藤吉郎が仕えた松下加兵衛(松下之綱)とは何者なのか?
- 2026/02/26
- ※本記事は一部にプロモーションを含みます
2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』ますます面白くなってきましたね!時に第1回放送「二匹の猿」で、8年ぶりに帰郷した藤吉郎(のちの豊臣秀吉。演:池松壮亮)のホラ話をご記憶でしょうか。
「……松下加兵衛(まつした かへえ)様という方にお仕えして……」
妹あさひ(演:倉沢杏菜)は興味津々、姉とも(演:宮澤エマ)はうんざりした様子で聞いていましたね。さて、この松下加兵衛こと松下之綱(ゆきつな)という人物は実在しており、藤吉郎が仕えていたこともあるそうです。
という訳で、今回は松下加兵衛之綱についてご紹介いたします。
「……松下加兵衛(まつした かへえ)様という方にお仕えして……」
妹あさひ(演:倉沢杏菜)は興味津々、姉とも(演:宮澤エマ)はうんざりした様子で聞いていましたね。さて、この松下加兵衛こと松下之綱(ゆきつな)という人物は実在しており、藤吉郎が仕えていたこともあるそうです。
という訳で、今回は松下加兵衛之綱についてご紹介いたします。
藤吉郎との出会いと別れ
松下之綱は天文6年(1537)、松下長則(ながのり)の子として三河国碧海郡松下郷(愛知県豊田市)で誕生しました。幼名は左助(さすけ)、元服して通称を加兵衛、また官途名(私称の官職)を兵部(ひょうぶ)としています。父は兵法家であり、槍の名手だったことから、その薫陶を受けたことでしょう。弟には松下則綱(のりつな)・松下継綱(つぐつな)がいます。
松下家は今川家臣の飯尾(いのお)氏に寄子として仕え、やがて遠江国頭陀寺城(ずだじじょう。静岡県浜松市)を与えられ、城主を務めました。正確な時期は不明ながら、藤吉郎は之綱の城主時代に仕えていたようです。
なお、之綱は藤吉郎と同年齢であり、まだ10代だった藤吉郎が仕えたのは、之綱の父である長則だったのかも知れません。あるいは長則から「之綱に仕えるよう」命じられたのか、父の後見を受けながら之綱が当主を務めていた可能性も考えられます。
あわせて読みたい
ともあれ、松下家に奉公した藤吉郎は、家中で才覚を発揮していきました。利発で熱心な藤吉郎を之綱は可愛がり、また兵法と槍術を指導したそうです。しかし「出る杭は打たれる」と言う通り、周囲の嫉妬が集まってしまいます。仕方なく、之綱は藤吉郎に暇を出し、主従は別れを告げたのでした。
『豊臣兄弟!』においては、藤吉郎は「今川義元様から直々のお誘いを受けたが、織田家に対する忠義からこれを断った」と嘯(うそぶ)いています。
徳川、そして秀吉の家臣に
やがて永禄3年(1560)の桶狭間合戦で今川義元(演:大鶴義丹)が討ち取られると、今川家は斜陽の時期を迎えました。松下家の寄親である飯尾連龍(いのお つらたつ)が今川氏真(うじざね)に叛旗を翻すと、頭陀寺城は今川軍に攻め落とされてしまいます。まもなく今川家が滅亡し、之綱は松平元康(演:松下洸平)改め、徳川家康に仕官します。新参者は最前線に投入されるのが戦国乱世の習いというもの。之綱は高天神城(静岡県掛川市)の守備に回され、しばしば武田勝頼の猛攻にさらされました。
そして天正2年(1574)に高天神城が陥落、之綱らは武田軍に降伏し、捕虜となってしまいます。しかし之綱は羽柴秀吉(藤吉郎)によって召し出され、その家臣として仕えたのでした。藤吉郎としては、かつての恩義に報いたかったのでしょう。之綱も命拾いしたようです。
天正3年(1575)の長篠合戦の際には、之綱は秀吉の前備として100の兵を預けられています。
秀吉から格別の計らい
その後も之綱は秀吉に忠義を尽くし、武功によって丹波国(京都府中部)・河内国(大阪府南部)・伊勢国(三重県)などに3千石の知行を与えられました。いずれも重要な土地であり、之綱が秀吉から深く信頼されていたことがわかります。天正15年(1587)の九州平定でも前備として150の兵を率いて従軍しました。この時、兵の中には之綱が指揮をとることに不満を持った者がいるようです。
「松下加兵衛はそれがしよりも軽輩ではないか……」等々。
そこで秀吉は前備17名にあてて朱印状を送りました。
……松下加兵衛事、御牢人の時、忠節の仁に候間、右儀に、おのおのと同然とはこれあるまじく候……
【意訳】松下加兵衛はわしの若いころ、大変よくしてくれた忠義の御仁である。だからそなたたちは加兵衛と同列と思ってはならんぞ。
その言葉を確かなものとするように、同年に之綱に従五位下(じゅごいのげ)の位階と石見守(いわみのかみ)の官職を与えました。さらに丹波国に知行3千石を加増し、6千石となっています。若いころに受けた親切を、秀吉はずっと忘れていなかったのでしょうね。
やがて秀吉が天下を統一した天正18年(1590)、之綱は遠江国久野(静岡県袋井市)に1万6千石を与えられ、久野城主となりました。
若き日に施した恩が大名の地位……これを「海老で鯛を釣る」と言ったら失礼ですね。何の見返りも求めることなく親切にした真心が、これほどの感謝をもって返されたと言うべきでしょう。
そんな之綱は秀吉と同じ年の慶長3年(1598)2月、62歳で世を去ったのでした。家督は次男の松下重綱(しげつな)が継ぎ、その後も代々栄えたということです。



コメント欄