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【べらぼう】蔦屋重三郎の死に様とその偉業とは?

  • 2025/12/15
:歴史学者・作家・評論家
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 大河ドラマ「べらぼう」最終回は「蔦重栄華乃夢噺」。

 寛政8年(1796)の秋頃、蔦屋重三郎は重病となります。重三郎が患ったのは脚気(ビタミンB1が欠乏して起きる病気)だったようです。重三郎の病は回復することなく、寛政9年(1797)5月6日を迎えます。その日、重三郎は「私は今日の正午に死ぬだろう」と予言したとのこと。死期を悟った重三郎は蔦屋の「家事」について「処置」した後、妻女と別れの言葉を交わします。

 さて、昼の12時がやって来ますが、重三郎は死にませんでした。予言は外れます。その事について彼は「命の幕引きを告げる拍子木がまだ鳴らないな」と言い、笑ったとされます。冗談を言うほどの余裕があったのです。が、こう話した後、重三郎は再び口を開くことはありませんでした。その日の夕方、重三郎は48歳の生涯を閉じるのです。

 父・丸山重助と母・広瀬津与との間に生まれた重三郎。重三郎が生まれたのは吉原という特殊な空間でした。幼少期の重三郎は母の影響を強く受けて育ったようです。しかし7歳の頃、両親は離婚。重三郎は喜多川氏の養子となります。

 長じて後、重三郎が飛び込んだのは実業(出版業)の世界でした。吉原に店を構え、吉原に関する書物を刊行しつつ、ついには老舗版元がひしめく日本橋(通油町)にまで進出するのです。吉原から江戸市中に進出した本屋はそれまで無く、これは偉業というべきでしょう。重三郎の凄いところは商売が成功したということだけでなく、戯作者や浮世絵師の才能を見出してそれを開花させたことでしょう(勿論、それにより商売が成功したとも言えるのですが)。

 重三郎は「志気英邁」で細かいことに拘らず、人と接する時は「信」をもって接したと評されます。そうした重三郎の人格も作家や芸術家を惹きつけた要因と思われます。稀有な才能を有していた1人の出版業者の死を縁あった滝沢馬琴も追悼、哀悼の歌を残しています。

「夏菊にむなしき枕見る日かな」


【主要参考文献】

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  この記事を書いた人
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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