【ばけばけ連載】最終回:東京に転居したセツとハーンは、そこに〝終の住処〟を得た
- 2026/03/03
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東京に転居することになった小泉夫妻
明治24年(1891)11月、ハーンの熊本第五中学校へ転任が決まり、セツや家族も同行して松江を去った。その後は神戸の英字新聞「The Kobe Chronicle」勤務を経て、明治29年(1896)に東京帝国大学の英語講師に就任して上京し、牛込区市ヶ谷富久町(現・新宿区富久町)の古い武家屋敷を借りて住んだ。
ハーンにはお気に入りの住まいだった。が、家は斜面に囲まれた窪地のような場所にあり、隣接する瘤寺(自証院園融寺)境内の鬱蒼と繁る雑木林に囲まれて昼間も薄暗い。セツのほうは、この陰気な環境に馴染めないでいたところ……代替わりした瘤寺の若い住職が雑木を伐採し、それに反対するハーンと口論になる。例によって癇癪を起こしたハーンが「もうここイヤ、引っ越す」と言いだした。
夫の言質をとったセツは、千載一遇のチャンスとばかり、すぐに行動を起こす。急いで近隣の物件を探してまわり、西大久保村(現・新宿区大久保1〜3丁目の界隈)で売りに出されていた屋敷を見つけて契約した。
私はいつまでも、借家住まいをするよりも、小さくとも、自分の好きなように、一軒建てたいと申しますと、「あなた、金ありますか」と申しますから「あります」と申します。「面白い、隠岐の島で建てましょう」といつも申します。
私は反対しますとそれでは「出雲に建てて置きましょう」と申しますから、全く土地まで探したこともありました。しかし私はそれほど出雲がよいとも思いませんでしたから、ついこの西大久保の売屋敷を買って建て増しをすることに、とうとうなったのでこざいます。
とは、セツの回想録『思い出の記』の一節。
ハーンもこの時は半分冗談で言っていたようだが、いつ本気になって隠岐や出雲への移住を画策するやもしれず、油断ならない。早く東京で家を見つけて買ったほうがいい。と、この先も便利で気楽な都会暮らしをつづけたいと願うセツは先手を打った。
ハーンが住まいに求める条件は「田舎であること」「庭が広く樹木がたくさんあること」だった。この屋敷はその条件にぴったり当てはまる。ここなら文句は言わないだろう、と。
豊かな自然に囲まれた閑静な場所ながら、都心部に近く都会暮らしを満喫できる。この村はふたりの理想に適合した居住地だった。
夢のマイホームを求めてセツが奔走
西大久保村は、富久町の借家から徒歩15〜20分と近い。JR山手線・新大久保周辺の一帯がそのエリアだが、この頃は富久町と同じで人家も疎な郊外だった。
蟹川流域の低湿地にある農村は、広々とした田園地帯に陽光が燦々と降り注ぐ。畑の中に点在する藁葺き屋根の農家の庭先には、収穫した野菜が山積みになっている。朝には東京市中から大勢の業者が野菜の買い付けにやって来て、村に通じる道筋は大八車の行列でにぎわう。木々に埋もれて薄暗く陰気な富久町の旧宅付近よりも、セツにはこちらの雰囲気のほうが好ましい。
西大久保村の集落は、整備された街道沿いにあり、都心との行き来が容易なことから、維新後は多くの華族が別邸を建てるようになった。セツが購入した屋敷も旧備中松山藩主の板倉子爵が所有していたもので、広々とした敷地は800坪になる。
屋敷は老朽化して傷んだ箇所も見られ、あちこちに手直しが必要だった。書斎や書庫も増築せねばならない。居間や子供部屋から遠ざけた離れに書斎があれば、ハーンも騒音に煩われず執筆に集中できるだろう。
大工や左官など職人との打ち合わせもすべてセツがやる。富久町から西大久保村まで、距離は近いが急坂が連続する。子供を産んでから太って歩くのが苦手なセツにはハードだが、ほぼ毎日、彼女は現場に通い詰めて工事の進捗状況をチェックして、職人たちに細かい注文や指示を出していたという。
日本風の屋敷だが、寒いのが苦手なハーンのためにストーヴの焚ける部屋を作り、そこだけは障子ではなく西洋風のガラス戸にして暖房効率を高めるよう工夫した。細部にも配り、住み心地にこだわる。夫が執筆に集中でき、家族が快適に過ごせる家にしたい。と、改築工事の監督に心血を注いだ。
ハーンは改装が完了した屋敷の中をあちこち眺めまわしながら「面白い」「楽しい」と満足そうに微笑む。その笑顔を見てセツも安堵し、ここがふたりの終の住処になることを確信する。安住の地、一番欲していたものをやっと手に入れた。
火葬場の煙に人生の終焉を予感
西大久保村に転居してからも、ハーンの散歩好きはあいかわらず。浴衣に下駄履きといった近所を歩くようなスタイルで、往復10キロくらいは平気で歩く。50歳を過ぎても健脚は衰えない。セツも時々、人力車の助けを借りて散歩に同行する。家族団欒のひと時を楽しんでいた。最も足繁く通ったのが鬼子母神のある雑司ヶ谷の界隈。西大久保村の集落を東西に貫く真っ直ぐ伸びる道を渡って北上し、陸軍演習場がある戸山ヶ原の丘陵地を横断する。軍隊が射撃訓練をする時には道沿いに赤旗を掲げて通行禁止となるが、それ以外の日は通り抜けが許される。まだのどかな時代だった。
戸山ヶ原を過ぎ、神田上水に架かる面影橋を渡れば、旧鎌倉街道の風情がしだいに濃厚に。江戸時代には竹林が生い茂って昼間も暗く、狐や狸が現れて通行人を騙していたという。
また、道沿いには落語「怪談乳房榎」ゆかりの寺として知られる南蔵院もあり、セツがそれを見過ごすわけがない。話を仕入れてハーンに語って聞かせたことだろう。
南蔵院を過ぎれば、すぐに鬼子母神の参道が見えてくる。この辺りも雑木林が鬱蒼と繁る静かな場所、ハーンは雑司ヶ谷を「寂しい景勝地」と言って、東京では一番のお気に入りの場所になっていた。
また、散歩ルートの道中にある戸山ヶ原は、この頃まだ建物がほとんど見あたらず。演習場や牧草地が広がる見晴らしのいい丘陵だった。青々と繁る草原の彼方には、落合の火葬場の煙突が見える。
ここでよく立ち止まり、火葬場の煙突から流れる煙を眺めていたという。長男の一雄を連れて散歩にでかけた時に、火葬場の煙突を指差して「もうじき私も、あの煙突から煙になって出ます」と言ったことがある。それを息子から聞いたセツが、
「小さな子供に言うことではありません。それに、まだ長生きして下さらねば困ります。あなただって孫の顔を見たいでしょう?」
と、諭したところ、
「見たいです。しかし、難しいです」
ハーンは悲しげにそう返答した。あの時の表情がセツは忘れられない。
いまも夫妻の墓が寄り添うようにして建っている
西大久保村に引っ越してから丸一年が過ぎた明治36年(1903)3月、ハーンは東京帝国大学を解雇されてしまう。解任の噂が流れると「ヘルン先生のいない文科で学ぶことはない」と大勢の学生が大学側に詰め寄り、解任撤回を求めて大騒ぎになったという。彼が講義で語る言葉は、ロマンチックで情緒にあふれ、文学好きの若者たちにはツボだった。また、自分で考えさせて答えを見つけさせるというやり方に、学生たちは探究心を刺激されて面白がる。
ハーンの後任として英語講師に就任したのが夏目漱石だった。彼はイギリス留学前に熊本第五高等学校へ英語教師として赴任したこともあり、ふたりの文豪はなにやら因縁めいたものを感じたりもする。
この2年後、漱石は『吾輩は猫である』を発表して人気作家になるのだが、当時、講師としては学生から不人気で評判が悪い。彼の講義はハーンと真逆、英語を理詰めに分析しようとする。それが退屈でつまらなく「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と、学生たちはハーンの講義と比較して批判する。
あげくに、受講のボイコットや所属学科の変更を願い出る者まで現れた。漱石はそれをかなり気にして、「自分のような書生あがりが、英文学の権威者である小泉先生のような立派な講義ができるはずもない」と、妻の鏡子に愚痴をこぼし、神経衰弱や胃弱の症状を悪化させたとか。
しかし、東京帝国大学がハーンに支払っていた年棒は漱石の6倍。ロシアと緊張が高まり軍事費は拡大の一途、その皺寄せで大学予算が大幅に削減されている。学生たちの評判が良くても、緊縮財政下で高給取りのお雇い外国人をいつまでも雇いつづけることは難しい。リストラは致し方ないところか。
講師を辞めてからのハーンは書斎に篭って執筆する時間が増え、それを手伝うセツの仕事もまた増えていた。神田や浅草などの古書店をめぐり、妖怪や怪談に関する古い文献を探しまわる。手に入れた本の内容をハーンに語って聞かせれば、それが物語に仕上げられてゆく。
それは10年以上もつづくふたりの共同作業だった。そして、明治37年(1904)4月にはその集大成ともいうべき『怪談』が出版された。
また、『怪談』が出版される1ヶ月前に、早稲田大学からハーンに英語講師就任の要請があり、再び教壇に立つことに。年棒2000円、帝国大学で貰っていた給料の半分以下の額だが、帝国大学で受け持っていた講義は週12時間。一方、早稲田ではわずか週4時間である。時給で換算すればこちらのほうがよっぽど高給、破格の条件といっていい。
西大久保村の屋敷から早稲田大学までは直線距離で2キロほど。戸山丘陵を越えていった先にある。ハーンの体調が万全ならば、人力車など使わずに散歩がてらに歩いて通ったかもしれない。しかし、ここのところ体調を崩すことが多くなり、あまり散歩もしなくなっていた。
それでも8月には毎年恒例となっていた静岡県焼津への避暑旅行に出掛けたが、帰京後に体調を崩して寝込んでしまう。それからしばらくして胸の苦しさを訴えて昏倒。狭心症の発作だった。
明治37年(1904)9月26日、ハーンは息を引きとった。享年54。
「私、死にますとも、泣く、決していけません。私の骨、田舎の寂しい小寺に埋めてください」
それが最後の言葉、遺言となる。
雑司ヶ谷には、明治9年(1876)に東京府管轄の墓地が設置されている。セツはそこに墓地を購入してハーンの墓を建てた。雑司ヶ谷はハーンが晩年に好んだ場所である。人家がまばらで深い森木立に囲まれた当時の環境は、ハーンの遺言である「田舎の寂しい小寺」のイメージにもぴったりの場所である。
現在も雑司ヶ谷の墓地には「小泉八雲之墓」と刻まれた墓石が現存し、その側にはセツの墓石が寄り添うようにして建っていた。
この墓石を眺めていると「ふたりの安住の地」「終の住処」と、そんな言葉が頭に浮かんでくる。
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