お江戸の棒手振り Uber よりも機動的!?庶民の暮らしを支えた男たち
- 2026/02/25
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
現代の私たちは、お腹が空けばコンビニへ走り、日用品が足りなければスーパーやネット通販を利用します。しかし、およそ300年前の巨大都市・江戸には、そうした固定店舗に頼らずとも、何不自由なく暮らせる仕組みがありました。その主役こそが、天秤棒一本で江戸中を駆け巡った「棒手振り(ぼてふり)」たちです。
彼らは単なる行商人ではありません。裏長屋の狭い路地まで入り込み、おかみさんたちの世間話の相手をしながら、食品から日用雑貨、さらには季節の情緒までを届ける、まさに「動くライフライン」だったのです。今回は、江戸庶民の胃袋と暮らしを支えた、タフで粋な棒手振りたちの実像に迫ります。
彼らは単なる行商人ではありません。裏長屋の狭い路地まで入り込み、おかみさんたちの世間話の相手をしながら、食品から日用雑貨、さらには季節の情緒までを届ける、まさに「動くライフライン」だったのです。今回は、江戸庶民の胃袋と暮らしを支えた、タフで粋な棒手振りたちの実像に迫ります。
庶民の暮らしを支える棒手振りの誕生
「大江戸八百八町」という言葉がありますが、その始まりは決して華やかなものではありませんでした。天正18年(1590)、徳川家康が初めて江戸に入った際、そこには荒廃した館と、寂れた町家が並んでいるだけでした。慶長8年(1603)に幕府が開かれた当時でも、人口は15万人程度。そこから50年間で町家は300町を超えるまでに至り、江戸は急速な大改修を経て都市の体裁を整えていきました。転機となったのは、明暦3年(1657)の「明暦の大火」でした。江戸の街の大部分を焼き尽くしたこの大惨事を機に、幕府は大規模な都市再開発を敢行。延宝年間(1673〜81)には町数がついに800を超え、名実ともに「八百八町」となります。享保年間(1716〜36)には、町人50万人、武士50万人を合わせた100万人都市へと成長。幕末には2000町、130万人を擁する、当時世界最大級の過密都市となりました。
これほど急激に人口が増えれば、既存の商店だけでは供給が追いつきません。また、江戸の町の約半分を占める庶民たちは、狭い裏長屋に密集して暮らしていました。彼らの住まいには十分な収納スペースもなく、生鮮食品を保存する冷蔵庫もありません。
そこで求められたのが、必要な時に、必要な分だけ届けてくれるサービスです。天秤棒の両端に「笊(ざる)」や「箱」を吊るして歩く棒手振りは、店舗を持つ資金がない者でも、体一つと棒一本あれば始められる、最も合理的で機動的なビジネスモデルだったのです。
長屋の朝は早い
長屋の朝は午前6時ごろ、時の鐘が「明け六つ」を告げると、町の木戸が開き、長屋の共同炊事場にはおかみさんたちが集まります。当時の朝食の定番は、米と麦を半々に炊いた麦飯に、たっぷりの味噌汁。しかし、忙しい朝にいちいち市場まで買い物に行く暇はありません。そこへ、待ってましたとばかりにやって来るのが、朝一番の棒手振りたちです。彼らは食品をはじめ、日常の基本生活物資から嗜好品まで、ありとあらゆる品を運んで来ます。鮮魚や干し魚・野菜・菓子などの基本食品、布や小間物の衣料品、花・苗木・金魚・秋の虫など趣味の品、貸本・古本・酒と楽しみの品など、担げるものなら何でも商売にしていました。
棒手振りは商品を仕入れてからが商売ですから、朝早くに家を出て、売れ行き次第で早仕舞いは可能です。蜆売りは深川産の新鮮な蜆を売りましたが、生ものですから午前中に売り切ってしまいます。
浅蜊や蜆・豆腐・青菜・納豆など、豆腐は賽の目に切ってくれますし、浅蜊や蜆は砂抜きがした剥き身です。毎朝決まった時間に決まった顔が回って来るので、買い置きしなくともOK。江戸の庶民は、長屋の入り口に座っているだけで、衣食住のほぼすべてを完結させることができたのです。
勝手に営むことはできない
このように天秤棒1本あれば誰でも始められた商売ですが、そこはちゃんと幕府が規制をかけていました。人口が流入し続ける江戸では、身元不明の「無宿人」が商人に化けて犯罪に手を染めることを警戒したのです。そのため、棒手振りは町奉行所に登録し、「鑑札(かんさつ)」と呼ばれる営業免許を受ける必要がありました。慶安元年(1648)2月には、無鑑札で商売をした者に「市中晒し3日間、入牢30日間」という厳しい罰則が設けられています。
一方で、幕府は棒手振りを「社会福祉」の側面からも捉えていました。万治2年(1659)、幕府は改めて鑑札を発行する際、ある方針を打ち出します。それは「50歳以上の年寄り」「15歳以下の年若の者」「身体に障害がある者」に対し、希望者には優先的に鑑札を与えるというものでした。
記録によると、棒手振りの半数以上が50歳を超えていたといいます。万治元年当時、棒手振りは江戸の北部だけで5900人、業種は50余り、江戸全体だとその3、4倍の棒手振りが歩き回っていました。
棒手振りは税金を納めていたのか?
店舗を構える商人は、幕府に「冥加金(みょうがきん)」や「運上金(うんじょうきん)」などの営業税を納める義務がありました。しかし棒手振りは店持ち商人と異なり、基本的にこうした営業税の対象外でした。理由は単純明快。彼らはその日暮らしの零細な行商人であり、税をかけても徴収する方が金も手間もかかり、徴税業務に見合うほどの税も徴収できません。しかも貧しい人々の生活を支える重要な仕事であり、厳しく取り締まっては逆に庶民の反発を招くとして幕府も黙認したのです。
ただし、まったくの無税というわけではなく、現代の「ショバ代」や「手数料」に近い出費はありました。棒手振りが組織化された特定の仲間(組合)に入った時は、仲間役に手数料を払います。また、町名主や地主に数文から十数文の通行料「通り銭」を払ったり、仕入れをする魚河岸や青物市場には荷揚げ料や場所代として「立ち銭」を払いましたが、これらも税ではなく、手数料でした。
その日暮らしの棒手振りのリアル
裏長屋に住む棒手振りはほとんどがその日暮らしでした。例えば野菜売りは、明け六つ(5時~6時頃)に起きて、手ぬぐい・前掛け・脚絆・わらじと身支度を整え、天秤棒と籠をかついで蔵前や大伝馬町・神田多町の青物河岸へ仕入れに向かいます。
威勢の良い声が響く朝の市場、直接取引などができない棒手振りは、親方や仲買人が買い付けた商品から、余り物・小ぶり品・規格外品を安く借り入れて商売をしていました。
棒手振りは売り声が命。店を持たないので商品を売るために独特の節回しや大きな声で呼び声を上げ、町中を歩き回ります。
「魚やー、魚ー、いらっしゃい!」
「なっと、なっと、なっと~」
「金魚~え~きんぎょ~!」
など、この呼び声も江戸の風物詩の一つでした。上方から運ばれた上等な品だと言うので「「下り、下り」とも呼び歩きます。
棒手振りのお得意は、裏長屋や職人町、売値は交渉次第、長屋の貧しい人にはおまけも付けます。昼は持参の握り飯か屋台で簡単に済ませ、昼からは別の町で暮れ六つ頃(午後6時ごろ)まで売り歩きます。葉物など午前中に売り切りたいのですが、余ったら午後に値下げして売りました。
親方や仲買人から商品を500~600文程度で仕入れ、売り上げは800~1000文程度になりました。1日の商売が終わると売り上げの中から、借りた商品の仕入れ代金100文につき2~3文程度の利息を付けて親方に返済し、残った金がその日の収入となります。その中からや日割りの店賃や米・味噌代を引けば手元に残るのは100~150文ぐらいです。
晴天の日は良いのですが、大雨や雪で商売に出られない日が続くと、彼らの家計は即座に破綻します。そんな時に手を出すのが「烏金(からすがね)」や「百一文」といった高利貸しです。
これらは担保無し、保証人無しでも町の世話役の口利きがあれば金が借りられました。しかし返済できなかった場合は荷運び・下働き・雑役など身体で返さねばならず、密接社会の長屋で不始末の噂はすぐに広まり、社会的に抹殺されてしまいます。
体が健康であってこその商売ゆえ、一度病気や怪我をすれば、即座に行き詰まってしまう危うさと隣り合わせでした。
おわりに
棒手振りの生活は、決して楽なものではないですが、彼らは単にモノを売るだけの存在ではありませんでした。年が明けて節分になれば「塩鰯と柊の枝」を、春には「桜草」を、夏には「白玉に冷や水」を、年末には暦に「煤払い用の竹」を、彼らが運んでくるのは、四季折々の風情そのものでした。
威勢のいい売り声とともに長屋に活気を吹き込み、時には独り身のお年寄りの安否を確認し、時には子供たちに飴を配る。棒手振りは、江戸という巨大な有機体の中を流れる「血液」のような存在だったのです。
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