京都台東区、1960年)
- 北小路健『遊女 その歴史と哀歓』(人物往来社、1964年)
- 小野武雄『吉原・島原』(教育社、1978年)
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